10話
布団部屋の隣の座敷は長い間放置されていたらしい。うっすら積もった埃を箒で掃きながら、巴が夏花に尋ねた。
「夏花、大丈夫なの?」
「ん、何が?」
長押にはたきをかける手を止め、夏花は巴を振り向いた。しかし巴は手を止めず、サッサッサ……と小気味良い箒の音が聞こえ続ける。
「いや、噂ではすごくいじめられているって聞いて……。上女中の間はその話で持ち切りで、私たち下働きにも聞こえてくるくらい」
箒の動きを目で追いながら、巴は言いづらそうに続けた。
「ねえ、夏花。私に何か力になれることある? もし辞めたいって言いづらいなら私が言ってあげられるし、ご主人様のお世話も私が代わってあげることだってできると思うんだ!」
そこでようやく巴は手を止め、夏花の顔を見た。必死さすら感じられる表情は、心から夏花の事を思ってくれているように感じる。
(真剣な顔……。それに屁も出ない。巴ちゃん、本当に私のこと心配してくれているんだ。嬉しい……)
夏花は鼻の奥がツンと痛くなって来た。先ほどまでささくれ立っていた心にじんわりと温泉のように染み入る巴の優しさに、むくむくと元気が湧いてくる。
「大丈夫よ! 確かにご主人様は口は悪いけど悪い方じゃないわ。なんというか、うーん………………とにかく悪い方じゃないわ。心配してくれてありがとう、巴ちゃん」
冬史郎を評する言葉探しを諦め、夏花は巴ににっこり笑って見せた。笑顔を作り、夏花は最近笑っていなかったことに気づいた。
(そういえば久しぶりに笑った気がする。ここ最近、しかめっ面しかしていなかったから……)
そう思えば余計に嬉しさがこみ上げてくる。
夏花がニコニコと巴を見つめていると、巴は少し困ったように眉を下げ、
「そうなんだ……。それなら良かった」
と一言返し、再び箒を持つ手を動かし始めた。
巴に遅れないように夏花もはたきをかけ始めると、しばらくして巴がぽつりと口を開いた。
「……素敵だよね、ご主人様」
「えっ……?」
意外な言葉に振り向いた夏花の目に入ったのは、表情のきえた巴の顔だった。
「私、ご主人様に数える程しか会ったことが無いけど、あの日広間で見たご主人様はとっても素敵だった。私あんなにきれいな人、生まれて初めて見たんだ」
そう言いながら夏花に向ける巴の眼差しには、ドロリとした感情がまとわりついている。喉の奥が詰まるような感覚に夏花は無意識に唾を飲み込んだ。
「私、夏花がうらやましいな。ねえ、どうして夏花だったの?」
「巴ちゃん……?」
これまでの巴の言葉に夏花の屁が湧き上がることはなかった。つまり巴の語る内容は全て本音だ。
(うらやましいって、もしかして巴ちゃん……ご主人様のこと……)
夏花はハッと気づいた。そこまで言われれば夏花だってわかる。鬼気迫る巴の表情は冬史郎への思いの表れなのだろう。
(いくら巴ちゃんでも『ご主人様には私の屁が必要だから』なんて言えないし、それは私の名誉にかかわるわ。でも、巴ちゃんには正直にありたい……。私、どうしたら……)
「どうして教えてくれないの? それとも夏花が選ばれたのには、私にも言えないような理由があるの?」
「え、っと……それは」
まっすぐ向けられる巴の視線から逃れるように、答えに窮した夏花は忙しく目を彷徨わせた。
――その時だ。
「あら、皆さん精が出ますね」
柔らかく響く声に二人の間で止まった空気が動いた。薄暗い座敷で向き合っていた夏花と巴は、弾かれたように声の主に目を向けた。
(助かった……。けど誰? 綺麗な人……)
肩の力が抜けた夏花は、ようやく息が出来た気分だった。
広縁から座敷を覗き込むのは、一人の女性だ。朱色の着物に、刺繍がきらめく帯。豊かな黒髪は美しく結い上げられ、濡れたような唇は優しく弧を描いている。同性でも思わず見とれてしまう雰囲気を持つ女性に、夏花の目はくぎ付けになった。
「お、奥様……」
「っえ?」
夏花の背後から巴の震え声が聞こえた。驚きの声を上げた夏花の脳裏に、今日の来訪者の存在が冬史郎の声と共によみがえってきた。
(『僕は絶対にあの人と君を会わせないからな。絶対に部屋から出てくるんじゃないぞ』――って言われてたけど……、会ってしまいました。ご主人様……)
夏花は再び目の前の女性に視線を戻した。
冬史郎の継母であり、その冬史郎から「絶対に会わせない」と耳にたこができるほど聞かされ続けた人物――丹羽艶子は相変わらず優雅に微笑んでいた。
上女中:接客や主人の世話をする人達。(作中では「女中」と表現)
下女中:炊事洗濯掃除など。(←夏花はこっち。作中では「下働き」と表現しています)