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屁っこき娘と噓つき坊ちゃま  作者: 青戸部ラン
二章 本物の嘘つき
12/24

12話

 ドカドカと歩み寄る冬史郎の表情からは激しい怒りが読み取れた。怒りに染まった美しい冬史郎の顔の迫力に、誰しもが動けずに立ちすくんでいる。

 そんな中、屁の音を巴に聞かれていなかったことに安心した夏花だったが、迫りくる冬史郎の姿に、本来であれば自分は部屋にいるはずであることをハッと思い出した。


(あっ! そういえば私、ご主人様との言いつけを破ってここにいるんだった……! それであんなに怒っているんだわ)


 そうこうしているうちに鬼のような形相の冬史郎が、夏花たち同様に驚いている艶子を押しのけ、夏花の手をガシっと掴んだ。


「部屋にいろと言った……ん?」


 何かを言いかけた冬史郎の鼻が、話の途中でスンスンと動く。


「ご主人様……?」


 手を掴まれたままの夏花は、ピタリと止まってしまった冬史郎に声をかけた。夏花は何かをかぎ分けようと鼻を動かす姿にハッとした。

 夏花が思い当たったのは先ほどの「屁」だ。冬史郎はその場に残った屁の気配を敏感に察知したのだ。


「も、もしかして……」

「はっ! ゴホン……ところで皆さんここで何をしているんですか」

 

 嫌そうな顔で一歩後ずさった夏花に気づいた冬史郎は、すぐに何食わぬ顔をして艶子に向き直った。


「……お、お仕事をしているのを見かけたから、精が出るわねとお話をしていただけですよ」


 冬史郎の剣幕に驚いていた艶子だが、そこで慌てて笑みを作り直し口を開いた。


「それより、ずいぶんその子がお気に入りのようですね。冬史郎さん? 夏花さんも知らないふりなんかしちゃって。私には反対する権利はないのですもの、隠さなくてもいいんですよ」


 からかうような口調と共に、夏花にむけられた艶子の瞳の奥は全く笑っていない。夏花は背筋に冷たいものが走った。


(これは絶対怒らせてしまったやつだわ! でも屁が出ない。言ってることは嘘じゃないわ……んん?)


 艶子の発言と態度、そして言葉に込められた本音のちぐはぐさに夏花が戸惑っていると、いまだ手を掴んでいる冬史郎の手にぎゅっと力がこもる。

 夏花が思わず見上げると険しい冬史郎の横顔があった。


「家の使用人に勝手に声をかけないで頂きたい。艶子さん、あなたの連れてきた女中たちはどこに行ったんですか。人の家をウロウロと……。家探しするようにでも躾けているのですか?」


 嫌悪感と苛立ちをにじませながら答える冬史郎の手は、いつの間にか熱を失い、冷たくすら感じる。一方で艶子は笑みを絶やさず、たおやかに首を傾げながら答えた。


「あら、ここは私の家でもあるんですよ。それにあの子たちなら多分その辺にいるわ。躾のなっていない動物とは違いますから悪戯なんてしませんよ」


 そう言いながら艶子はフイっと冬史郎から目を逸らし、今度は夏花の背後に立つ巴に眼差しを向けた。艶子の視線に巴が身を固くしたのが直接見ずともわかる。夏花は振り向きたい衝動に駆られたものの、強く掴まれた手に引き留められるような感覚に襲われていた。


 わずかな間の後、艶子は再び冬史郎に視線を映した。


「……でもまぁ、今日の所は失礼しますね。今度は彼女たちのような素晴らしい女中がどうすれば育つのか、教えていただきに参りますわ」

「ふっ、それはそれは。人のものを欲しがってばかりのあなたのことだから、連れて帰るとでも言われるかと思いました」


 冬史郎の刺々しい物言いに、艶子は困ったように眉を下げて笑った。


「ふふふ……どうもご機嫌を損ねてしまったようね。それではまたね、巴さん――」


 別れの言葉と共に艶子の瞳は巴に向けられ、そしてゆるりと夏花を捉えた。柔らかく細められた瞳の奥には、固い表情の夏花が映っている。


「夏花さんも……」


 形の良い唇から紡がれた自分の名は、どこか違う世界の言葉のようだった。

 艶子は音もなく振り返ると、広縁をゆったりと立ち去った。その後ろを八尾が追い、薄暗い座敷には冬史郎と夏花、そして巴が残された。



 艶子が部屋の角を曲がり、八尾の背中もすっかり見えなくなると、冬史郎がおもむろに口を開いた。


「……部屋を出るなと言っただろう」


 明らかに不機嫌なその声に、夏花は冬史郎の顔が見られず自分のつま先に目を落とした。足袋の先がうっすら汚れている。きっとさっきの掃除で汚れてしまったのだろう。


 何も答えない夏花に冬史郎は見切りをつけたのか、先ほどから一言もしゃべらず、すっかり青ざめてしまっている巴に目を向けた。


「君が夏花を出したのか?」


 下働きの巴が主人である冬史郎に直接声をかけられることなど滅多にない。にも関わらず、咎めるような声色で尋ねられたとあれば、その衝撃は如何ばかりだろうか。

 夏花が慌てて巴を振り向くと、唇を震わせた巴が青い顔で冬史郎に謝るところだった。


「い、いえ……。あの、申し訳ございませ――」

「巴ちゃんのせいじゃありません!」


 冬史郎が巴に向ける視線の間に割り入った夏花は、必死で巴の言葉を遮った。冬史郎は声を張った夏花に一瞬驚いたものの、眉間の皺を深め、強く夏花の手を引いた。


「……行くぞ」

「あっ、と、巴ちゃんっ……!」


 夏花は冬史郎にぐいぐい引かれるままその場を後にした。最後に呼びかけた夏花の声に、その場でうつむいた巴が顔を上げることはなかった。

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