時代に翻弄された、ある少女のその後の人生
隊はその後、途中数人の敗残兵と合流しながら約十日間密林の中をさまよう、そしてようやく北部山岳地の洞窟に落ち着く。携行した食糧もどんどん目減りして、日を追う毎に一回の配給量も減っていく。その為に食いしん坊の美佐子がここに来て急激に痩せて来た
。愛子はそれが心配だった。この日の配給は乾パンが一人に付き四個、たったそれだけだった。小さな洞窟の奥で愛子と美佐子が向かい合い、僅かな乾パンを見詰めていた。
「美佐子、私の分も食べなさい」
「駄目です班長殿も食べないと持ちません、私は大丈夫です」
「私は貴方が心配なの、そんなに痩せて、着ている服が緩々じゃない、私も痩せたけど美佐子程では無い、私はいいから、美佐子に食べさせたいの」
「班長殿、お気持だけで充分です、母が知ったら怒ります、恥ずかしいことは出来ません」
「ここにお母様は居ないじゃない、誰も咎めたりしないは」
「でも駄目です、それは班長殿が食べて下さい」
美佐子は頑として受け付けなかったが、愛子の
心配りが嬉しかった。
「班長殿、本土に帰ったら、私の家で嫌と言う程食べましょう、それまで我慢です」
「あら又招待してくれるの]
「はい勿論です、母のオハギ楽しみにして下さい、次は特大を御用意します」
「楽しみね」
「はい!」
こんな話をして気を紛らすしか、飢えを凌ぐ手立てが無かった。
雨宮達が集まる洞窟では此れからの対策が練られていた。戦局は著しく悪い、その事だけは確かだった、合流した敗残兵の情報によれば、七月七日に最後の一斉攻撃を行う事が守備隊に命令されたらしい。南指令を中心に、隊の方針が話されていた。
「それは確かな情報か?」
「はい間違い有りません、海軍が中心に最後の攻撃をかけるそうです、それに呼応して各隊はゲリラ戦をして、敵をかく乱しむる事とお触れが回っているそうであります」
「そうか、だとしたら我々も参加せねば成らないな」
「しかし、この兵力で何が出来ますか、軍医の私ですら、この状況は理解できます。無傷の者は十数名、他は腕や頭部に負傷した者が十五名に衛生兵が四名です、まともな武器も各人に行き渡る程有りません」
「この期に及んで何を言うか、一斉攻撃とは詰まり玉砕だ、死ねと言っているのだ、兵力など如何でもいい。勝敗の行方が大事では無いのだ、帝国軍人として如何死ぬか、それが大切なのだ。食糧も既に無い、このまま此処に留まって居ても、何れ飢えて死ぬだけだろう。皆の意見を聞きたい、どちらを取るか、このまま此処で果てるか?それとも軍人らしく誇り高く死ぬか?どちらだ?」
南の言葉が重く圧し掛かる、思い空気が辺りを支配する、その時雨宮が口火を切る。
「指令殿、軍人らしく死にましょう,元より帝国陸軍に入隊した時点で、既にこの身の命は捨てる覚悟でした、どうせ死ぬのなら誇り高い死に方をしましょう」
他の兵も雨宮の言葉を切欠に次々と賛同する。只一人景山だけは回りを気にして同意の
真似だけをしていた。
「皆有難う!気持は解った、その命私が預からせて貰う、よし明日早速出立だ、七日まで後二日しかない、それまでに山を降りておかねばならん」
「{一同}はい!」
次の日の早朝は朝靄が舞い、何時ものサイパンとは異質の雰囲気が漂っていた。その中を景山が愛子の洞窟へ遣って来た、最後の別れを告げに来たのだ。
「婦長、少し良いですか」
愛子には景山の表情が曇っている事が瞬時に理解出来た、何か有ると思いがよぎる。
「はい?こんなに朝早くに如何されました」
「そうですね、今でないと時間が無いので申し訳ありません」
淡々と話す景山の様子から、普通で無い事を愛子は察する。
「美佐子、少し外で話して来るね」
「はい」
二人は靄の中を、ゆっくりとした歩調で
歩く。二人に話かけているみたいに鳥達の鳴き声がジャングルに木霊していた。
「実はお別れを言いに来ました」
愛子は状況が理解出来無い、予想外の言葉だ、{え?お別れって?何?}愛子の驚く表情を確認しながら、景山は淡々と続ける。
「お別れです、昨晩遅くに作戦会議で決まりました。我々残りの全ての兵は一斉攻撃に参加する事になりました」
「それって、もしかして」
「そうです、死を前提にした攻撃です、玉砕です、勝ち目など有りません、如何に死ぬか、それが為の作戦です」
「待って下さい、軍医殿は兵士と言え、戦闘経験など無いで有りませんか、そんな事拒否するべきです」
「出来るならそうしたい、でも満場一致で決めた事なのです、私だけ例外は許されません」
話をしている端から愛子の頬を涙が伝っていった。泣きながら必死で止めようとする。
「そんな!急に言われても、私は如何すれば、嫌です、行かせません、私を一人にしないで!」
愛子は景山に抱きつき懇願する。
「解って下さい、私も辛いのです」
「あの時の約束はどうするのですか?私に立派な姿を見せてくれると言いました」
「はい」
返事はするが力ない、その瞳は愛子がいつも見ているそれとは違っていた。
「それに皆で休暇に出かけた時、浜で言い掛けた事、覚えていますか?あの続きを未だ聞いていません、お気持ちは解っていますが、正式な言葉が聞きたいのです」
愛子の思いと、涙に答える様に景山は身を正して、愛子に求愛の情を伝える。
「解りました、婦長、いや愛子さん、言います、私の嫁に成って下さい」
聞きたかった一言だ、だから余計に今の状況から逃げ出したいと、愛子の切なる思いが
更に言葉に憑依する。
「はい!私に異存は有りません、嫁にして下さい、だから行かないで、私を置いて行かないで。そうだ二人で逃げましょう!二人なら何とか成ります、そうして下さい、お願いです、行かないで」
愛子は景山を行かせまいとして必死だった
、何とかして景山を留まらせたかった。
「出来ません、私だけ逃げる事など、それは男として、軍人として、してはいけない事ですから」
景山は激しく頭を振り、愛子の両肩に手を乗せて愛子を落ち着かせる。
「じゃあどうすれば、あんまりです、この期に及んで、あんまりです、愛している人が
死んで行くのを見送れと言うのですか?」
「すみません。無力な私を許して下さい」
「許しません、そんな事許しません」
「愛子さん私も行きたくありません、でも行かねば成らないのです(景山は我慢出来ずに涙声に)愛子さん貴方は最高の人です、私の理想の女性です、好きです大好きです、愛しています」
「私も光成さんが大好きです、もっと強く抱きしめて下さい」
景山は愛子を強く抱きしめ、口付けする、愛子も景山の全てを吸い込む勢いでそれに答える。それは僅かな時間だが愛子と景山には永遠と思える一瞬だった。
「離れたくない、ずっとこうしていたい、
あぁ!こんなに悲しい事がこの世に有るなんてあんまりだ!」
景山は愛子を抱きかかえ思いの丈を伝える
「私も連れてって下さい。せめて一緒に死なせて下さい」
愛子も景山に縋りつき請願する。
「駄目です、婦女子は戦闘には連れて行けません。生きて下さい、私の分まで生きて下さい。そして伝えて下さい、ここの状況を後世の世代へ」
「生きて行ける自信など有りません、貴方無しで如何して生きて行けますか?」
「それでも生きて下さい、私が見守っています、だから」
「嫌です、嫌です、離さないで、この手を離さないで」
景山はそっと愛子から離れると、その手を
優しく解き、愛子を改めて見つめる。
「もう行かねば成りません、(涙を拭いて)愛子さん、いいや、愛子、行きます、私を愛しているのなら、その最愛の人らしく送り出して下さい」
景山は吹っ切れたらしく、さっと離れて敬礼する。その顔は覚悟が出来ている様子だった。観念した愛子も悲しみを堪えて景山を送りだす覚悟を決める。
「解りました。行くのですね」
「はい、行きます・・・」
景山は少し行きかけて立ち止まり、振り返る。
「最後に、お願い事が有ります、聞いて下さいますか」
「な、何ですか?何でも話して下さい」
「これは、愛子の心が許す場合に限ります、昨晩弟の夢を見ました、弟が夢枕に立って此方を見ているのです」
「えぇ」
「その弟に言ってやったのです。お前に最適の嫁さんを見つけたと、必ず尋ねるから、誰とも結婚せず待っていろと」
愛子は黙って景山を見つめながら聞き入った。
「そうしたらアイツ、兄貴が気に入った人なら、間違い無いから待っていると。そう言いやがって・・・浜で以前話ましたね、良く同じ夢を見ると」
「はい」
「霊的な事を私と弟は信じています、私達には解るのです、双子ならではの霊感です。必ずアイツも同じ夢を見ている筈です、もし愛子が嫌で無いなら、そして生きて帰れたら、弟の嫁に成って下さい。これが私の最後の願いです」
「そんな事、いくら同じ顔だから、軍医の
代わりを弟さんに求めるなんて・・」
愛子がここまで言いかけると、景山はそれを制して強い口調で最後の願いを語る。
「それは違います、{涙が堪えきれずに出てくる}私の代わりなどでは決して有りません。弟こそ貴方にふさわしい、私よりむしろ弟が最適です、それに、たとえ死んでも私は弟と霊的に結ばれている、貴方が弟の嫁になれば、私は弟を通して貴方を感じ、触れられる、貴方を愛せる、弟の嫁に成ってくれれば、私は貴方のそばに何時までも居られる、一緒に考え、子育てが出来る、お願いです最後の私の願いです、ハイと言って下さい」
もはや言葉に成っていなかった、嗚咽と言って良い表現だ、景山の懇願に愛子は頭を下げ、はいと返事をする。愛子の返事を確認すると景山は胸ポケットから小さな紙片を取り出し、愛子の手にそっと乗せる。
「これを持っていて下さい、実家の住所が書いてあります」
愛子は悲しさに震える手でその紙片を受け取る、
「それでは、参ります。なにも出来ずに行く私を許して下さい。最後は見事に果てます」
敬礼する姿が凛々しく眩しかった。
「行ってらっしゃいませ」
愛子は一礼して送り出す。抱きつきたい思いをぐっと堪えて。
景山もそれ以上は何も言わず、振り返りもせず歩いて行った。ゆっくりと木立の中に消えていくまで、愛子はじっと見送っていた。これが景山を見る最後だった。
麓の茂みから南指令以下の隊が、遠目に米軍を望みながら腰を屈めて待機していた。
「雨宮!敵の数はどれ位か?」
「見える範囲でざっと一個中隊です、百人以上はいるかと」
「相手に取って不足無しだな、正々堂々と正面から行こうじゃないか、どうだ?」
「はい、敵の銃座も此方を正面に沢山向いています、潔く死ぬには持って来いです」
「よし!行くぞ!」
そう言って、南は従兵が担ぐ担架に跨り、左手に日章旗を持つ。
「指令殿これを」
雨宮は自分の腰の軍刀を差し出す。
「いいのか、これは貴様の賜物ではないか」
「自分には此れが有ります(短銃を示す)」
「すまん、借り受けるぞ」
南は右手に軍刀を、左手に日章旗を掲げて
、出陣の雄叫びを上げる。
「前えー進め!」
それを合図に隊は茂みから体を晒す所まで進む。
米軍海兵隊の野営基地、タッドとキースや
、その仲間が休息していた。視線の先の茂みの異変に気づく。
キース「おい、ありゃ何だ?」
タッド「日本軍の敗残兵か?白旗が見えるが
」
キース「いいや、違うぞ、(双眼鏡で覗くと)ミートボールだ(日の丸の俗称)まさか、撃って出るつもりじゃあないのか?」
タッド「だとしたら、正気じゃ無いぞ、見ろ手にしている物は何だ?半分位は棒じゃあないか?」
キース「(双眼鏡越しに)あぁそうだ、狂っているのか?」
南は、一旦出てから歩を止め、改めて掛け声を掛ける。
「突撃!」
南の声を合図に兵は(オー!)と大声を上げて、タッド達の野営地目掛けて走り出す、それを認めた、隊の銃座が一斉に火蓋を切る、南が最初に倒れた、持っている旗が集中砲火にあって、その後も次々と兵が倒れて行く、最後まで走っていた、雨宮と景山もその胸に銃弾を浴びて、血飛沫を上げて
バッタリと仰向けに倒れる。その間僅か三分
とかからず隊は全滅した。本当に呆気無く。
後には静粛が戻り、倒れた兵達はピクリともせず、言い表せぬ悲壮感が包んでいた。
タッドとキースは生死の確認の為に、倒れて動かない南達の遺骸を見て回っていた。
キース「何なんだ?こいつらは、いったいどうしたらあんな行動が出来る。大馬鹿か?それとも英雄か?」
タッド「そのどちらでも無い」
キース「じゃあ何だ?」
タッド「さあわからんが、日本人は捕まる事に恐怖している、嫌、恥じているのかもな」
キース「恥ねぇ、理解出来ない奴らだな」
洞窟に残された愛子と美佐子は、食べる物も無く、水さえも底を尽き、歩く体力も残っていなかった。愛子の痩せ方も酷かったが、美佐子の痩せ方は尋常でなかった。景山と別れてから丸四日間が経ち、二人の体にも限界が見えて来た。最初に体に変調が来たのは美佐子だった。朝、愛子が目を覚ますと、隣の美佐子の異変に気づく。
「美佐子、如何したの?何処か具合が悪いの」
愛子は力の入らない体に鞭打ち、震える手で美佐子のおでこに手を当てる。
「(力無く)はい、班長殿、もう駄目みたいです」
「何弱気な事を言っているの、気を確り持ちなさい」
美佐子の頭を自分の胸に抱きよせて、その頭を優しく撫でまわす。
「そうしたいのですが、先程から目が殆ど見えません、寝返りを打つ事も出来ません、力が入らないのです」
「動かなくていい、だから気だけは確り持って。そうだ、思い出を話しなさい、楽しかった事を話しなさい」
美佐子の手を握り締める、美佐子も力無く
愛子の手を握り返して来た。
「思い出ですか、・・・そう、お母さんのオハギが食べたい、班長殿も食べたあの、あのオハギです」
「解る、美味しかったあのオハギね」
「母さんのオハギは絶品です。あぁ母さん私・・・班長殿・・今度・今度帰ったら母さんにしかられるのです」
「馬鹿ね、しかられるじゃ無くて、甘えるのでしょ」
「はい、甘えたいからしかられるのです、母は私が甘えると、(甘えるのじゃありません)と必ずしかるのです、父が私に甘い分、母は事の外私に厳しいのです」
「解る、私にそう話して下さった」
「だから私にとっては甘える事とはしかられる事なのです、だから今度本土に帰れたら、一杯しかられるのです、沢山甘えてその分沢山しかられて、・・・そうだオハギを一杯食べて、吐くまで食べて、それで母にしかられるのです、きっと大カミナリです」
「そう、その為にも生きて帰らないと」
愛子は美佐子の手を揺さぶって、必死で美佐子の気力を鼓舞しようとする。
「そうしたい、そうしたいです、あぁどうしてもっと叱られとかなかったのだろう、もっと沢山しかられとけば良かった。母にしかられたい、母に・・・」
「美佐子!如何したの、美佐子!」
「班長殿、御免なさい、もう駄目そうです、私、わ・た・し・・・」
そういい残して、美佐子は事切れてしまう
、目も閉じず、半分開いたその瞳からは涙が一滴流れていた。
「美佐子、美佐子!」
愛子が美佐子を何度も揺するが美佐子は全く反応が無かった。
「美佐子、私を一人にしないで、お願いだから目を覚まして、一人にしないで」
愛子の問いかけが空しく洞窟に響き渡る。
美佐子に先立たれ、一人になった愛子は泣き疲れて、そのまま眠ってしまった。暫くして気が付くが、その後は何もする気力も無く、美佐子の亡骸と共に自分もそのまま飢えて死ぬつもりでいた。美佐子の側に横たわり、じっとして耳を澄ましていた。やがて体力も無くなり目を開けているのも億劫に成って来た、ああもう自分も駄目かもしれない、このまま逝こう、静かに穏やかに愛子の意識が薄れ行った。愛子は幻聴を聞く、誰かが愛子を呼んでいる声を、それはやがてハッキリ聞こえてきてそれが亡き母の声に聞こえて来た、微かに覚えている母の声に感じたのだ。愛子は消え行く意識の中で、必死でその声に答えていた。(母さん、母さん)と。
タッドの隊は山岳地帯の洞窟に潜む敗残兵の掃討を命令されていた。不満を言いつつも、タッドは同僚のキースと共に洞窟を虱潰しに捜索していた。
キース「この辺りの洞窟はもぬけの殻だろ」
タッド「文句を言うな、命令は絶対だ、もしもの事も考えたら、仕方ないだろ」
キース「そりゃ解るが、いったい幾つ有る?
小さいケーブを入れたら、切りが無いぞ」
タッドは丁寧に小さな洞窟も捜索する、誰も居ないと解っても、入り口付近で中に向かって英語で(誰か居ないか)と叫んでいた。
ある小さな洞窟に来た時だ、同じ様に中に向かって声を掛けると、何か小さな返答が有るのに気づく。
タッド「誰か居るぞ」
キース「だったら危ないぞ!敵兵かもしれない簡単に近づくな」
タッド「違うぞ!女の声だ、それもか細い声だ、入るぞ」
キース「おい待て!タッド、危険だぞ」
キースの制止にも構わずにタッドは中に入って行く。
キース「おいおい、しょうがないな」
キースは仕方なくタッドを追う。タッドが
用心深く歩を進めていた、中に入ってさっきの声がハッキリ聞き取れた、女性の声だが日本語なので、それが何の意味かは不明だった
。少し奥まった所を過ぎるとそこには美佐子の亡骸と、それに寄り添いながら、何かを口ずさむ愛子がいた。愛子はタッドの声が自分を呼ぶ母の声に聞こえて、消え行く意識の中でそれに必死で答えていたのだ。
タッド「居たぞ!また少女だ」
キース「何!本当か」
タッドは美佐子と愛子に手を当てる、各人の状態を確認していた。
タッド「この子は既に死んでいるが、こちらの少女は僅かだが息が有る」
キース「生きているのか」
タッド「あぁ、よし背中に乗せてくれ」
キースは意識朦朧の愛子をタッドの背中に
乗せる。
タッド「いいか、生きるんだぞ、死ぬなよ、
絶対に死ぬなよ、敵だろうと女子供が死ぬのを見るのはもう御免だ!」
タッドは愛子を背負い、野営地の野戦病院
へと急ぐ。
愛子は夢で魘されていた、死んで行った仲間の顔が次から次に出て来ては、愛子に助けてと懇願していた、愛子は飛び起きて叫ぶ。
「ゆるして!」
愛子が夢から覚めると、そこは今まで見た事も無い光景が広がっていた、上を見ると何かの天幕の様だ、辺りを見やるとそこかしこに米兵が行きかいして、隣を見れば負傷した兵が横たわっていた。愛子には全く見当が付かなかった。
「ここは?」
隣に座って控えていた若い日系二世と思われる米兵が答える。
「米国海兵隊の野戦病院です」
「米軍?それじゃあ私は捕まったの!」
「保護されたのです、洞窟で死にかけていた所を発見されて此処へ運ばれて来ました」
そうなのかと、もう一度周りを見直してから、落ち着く様に自分に言い聞かせる、大分気持ちに余裕が出来た、改めて隣の人物の様相を見つめると、それは明らかに米兵の制服だった。
「貴方は日本人でしょ、何なのその服は!
、死なせて下さい、でないと強姦されます」
「何を聞かされているのか知りませんが、そのような行為は有りませんよ。見てください、他にも日本軍の負傷兵が寝ています、女子を強姦するくらいなら、なお更軍人など助けませんよね」
見回すと確かに、言われた通りだ。
「安心して下さい、ここでの貴方の身の安全は保障します、私は日系二世で永野と言います、此処で皆の通訳と世話係をしています、着衣に縫い付けていた名札が合っているのなら貴方の名は中西さんですね」
そう言い聞かされて少し安心する
「じゃあ、お聞きしますが、私は何時から此処に?」
「そう三日位前ですね、その間ずっと寝ていましたよ」
「そんなに長い間」
「オット、点滴の交換です、看護の者を呼んで来ます」
「いいの、点滴など無用です、私は死にたいのです、仲間が全員死んだ今、一人で生き残る気など有りません」
「日本人は皆そう言います、死なせてくれと。生きる事を恥じているのですね、いいでしょう、待っていて下さい、有る人を連れてきます」
永野はそういい残してテントを出て行く。程なくして、永野は愛子を助けたタッドを伴い戻って来る。青い目をした白人をこんなに間近で見るのは始めてだ、愛子は少し緊張する。
「この兵隊さんが貴方を洞窟から救い出してくれた方です、彼の名はタッドと言います」
「ど、どうも」
ぎこちなく挨拶する。
「彼女は死にたいそうなのだが、例の話をしてくれないか、私が訳すからお願いだ」
タッド「解った」
タッドは愛子に自分が戦場で見て来た出来事を、淡々と話しだす。小百合の事、綾と素子の事を。愛子はそれらを聞き、その情景を思い描き耐えきれなくなり、泣き崩れてしまう。
「あぁ小百合、小百合は崖から、綾も素子も・・・やっぱり死ぬしかない、お願いです、死なせて下さい!」
愛子の自殺懇願を永野が訳すと、タッドは
解ったとばかりに片手を上げて、少し表情に
怒りを込めて愛子を睨む。
タッド「後で聞いた話だが、君達は捕まる位なら死ねと教わっているらしいが、ならば俺から言わせてくれ、君には死んで逝った仲間の分を生きる義務が有るのだ。それが君に出来る最大限の弔いだからだ。死ぬ事など許されないのだ、そうでなければ、誰があの子達の供養をする?俺の目の前で死んで行った子達は誰に慰めて貰うのだい?あの子達の親には誰が伝えるのだ。仏教や日本の風習は良くは知らないが、キリスト教では自殺は愚かな行為と教わっている、君はそんなに愚かな人間なのかい?それに、それにだ!」
タッドはここに来て愛子の手を取り両手で握りしめて、愛子の瞳を見つめて諭す様に語り続ける。
タッド「良いかいよく聞いてくれ、あの子達は生きたくても生きられなかったのだ、さぞ無念だった事だろう、それに引き換え、今君が自殺するという事は、生きられるのにそれを止めるという事だ、それで君が後からあの子達の所へ行って、あの子達は君の事を如何感じると思う?きっと軽蔑するだろう、少なくとも俺はそんな人間は認めないよ」
通訳された内容を聞いて愛子は反論が出来無かった。
タッド「辛いだろうが生きるのだ、それが君の宿命なのだ、そしてご遺族に伝えるのだ、
いいね、約束だよ」
タッドは言いたい事を述べ、出て行く。愛子は自分の不甲斐なさが恥ずかしかった。死ぬのは楽だ、死んで逃げてしまえばそれで良い、だが仲間の殆どは生きたくても生きられなかったのだ、そんな思いで死んで行った仲間の所に、後から自決して追いかけた所で、皆は喜ぶはずが無い。タッドの言う通りだ、タッドの言う通りに生きる事が、死んで行った皆が納得する唯一の方法だと思われた。
「どうしました?ショックが大き過ぎましたか?」
「いいえ、タッドさんの言う通りです、生きます、生きて日本に帰ってご遺族に伝えます、それが私の出来る弔いだから」
「そうです、生きて下さい、死ぬなんて卑怯ですよ」
永野は顔を綻ばせる、愛子に思いが伝わり
嬉しそうだった。
その後愛子は順調に回復して、収容所内の
捕虜専用の診療所に召集され、此処で終戦を迎え引き上げ船に乗る迄を過ごす事になる。途中悲しい知らせがあった以外は不便無く暮らせた。悲しい知らせとは、自分の安否を知らせる為に終戦日の後に勤め先だった病院へ出した手紙の返事の事だ。この日愛子が働く診療所に永野が返事を携えてやって来た。
「中西さん、仕事の方は如何ですか?」
「あら永野さん、久しぶりです。仕事は順調です、今更ながらなんですが、アメリカの医療設備は本当に進んでいますね」
「じゃあ不便は有りませんね」
「はい」
「中西さんは評判が良い、アメリカ人の医師が本国に連れて帰りたいと言っていましたよ」
「本当ですか、でも遠慮します、もう少しで引き上げ船に乗れますから」
「えぇ、もう少しで順番になるでしょう。ところで今日はプレゼントが有ります」
「プレゼント?贈り物の事ですか?」
「そうです、これです」
永野は一通の封書を出す。
「日本からです、きっとご家族からでしょう」
愛子がその封書を受け取り中身を確認すると、自分の出した手紙と一通の封筒が確認出来た。
「変だな?」
不安気に封を開け中の文面を確認する愛子の顔は、見ている内にどんどん青ざめて行く
、不審に思った永野が様子を伺う。
「どうしました、何が書かれているのですか?」
「勤めていた病院が、横浜一帯が空襲で何処も彼処も焼野原で、一切住所も住人も不明だそうです」
「何ですって!本当ですか、大丈夫ですか、気をしっかり持って下さい」
「大丈夫です、これも運命です、生き残った私に対しての試練です、(涙を堪えて)だから挫けません、私は生きます、生きてこそ、償いも、弔いも、慰めもできますから」
タッドの言葉を心に受けた愛子は以前より
、強くなっていた、自分でも不思議な位に心が逞しくなっていたのだ。
「それを聞いて安心しました、ご不幸はお悔やみ申し上げます、でも未来を見て生きて下さい。それが貴方の生き方ですから」
昭和二十一年四月に愛子の乗った引き上げ船が横須賀の汐見港に到着した。
桟橋は多くの出迎えの人でごった返していた、通例で引き揚げ船が入港する時は、事前に引き揚げ人名簿が新聞に掲載される、今日の引き揚げ人の家族達が既に迎えに来ていたのだ。その中を愛子は淡々と手続きをすましていた、誰も出迎えの人は居ないのだから、急ぐ事も無いが、喜び抱き合う他の人達を見るのが辛く感じて、いち早く此処を出たかったのだ。事務員とのやり取りを終えて、愛子は漸く港を出る。サイパンへ行って以来約二年半振りの日本だった。
「あぁ、本土だ、やっと着いたのだ」
愛子は復員事務所を出るなり、大きく深呼吸をして、本土の空気を胸一杯に吸い込む、
懐かしさと、思い出と、サイパンでの出来事が頭の中でグルグルと錯綜する。その時だった、聞き覚えの有る声が愛子を呼び止める。
「中西!」
愛子が声の方向に振り向くと、そこには桜井婦長が涙を流しながら此方を見詰めて立っていた。
「婦長殿!桜井婦長殿」
愛子は力の限りで桜井の体に抱きつく、桜井も愛子の体を受け止める。
「中西!あぁ中西、私の大事な教え子の中西、大切な私の宝物。よく!よく帰って来てくれました。この日をどんなに待ちわびた事か」
二人は涙が止まらない。特に愛子は溜まっていた物が堰を切った様で、押さえが利かなかった。
「婦長殿、わ、私、私一人が、私一人が!」
「もういい、もう何も言わなくていい、
分かっています。辛かったでしょう、苦しかったでしょう、泣きなさい、思い切り泣きなさい、気の済むまで泣きなさい」
桜井は愛子の髪を確かめる様に手の平で搔きまわして、優しく抱擁する。
「婦長殿!」
「サイパンからの復員名簿が出る度に、私は目を皿にして探していた、誰でも良い、誰か一人でも帰って来て欲しいと。今回の名簿に貴方の名前を見つけた時の気持は忘れられない、どんなに心が晴れた事でしょう。有難う、戻って来てくれて本当に有難う」
愛子は止めど無く泣いていた、それを桜井はずっと撫でて宥めていた、行きかう人の視線も気にせずに何時までも。
愛子は桜井の借家に暫く世話になる事にする、帰る家の無い事を伝えると気持良く了解してくれたのだ。その夜桜井は物資の不足している中、心づくしの手料理を振舞う、それを食べながら愛子は、此れから自分がするべき事柄を桜井に打ち明けていた。
「そう、皆のご家族に伝えるの。でもそれは、中西に辛い作業に成らないの」
「解っています、でも遣らないといけないのです、きっとご家族も、知りたいはずです」
「貴方がやると言うのなら、私は止めやしない、でも辛くなったら、その時は無理をしては駄目よ、自分では気づいて無い内に、精神が病んで来るの、その時は直ぐに止めるの、約束よ」
「はい、婦長の言いつけ、守ります」
愛子は早速次の日から、行動を開始する。
先ずは親友の小百合の自宅を尋ねる事にする
。小百合の実家は藤沢に在った、未だ不定期な運行の列車を乗り継ぎ、藤沢の駅に着いたのは昼過ぎだった。此処からは徒歩で行くしか無い、愛子は住所を頼りに小百合の家を目指していた。
「此処で間違いないはずなのに、おかしいなあ」
住所録の番地の建物には何も表札が無かった。愛子は近所の住人に、小百合の家族の所在を確かめる。
「御免下さい、お尋ねしたい事が有ります」
家の奥から住人らしい、大きなホクロが左頬に有る夫人が現れる。
婦人「はい、なんでしょう?」
「本多さんのご家族はご存知ないでしょうか」
婦人「本多さん!あんた本多さんの親戚かい?」
話し方からして世話好きそうな雰囲気が漂う
「いいえ、娘さんの小百合さんと同級生です、久ぶりに会いに来たのですが」
「そうですか、だったら残念だったね。小百合ちゃんはサイパンで死んだそうだよ、あんた知らなかったのかい」
「(話を合わせて)そうでしたか、それは残念です、それじゃあご家族は」
「お母さんが既に逝ってしまっていたからね、手塩に掛けて育てた小百合ちゃんを亡くして、お父さんはそりゃあー大変な落ち込み様でね、勤めていた軍事工場が空襲で焼けた後に、田舎に引き込んでしまったよ」
「田舎?田舎は何処ですか」
婦人「長岡の中心街なのだけど、詳しい住所までは知らないね、何せ本当に酷い落ち込み様でね、あたしもしつこく聞けなくてね」
そうでしたか、すいませんでした。ご面倒おかけして」
婦人「いいのだよ、何か解ったら連絡しようか?」
「いいえ、大丈夫です、私も仮の住まいですし、何か有ったらまた来ます」
時間が掛かっても構わない、小百合の所は
後回ししてでも、何時か必ず突き止めよう。
それまでは、先に近くに住む家族を訪ねる事にする。
愛子は幸絵と志保姉妹宅を訪ねていた。座敷に通されて、復員していた、工藤の父親の工藤元軍医大佐と母親にその最後を語っていた。二人共食い入るように愛子の話を聞いていた。母親の方は堪えられずに涙が頬を流れていた。
「そうでしたか、あの二人は志保を庇って。らしい死に方です、二人供志保が可愛くて仕方なかったのです。二人は多分本望だと思います。只、悔やまれるのは志保です、私が危惧した事が的中してしまったようです」
気丈な工藤父は涙一つ見せずに、語っていた。
「中西さん、有難う、難儀をかけさせました。幸絵の家には私が知らせます」
「有難う御座います、そうして頂くと助かります」
「中西さん、今対戦で日本は多大な犠牲を強いられた、国民は今も飢えている、私は軍籍に居た者として、その点に付いては申しわけ無いと思っている。だが私は親として二人の娘を失った、その事は紛れも無い事実だ」
愛子は黙って頷いた。
「しかし今の日本は私の様な元高級参謀をまるで犯罪者の様に扱う、その家族も同様だ。これでは娘達は浮ばれない、どうかその事を広めて欲しい、不当な扱いは差別だと」
工藤は強い眼差しで愛子を見詰めていた。
「畏まりました」
次の訪問宅の綾の家では、愛子に辛い対応が待っていた。事の成り行きを話して行く内に、綾の母親の取り乱し方が、手に負えない物になってしまったからだ。
「あんたが綾を殺したんだ!あんたが手榴弾なんか渡さなかったら、綾はあんたみたいに、こうして帰って来ていたんだ!人の娘を殺しといて、よくもぬけ抜けと生きて帰って来たものだ。この国賊が!この人殺しが!綾を返せ!代わりに死んで、綾を生き返らせろ!今畜生め!この野郎!この野郎!」
綾の母は、思いに任せて愛子を平手で叩き始める。慌てて綾の父が止めに入る。
「止めないかお前!この人だって被害者なんだ」
「なにが被害者だ、五体満足で元気その者じゃないか!何処が被害者だ!」
「すまないが今日はもう帰って下さい」
愛子を玄関口まで連れ出し。
「解って下さい。母親の気持を、娘を失った親の心情を。やり場が無いのです、誰にも当たれずに、不満が鬱積していたのです。それに私も国に対しては、遣り切れない怒りを感じています」
「遣り切れない怒りとは?」
「保障です、隣の戦死した息子さんの所には軍人恩給が支給されるのに、うちの子には何も出ません。同じ戦地で死んだのにこんな事が許されるのですか?」
「すいません、それは知りませんでした」
「あんたに言っても、どうにもならんのですか?」
「今の私の立場では、如何ともし難い事です」
「そうですか、ならもう良いです。もう来ないで下さい。私らは早く忘れたいのです、こんな事で一々思い出したくない」
ピシャリと引き戸が引かれる。
数日後訪れた素子の家でも、話が、愛子が手榴弾を渡した下りに入ると、先方の態度が
綾の母親程では無いが、愛子には辛い対応に変わっていた。正直この二家族の訪問で愛子の精神状態は滅入っていた。桜井はその事に敏感に反応していた。
「そう、高橋の家でもそんな酷い事を言われたの」
「はい、正直少し、落ち込んでいます。私のしている事は間違っているのかと?」
「いずれ解って下さる。ただ其れには時間が必要ね」
「そうですね。そうなのですね」
「次の訪問は、少し期間を空けなさい、でないと貴方が参ってしまうは」
「はい、私もそう思いました」
「焦らなくても、戦争が終わった今、時間なら幾らでも有るのだからね」
半年が過ぎて愛子の心も少しは癒されて、次の訪問先へ足が向く準備が出来上がった。昼の港町山手の丘を、愛子は北風を俯き加減で避けながら登って来ていた。何時か来た道を、記憶を頼りに進んでいた。見覚えの有る角にさしかかり、一旦立ち止まって辺りを確認する。
「確かここら辺なのだけどな」
愛子は不安を押し込んで、その角を曲がる
。その先には記憶に有るあの郵便ポストが立っていた。
「あ!有った、あそこだ、あのポストの先だ」
愛子は一先ずポストに駆け寄る。そこからは、美佐子の家までは目と鼻の先だ。愛子はポスト越しに美佐子の家を確認する、視線の先には確かに美佐子の家が、変わらぬ威容を誇っていた。だが愛子は此処まで来て、足が竦んで中々一歩が出なかった。心が癒されたとは言え、先の二軒の訪問がトラウマに成っていたのだ。
「如何しよう、又先方の気分を害する事に成るのかな?」
悩んでいる愛子の背後から、愛子を呼び止める声がする。
「愛子ちゃんじゃあないかね?」
振り向くと、そこには外套を肩に引っ掛けて、手には英語の広告が書かれた紙袋を提げた、美佐子の父、斉昭が立っていた。
「愛子ちゃん!間違い無い、愛子ちゃんだね」
「久しぶりです、ご挨拶にまいりました」
愛子と確認出来た途端、斉昭は持っていた
紙袋を道路に直置きして、両手を上げて近づいて来て、そっと肩に両手をのせて、穏やかな表情で微笑んてみせた。
「そうかあ、生きていたのだね、良かった無事だったか、本当に良かった!軍から全滅と知らせて来ていたから。美佐子の事含めて諦めていたんだが、そうか。此処ではなんだから、家で話そう。さあ」
言われるがまま、愛子は斉昭に付いて行く
。居間に通された愛子は、無事の報告を済ませた後、サイパンでの出来事を二人に話し始める、斉昭の表情は話が進むに比例して、段々悲しみに満ちて行き、遂には涙が止まらなく成り、最後は誰憚ること無く大声で泣きだす。母の琴乃は気丈に振る舞い涙を流さず黙って聞いていた。愛子が話し終わると、斉昭は立ち上がり、愛子の前にかしずいて、愛子の手を取り、感謝の言葉を連呼する。
「有難う!愛子ちゃん、有難う。態々知らせに来てくれて、本当に有難う。美佐子の最後が聞けて、もう何も悔いは無い。そうか、最後は意地汚い事もせず、我慢して死んで逝ったか、良く頑張った。愛子ちゃん!あんたも良く頑張ってくれたなあ!」
斉昭の言葉はもはや普通には聞き取る事も困難な位に嗚咽と泣き声が混ざっていた。まともに話せずとも、兎に角愛子にその思いの丈を伝えたかったのが、とても意地らしかった。一通り斉昭が話終えると、今迄黙っていた琴乃が思いつめた表情で話し出す。
「そうですか、あの子が、美佐子が私に叱られたいと、そう言っていたのですね」
「はい、何回も何回も」
「我が家はお父さんが美佐子に甘い分、私は厳しく接してきました。だから時折不安に思う事がありました。白状しますと、私はあの子に嫌われているのでは無いかと。お父さんばかりを頼るから、避けているのでは無いかと思っていました。そんな事を思っていた私は母親失格ですね。あの子はちゃんと解っていたのですね、私以上に私の愛情を。ほんの少しでも、我が娘を疑ってしまって、私は自分が本当に情けない」
この日始めて琴乃は此処で涙を流す。
「お母様そんなに自分を責めないで下さい」
「愛子さん、今日は本当に有難うございました。田辺共々心からお礼を申し上げます」
琴乃と斉昭が頭を下げる。
「止めて下さい。どうか頭を上げて下さい」
愛子は二人に頭を上げさせる。
「頭を下げなければならないのは、私の方です。本当は帰る家も家族も無い私が死ぬべきだったのに、帰りを待つご家族が居るお嬢様が帰れば良かったのに、代わりに私が帰ってきて。本当に申し訳無いと思っています」
今度は愛子が二人に頭を下げる。
「馬鹿な事を言っていはけないよ、愛子ちゃん」
「そうです、私達はそんな事は針の先程も思っていませんよ」
「そう言って頂けると、心が楽になります」
「美佐子の分も生きて貰わないと。暗い気持を引きずっていては、良い人生は送れませんよ」
「はい有難う御座います(愛子は時計を確認して)ではもう帰らないと」
「もうお帰りに!せめて夕御飯でもご一緒にどうですか?」
「お気持は有り難いですが、居候の身です、言われる前に色々家事を済ませておかないとなりませんので」
「居候、では今はどちらにおられるのか?」
「覚えていらっしゃいますか、看護学校の担当の桜井婦長殿を」
「えぇ、勿論だよ」
「今は桜井婦長殿の所にお世話になっています」
「あらそうでしたか。それで何時まで居られるのかしら」
「それは・・・・・(暫し考え)何れ出ねばなりません。婦長殿は何時までも居て良いと言ってくださいますが、そんな訳には行きませんから」
「愛子さん、頼る御親戚はいらっしゃるのかしら?」
「それが、両親を亡くしてから親戚に育てて貰ったのですが、正直余り居心地が良く無くて、自立してから殆ど交流が無いので、それにこのご時世では頼る訳にも・・・でも自分の人生です、自分で何とかします。それではそろそろ行きます」
愛子が居間の外に出掛かった時、琴乃が愛子を引き止める。何かを思いついたようだ。
「愛子さん、何度も御免なさい。後もう少し良いかしら、私妙案を思いつきました」
「妙案ですか?」
「そう。愛子さんが宜しかったら、美佐子の部屋を使って貰えないかと」
「え?」
斉昭が両手を上げてそうだとばかりに。
「そりゃあ良い!おい琴乃まさに妙案だぞ。愛子ちゃん、是非そうしなさい。いいや!そうしてくれないか?」
「でも、ご迷惑ではないですか?」
「迷惑だなんて、とんでも無い!大歓迎ですよ」
「あぁ、そうだとも。実の所、美佐子が居なく成ってからわしら二人は、なんだか心に穴が開いてしまいましてな、仕事も私生活も張り合いが無くなっていたんだ。愛子ちゃんが居てくれたら、わしは又仕事に精が出るし、母ちゃんも家事が楽しく成る。なあ!」
「はい!そうですとも。だから何の遠慮も要りません。どうかそうして下さい」
「本当に、本当に良いのですか?」
「良いのですよ。本当に!」
この日を境に愛子は田辺家に世話になる
。それ以来愛子は実の子の様に可愛がってもらい、愛子も斉昭と琴乃の事を本当の両親同様に慕った。身内をなくした者どうし、お互いの心が通じ合えたのだ。
愛子は田辺家を拠点にし。懸案だった、小百合のお父さんの行方を捜索し始める。
手始めに、藤沢周辺の知り合い探しから始め
、僅かな手がかりでも有れば、多少遠くても手間も時間も惜しまず出かけて行った。そして遂に小百合の父に繋がりそうな、情報にたどり着く。その情報に拠ると、家から近くに城跡があった事、祖父母はとっくに他界しており、その実家は兄夫婦が住んでいた事などだ。愛子はこの手がかりを頼りに早速長岡まで出かけるが、そこには戦争に拠る無常な現実が待っていた。長岡の駅に着き愛子が駅前で見た街並みは、愛子の予想を遥かに超えた景色だった。第二次大戦時、長岡は地方都市としては異例の集中爆撃を受け、駅周辺から市街地までは、東京大空襲に次ぐ大損害を被っていたのだ。街は急こしらえのバラックだらけで、区画もめちゃくちゃだ、良く有る闇市と密集した住宅街が占領していた。
駅前に降り立つ愛子は言葉が出なかった。
「こんな田舎が何故こんな酷い事に?」
愛子は先行き不安に駆られる。頼りの交番に駆け込んで、聞いてみても何の期待も持てなかった。
「すみません。城跡近くに住んでいた、
本多さん宅を探しているのですが?」」
警官「申し訳ありませんが、この辺一帯空襲で何もかも無くなりました。確かに空襲前迄はあそこ辺りに城跡がありましたが、今は見る影も有りません。人や家を尋ねられても
お手上げなのです」
「まあ、そんなに酷く焼けたのですか?
」
警官「酷いも何も。爆発炎上で、業火が嘗め尽くしました。それ以来街の景色は一変しました、住所もへったくれも有りません、生き残った者が好き勝手占拠しています。自分は都会から偶然此方に転勤で来ていて。凄く幸運だと安堵していたら、この様です」
「では戦前の住所も番地も意味が無いのですね」
警官「はい、役所に行っても手がかりは無いですね。目立つ役所が一番派手に遣られましたから。書類などは全部燃えました。役所は紙が多くて、良く焼けたそうです」
「後は自分の足で調べるより方法は無いって事ですね」
警官「はい。役に立てず、すいません」
愛子は途方に暮れてしまう。だが諦めずに
愛子は何軒もバラックを訪ね探す。しかしその労力も徒労に終わる。先に繋がる手がかりも情報も手にする事が出来なかったのだ
。それでも愛子はその日以来時間を作っては
、足しげく何回も長岡に通った。諦め切れない思いが愛子を突き動かしていた。
一年が経った。愛子はこの日も又長岡へ行く段取りを考えていた。だが考えうる手立てを尽しても何の手がかりも得られない現実に、愛子は途方に暮れていた。居間で一人その事で思案していると、見かねた斉昭が心配そうに声を掛ける。
「愛子、少し良いか?」
手招きして自分の横のソファーに座る様に
支持する、愛子は横に座る。
「はい、お義父さん気がつきませんでした、すいません。何でしょうか?」
「小百合ちゃんのご家族の事だが。すこし根を詰めすぎじゃないかな」
「そうですか?そう・・・そうかもしれませんね」
愛子もそう感じていたから、田辺にも傍目から解っていた様だ。
「この一年間、愛子はよくやった。だが手がかりは全く見つからない。方々手を尽してこの結果だ。いい加減どこかで、少しケジメをつけた方が良いのではないかな。探す事は細々と続ければ良いじゃないか、それにばかり集中していては、愛子の人生が心配だ。そろそろ心の整理をつけなさい」
「それは私も考えていました。もう駄目かなと。何処かで区切りをつけないといけないなと」
「そうだろう、そう思うなら良い機会だ。愛子だって、もう年頃なのだから、結婚とか先の事を考えたら、その方が良い。そうしなさい」
愛子は斉昭の顔を見て小さく頷く。
「そこでだが。実は愛子に、相談が有ってだな。見合いだ」
「見合いですか?」
突然見合いの話を出され困惑気味だ。
「此処へ良く来る取引先の社長が居るだろう、あいつがな、自分の息子の嫁に是非にと聞かないのだ。どうだい会ってみないかい?」
「はあ」
急の事と、景山の件が未だ終わっていないのとで、愛子の返事は力無い。
「なんだ、ツレナイ返事だな、会うだけでもどうだ、わしも安易に愛子を嫁になど行かしたくは無い、本音を言うとずっとこのまま我が家で暮らしていてほしい。だがな、その反面、正直言うと花嫁姿を見たいとも思うし、何より孫だ、可愛い孫を早くこの手で抱いてみたいのだ」
斉昭は赤ちゃんを抱いている仕草をして見せる、その顔は満面の笑みに溢れていた。
「まあヤダお義父さん、結婚もしてないうちからもう孫の事ですか、想像できます、親バカならぬお爺ちゃんバカ振りが」
「ああそうだとも、ワシは日本一のバカ爺さんになるつもりだ!ワハハ、だから会うだけでもどうだ、それとも誰か好いている人でも居るのか?」
「そんな人居ませんよ」
「じゃあ良いだろう」
愛子は思いを巡らせていた。サイパンでの
景山の最後の約束を、あの事が気がかりでいた。景山の言葉が本当なら、弟さんはもしかしたら、私を待っているかも知れないからだ
。
「実はあと一つご家庭の所へ行かねば為りません。それが最後の訪問先です」
「なんだ、小百合ちゃんの所で終わりじゃ無いのか。たしか七人で終わりの筈だが」
「お世話になった、軍医さんが居ました。私に遺言をたくして死んで行ったのです。私の心の中で最後に訪問しようと決めていました。だからその後でなら、見合いもお受けいたします。いいでしょうか」
「ああ、良いとも。そうなら早い方が良い、明日にでも行って来なさい。わしの方も先方にはそう返事しておくよ」
東海道線に揺られ車窓からの眺めを見詰め、愛子は東京に向かっていた。昨日以来考えていた景山の言葉を思い出していた。愛子は本音を言えば最も早く景山宅を訪問したかった。だが何か心に引っかかる物が有り、それを遅らせていた。それは景山の言葉通りに事が進んで、もし弟さんを見初めてしまったら、それは景山に対しての裏切りに成らないかとの思いだ。簡単に会って、簡単に弟さんに鞍替えなどは出来無い、出来っこ無い。それならばこのまま会わずにいようとも思っていた。だが昨日の田辺の見合い話が愛子の気持を動かした。他の人の嫁に成ってしまったら、もし弟さんが待っていたとしたら、その時はどうなるのだろう。景山の言葉が本当なら、それはそれで景山の最後の願いを反故する事に成る。愛子は最後にその事だけを確かめようと決心がついたのだ。
国鉄板橋駅前はバラック建てが占拠して、雑然としていた。駅前の蕎麦屋に入り、かけ蕎麦を注文した。お世辞にも美味いとは言えない代物だったが、物資不足のこのご時勢だから文句は言えない、蕎麦を食べ終えると愛子は厨房の中に居た店主らしき人物に、持っていた住所のメモを見せて、景山の自宅が何処かを尋ねる。
「あの?この住所は何処辺りでしょうか、景山医院なのですが、ご存知有りませんか?」
「景山さんかい、知っていますよここら辺であそこの大先生に世話に成って無い者など居ないですから」
「ご存知ですか、良かった。大先生?そんなに有名な方なのですか?」
店主は鉢巻きを手で外し、厨房の中から出て来て、愛子にさも自慢げに話し出す。
「はいそうなのですよ、先生は空襲で火傷を負ったこの辺り周辺住人に対して、本当に良く手当てしてくれましてね、この辺りは軍事工場があっちにも、こっちにもありましてね、沢山爆弾落とされましたよ、だから大勢の住人が世話に成りました、金も受け取らずに診ていただきましたよ」
「出来た方なのですね」
愛子は、景山の父らしいと頷き。
「そうですね、神様みたいな人です。戦争で大事なご長男を無くしたのに。落ち込みもせずに気丈に振舞っていましたよ」
「そうですか(景山の事だ、愛子は心苦しかった)それじゃあ、今もお一人で開業しているのですか?」
「今は次男坊さんと二人で切り盛りしていますね。この次男坊さんが又出来た人でね、大先生に負けず劣らずの評判なのですよ」
愛子は少し安心した。二人で切り盛りしているなら、きっと元気なのだろう。少なくとも戦地で死んだ景山の事は、引きずって無い様だ。
「あの、それじゃあ教えて頂いて良いですか」
「そうだ、肝心な事を忘れていましたね」
店主は愛子に景山医院への行きかたを説明する。
駅から暫く歩くと、川沿いの段丘に割と広めの木立の中に洒落た造りの建物が認められた。木々が防火林の役目を果たしたのだろう、中の建物は無傷だった、門柱には景山医院と大きく書かれていた。目立つ白の看板が印象的だ。歩を進め病院の裏手に回り、自宅の物と思われる玄関前に立つが、呼び出し鈴に手が出せなかった。(ああ、此処まで来て、如何しよう会う勇気が出ない)愛子が迷っていると、玄関ドアが中から開く。そこにはあの日以来目にする事の無かった、景山の顔その物が在った。その顔の持ち主が愛子の知る兄の光成では無く、弟の只成と解ってはいても、愛子は押し寄せる感情をせき止める事が出来なかった。脳裏には兄光成との思い出と、その時々の光成の顔がスライド写真の様に、次から次に映し出され、愛子はどうする事も出来ず、その瞳からは止め処なく涙が流れて来た。只々累々と流れ出る涙が止らなかった。状況を把握出来無い只成は驚いて愛子を見ていたが、我慢出来ずに近づき。
「如何しましたか?何故私の顔を見て泣いているのですか」
只成はさっと手を差し伸べ愛子を抱える
「すいません、何が何だか解らないですよね。でもでも、自分でも如何しようも無くて、いきなり泣いてしまってすいません」
「いいのです。何か訳が有りそうですね、此処では何ですから、中へどうぞ」
只成は愛子を中の応接室へと案内する。
応接室の書棚には無き光成の遺影が、六つ切りに大きく引き伸ばされて、置いてあった
。出兵時の物らしく、凛々しいその姿のままだった。愛子は事の詳細を只成に伝える、自分が光成の部隊の看護婦長だった事を。そしてその後の進捗を伝えに来た事を。
「解りました、待っていて下さい。今父と母を呼んできます」
応接室を只成が出ていくと、愛子は動悸が
激しく成る、光成が話していた通り、愛子でも全く見分けが付かない程、只成は光成の生き写しなのだ、{あぁどうしよう、本当にこんなにも同じ顔だ何て、気持ちを抑えないと、何も話せない}愛子は何度も深呼吸をして心を落ち着かせる。
暫くして、只成は父と母を伴い部屋に戻って来た。
「父の信広です、此方が母の崇子です」
「中西です」
愛子が立ち上がり頭を下げる。
威厳に満ちた顔付き、白髪が似合い、如何にも学者然とした出で立ちだ、母の崇子は
目元が景山のそれに良く似ていた、微笑んで
迎えてくれたその顔が、景山を忍ばせた。
「あなたが光成と同じ部隊にいた婦長さんかね」
信広が身を出し愛子に伺いを立てた。
「はい」
「ご足労頂いて申し訳ありませんね」
崇子が着座を勧めて、改めて頭をさげる。
「で、早速だが、息子の事、話してくれませぬか、親として、知りたい事が沢山あります」
「お役に立てれば幸いです、私が知り得た事だけですが、お話させて頂きます」
「まあちゃんと腰掛けて、急がずゆっくりで良いですから」
愛子は座り直すと、三人に向かって、ハッキリとそして、噛み締める様に語りだす。二人の出会いから、サイパンに行く船上の事、サイパンでの平穏だった頃の出来事、その後の戦渦の中での悲惨な状況など、そして二人が恋仲であった事も。話が進むに連れて、崇子はハンカチで涙を拭わずにはいられなくなるが、信広と只成は冷静に話しを聞いていた
。特に信広は終始腕組みをしてじっと瞼を閉じていた、愛子の話しからその情景を想像している風だった。愛子は最後の光成の夢の件だけは話さず話を終える。此方から話をしては押し付けに聞こえる、何も無ければ素直に帰ろう、愛子は自分にそう言い聞かせた。
「拙い話ですいませんでした、以上が事の詳細です」
「随分と辛い思いをしたのですね。あいつも貴方も、本当に。酷いものだ、軍隊などに
遣らねば良かった。そうすれば今頃あいつも一人前の医者に成っていたのに」
「お父さん。徴兵で取られるより、志願兵の方が待遇面に有利と言ったのは、お父さんですよ」
「そうだが、だがしかし悲惨過ぎる、クランケを自らの手で殺めるなど。さぞ無念だったろうに」
「兄貴に比べて俺は甘えているな。天国で多分怒っているだろうな。でも、兄貴は貴方に出会えて良かった、最後に貴方を愛せたのがせめてもの救いです」
只成は愛子の顔を見つめ微笑んで来た。愛子に何かを感じている様子が伺えた。
「私は何もしてあげられませんでした、私なんかを好いて頂いて、私の方こそ幸せ者です。本当に素晴らしい方でした」
「いいや謙遜しないで下さい、私の目から見ても、息子が惚れたのは良く解ります。貴方は素晴らしい方ですよ」
「本当ですよ、女親としてこんな娘さんが嫁いでいたらと思うと残念です。あの子が生きていてくれたらね」
「本当に、兄貴の奴、良い目をしています」
只成は何か言いたげの雰囲気で愛子の方を向き愛子に視線を送る、愛子はその視線が眩しくて伏し目に成ってしまう。
「そう言って頂くと、心がやすまります」
「それで、兄貴は何か他の事を言っていませんでしたか?」
「他の事とは?」
愛子は迷った、此処で話して良いかどうか
、だが愛子は此方から話すべきでは無いと改めて思い、あの話はしないと決める。
「いえ何も、特別には何も」
「そうですか、それなら良いのです」
只成は少し残念そうな表情をした。
「それでは、この辺でお暇します。住んでいるのが横浜なのでそろそろ行かねばなりません」
「そうですね、今日は遠路遥々有難うございました」
「有難う、息子もこれで少しは浮ばれるだろう」
愛子は挨拶を済ませ立ち上がり、応接室を出ようとする、その時に只成が立ち上がり愛子を止める。
「待って下さい」
愛子は立ち止まり、只成に視線を向ける、
只成も愛子を見詰めていた。
「もう一度聞きます。本当に兄貴は今の話以外何も言わなかったのですか?」
激しい物言いだった。傍から見ると少し怒って居る様に感じる程に。崇子が只成の腕を引きよせる。
「只成!なんですかその失礼な物言いは」
「母さん、すまないがこれだけはハッキリさせないといけないのです、だから今だけ黙っていて下さい。中西さん、何も兄貴から聞かなかったのですか?」
愛子は考えたが、だが出した答えは同じだった。
「はい、特に何も」
愛子が夢の事は聞かされていないと気づいた只成は決心を固める。
「解りました。では私に起こった出来事を話します。中西さんには理解出来無いかも知れませんが、良く聞いて下さい、我々双子は不思議な霊感が有るのです。離れていても同じ行動をしていたり、同じ夢をみていたりと、あの日もそうです、忘れもしない十九年の七月五日の夜です、その日私の夢枕に兄貴が立ち、私に向かって言うのです、お前に好適な嫁をさがした、必ず訪ねるからそれまで誰とも結婚しないで待っていろと。今まで見た夢の中でも鮮明に覚えています、あれは兄貴の霊感だと直感しました、そして今日貴方を玄関先で見て、兄貴が言った人はこの人だと確信したのです。だからもう一度聞きます、兄貴は本当に何も言わなかったのですか?」
待っていた言葉だった、ずるいかもしれないが、只成から言われないと、光成に申し訳が立たない気がしていた、愛子は此処に来て
遂に光成の言葉を話す決断をする。
「実は、・・・・実は日本に帰ったら、もし無事に帰る事が出来たら、その時は弟の嫁に成ってくれと言われました」
信広と崇子が驚いた表情をする、只成だけは納得した顔で頷いていた。
「やはりそうですか。それで、貴方の答えは如何なのですか?私の嫁に成ってくれるのですか?」
早急な言葉に崇子は少し苛立ち気味に只成に詰め寄る。
「只成!幾らなんでも失礼が過ぎますよ、同じ夢を見たからと言っても、中西さんのお気持を考えなさい」
「だから今それを確かめているのです。私の答えは出ています、兄貴が愛した人ならば間違いは無い、私も一目見て衝撃が走ったのです、この人に妻に成って欲しいと。母さんだって先程嫁に来て欲しいと言ったではありませんか」
「それはそうだけど。・・・・見なさい中西さんを、下を向いて黙ってしまいましたよ」
愛子は涙を堪えていた、嬉しさを抑えきれずにいた。
「如何なのですか、私では役不足ですか?兄貴の代わりは勤まりませんか?」
愛子は涙がこぼれぬよう慎重に頭を持ち上げ、只成を見つめる。
「代わりなんて、トンでもありません、私で良いのですか?私は只成さんの中に光成さんを求めているのかも知れません。それでも本当に良いのですか?」
愛子のこの言葉を受け只成の表情は勇んで行く。
「構うものか、兄貴が死んだ今、私と兄貴は一心同体だ、どうぞ私に兄貴を求めて下さい。私は私也に全力で貴方を愛します、その点は兄貴に負けませんよ。父さん、母さん良いですね」
「あぁ私に異存は無いな、先程からそうなれば良いと思っていた所でね」
「まあお父さんたら調子良い事を。私も異存はありません。中西さん、こんな不肖者ですが嫁に成ってはくれませんか?」
崇子のこの言葉を受け。愛子の涙腺は崩壊する、自分では涙が止められなかった、懸命になって抑えようとしても、自分では如何しようも無かった、遂には膝の力も抜けてしまいソファーに崩れてしまった、慌てて崇子が駆け寄り、愛子の涙を自分のハンカチで拭いとった、やっとの事で何とか話せるまで落ち着いた処で愛子は只成に近寄り打ち明ける。
「本当に私で、私なんかで良いのですか?本当に私で?」
「ハイ・・お願いします。どうぞ妻に成って下さい」
只成は頭を下げて懇願する、愛子もそれに
答えて頭を下げる。
二人を見詰める信広と崇子は満面の笑みを湛えていた。書棚に掲げて有る光成の遺影に
向かって只成は愛子を抱えて告げる。
「兄貴、こんな良い人を俺に紹介してくれて有難う、此れからは俺が兄貴の分もこの人を幸せにするからな、兄貴は心配せずに見守ってくれ」
心なしか光成の遺影が笑って見ている様に
感じられた。愛子はその遺影に向かって呟いていた。(有難う光成さん、絶対に貴方の事は忘れません)。
聖林大学へ向かう車中。美佐貴がハンカチ
を頬に充てて涙を拭っていた。
「ずるい!ずるいよ母さん、如何してもっと早くに今の話をしてくれなかったの!私その事を知っていたら、もっと良い子だった。高校も母さんの奨めた高校に行っていた。そしたらきっと大学も国立に受かっていた。普段あんなに母さんや父さんに反抗しなかった。もっと親孝行して来た、どうしてもっと早くに話してくれなかったの?」
「それはお父さんが言っていたでしょ、次期が有ると、反抗期が有るから、今の話が理解出来るの。悪たれついたからそう感じられるの。何も無駄など無いの、今日だってこうして私をあの学び舎に連れて行ってくれるじゃない。美佐貴が国立大学に受かっていたら、私はきっと行かず仕舞いだったと思うの」
「でも、でもそうだとしても、母さん御免なさい、私は甘えていました。どうか許して下さい、これからはもっともっと勉強して、そして必ず母さん達が誇れる医者に成ります、だからそれまで待っていて下さい。こんな出来の悪い娘を今まで育ててくれて有難う御座います、これからは独り立ちして、手のかからない娘になります」
愛子は小さく微笑んだ、美佐貴の今後の成長が楽しみだったのだ。
「良いのよ、甘える時は甘えて、美佐貴がそうやって成長する姿を見るのが、母さん達は一番楽しいのよ、お父さんと結婚してから必死で働いて、でも中々子宝に恵まれ無くて諦めかけていた時に、やっと貴方を授かれた、だから貴方を生んだ時は本当に嬉しくてね。田辺のお義父さんも同じ思いよ。もう解ると思うけど、美佐貴の名は美佐子から貰ったのよ、それをお義父さんが貴い人に成って欲しいと言う思いを込めて美佐貴と名付けたの。美佐貴、私達が誇れる子に成長してくれたね。私の娘で本当に有難う」
「母さん!」
美佐貴は愛子の胸に泣き崩れる、愛子は黙って美佐貴を撫でていた。
車は国道一号線を西へ向かって走っていた
、そろそろ横浜駅を過ぎる頃だ、ここから道を北に執り、神奈川県を北上する。愛子に宥められて落ち着きを取り戻した美佐貴が、気
に成る事を愛子に聞く。
「そういえば母さん、小百合さんのお父さんの行方はどうなったの?」
「それがね、今に到るまで遂に行方知らずなの。何の手がかりも無いの」
「それは残念ね。一番の親友なのに」
「そうなの、それだけが私に残された最後の宿題なの」
「最後の宿題か」
「そう最後の宿題」
愛子は噛みしめる様に自分に言い聞かせていた、今に至っても行方知らずの小百合の家族の事が、愛子の心の中の重荷だったからだ。
車は順調に進んでいた。最寄駅が見えて来た、辺りの様子は一変していた。
「凄い発展振りね、母さんの頃とは比べられないは」
「戦後三十年経っているのよ、聖林大だって、新校舎が完成しているの」
「じゃあ昔の校舎はもう無いの?」
「旧校舎は未だ残っているよ、確か裏門の方に」
「裏門に?」
「もう直ぐだから、行けば解ると思う」
坂道を登って行くと、彼方に大きな建物が見えて来た。屋上には大きな看板に聖林医大付属病院と書かれていた。真新しい輝きが、最近造られた事を伺わせた。
車はそのまま進み正門を抜けて駐車場へ到着する。車を降りるなり愛子はその真新しい
建物を見上げ、久しぶりの思いを語る。
「ここは確か、私達が通っていた頃のグランドね、軍事教練が出来る広さがあったのよ」
「そうか、母さんが走ったのは此処なのね」
「それで旧校舎が裏門に成ったのね、今は此方が正門か」
「そう、旧校舎はこの先のあの建物の裏に有るの」
「そうなのね」
「母さん、手続が済んだら後で行こう、母さんの思い出の所に」
「そうね、そうしましょうか」
愛子と美佐貴は新校舎の中へ入って行く。
一通りの手続を終え、美佐貴は愛子を連れて旧校舎へと向かう、裏手のもう一つの校舎を過ぎれば渡り廊下続きで旧校舎に行ける。
愛子は高鳴る胸の鼓動を感じていた。
渡り廊下を過ぎて、古ぼけた壁が見えて来た、旧校舎のそれだ、愛子の頭の中では、当時の情景が映し出されていた。懐かしい場面が次々と過ぎていった。校舎の中に入るとその場面がより一層鮮明に映し出された。
「あぁ懐かしい。何も変わっていない、昔のままだ」
「本当に」
「えぇ、多少色が塗り替えられているけど、それ以外は殆ど当時のままね」
「じゃあ母さんの教室もそのままじゃない、行こう、何処が母さんの教室だったの?」
「そう二階の端の教室だったの、窓から中庭が一望出来てね、そこから当時の正門が見えたのよ」
「じゃあとりあえず二階に行こう」
二人は階段を上がり二階に着くと急に愛子の記憶が鮮明に成る、きっかけを掴んだ様だ。
「そうだ、この先、あそこの端の教室、間違い無い」
愛子は何かに取り付かれた様に美佐貴の手
を引き、教室へと向かう。ドアを開け中に入ると愛子の脳裏は当時の事柄で一杯に成る、
元気だった頃の皆の姿がそこの目の前に、重ねて映し出されて愛子の目に入って来た。懐かしさの余りに愛子の口からは、皆の名前が呟かれる。
「小百合、美佐子、志保、永久子、幸絵、素子、綾、皆良い子だった、本当に大切な仲間だった。有難う皆、こんな私について来てくれて。何も出来なかった非力な私を許してね」
「母さん!」
美佐貴が窓際で呼んでいる。
「母さん、あそこ、あの木があの写真に写っているポプラね」
美佐貴が指を指す方向に目を遣ると、デンとした太い幹のポプラが立っていた。
「そう、あれよ、あの幹の下で写真を撮ったの」
「行こう、あの写真と同じ所で写真を撮ろう!良いでしょ」
「そうね、入学の記念に撮るには好い場所ね」
旧校舎正面玄関から愛子と美佐貴が出て来た。左手にカメラを手に右手に思い出の写真を携えて美佐貴は喜々としていた、カメラは入学祝いの田辺からの贈り物だ。
「この写真が田辺のお義祖父さまが撮った物で、今回はそのお義祖父さまから頂いたカメラで撮るなんて、運命感じるね。母さんそう思わない?」
「そうね、その通りね」
何につけ娘の喜ぶ姿を見ているだけで楽しい。愛子は此処に来て良かったと思った。今までは自制心が、此処へ来る事を良しとしなかった。愛子自身も此処へ来て心が平静を保てる自信が無かった。だが娘の美佐貴が此処へ来る切欠を作ってくれた。これも運命なのだと素直に受け止めていた。
愛子と美佐貴が歩をポプラに近づけて行くと、そこに美佐貴と同い年位と思われる少女が立っていた、愛子はその少女の後ろ姿が何処かで見た記憶が有った。長い髪が風に揺れて、時折見せる横顔がその体形が愛子の記憶に何かを訴えていた。(まさか?あの横顔と体つき?でもそんな事は有り得ない)段々近くに成るにつれ、愛子にその記憶の波が更に強く打ち寄せる、鼓動が激しくなり、横で話す美佐貴の声も気にならない状態に成る。さらに強く春風が吹き、その少女の横顔がよりハッキリと確認出来た、その横顔は愛子の親友の小百合に良く似ていたのだ。(小百合?でも如何して此処に?死んだ小百合が此処に?私に合いに来たのね。だとしたらこれは幻想ね、霊だとしたら私にしか見えて無いの?)愛子は確かめるべく、そっとその少女に歩み寄る、もはや美佐貴の言葉も耳に遠くになっていた、確かめなくては、幻で終わらないで欲しい、小百合でいて欲しい、幽霊でも良い一度でも会えたらそれで充分だから。愛子はおそるおそる進んだ、後ろからゆっくりと近づくと、だが少女は、薄く透けても居ない、間違い無い現実だ、愛子の記憶の中の小百合の後ろ姿その者だ。愛子の鼓動は最高点に達していた、その鼓動の音が自分の耳でも聞き取れた、そこからは目にする物全てがゆっくりと進んだ、愛子は勇気を持ってその少女の前に出でる。その顔は正に小百合その人だった。愛子は何が何だか見当がつかず、只その少女の両肩に取りすがる。
「小百合!あぁ小百合じゃない!小百合でしょ?」
愛子に両肩を揺さぶられ訳が解らずキョトンとしたその少女は、愛子の問いに返答する。
「何故、何故に母の名前を知っているのですか?」
「母の名前?えっ、それって」
愛子が少女に話していると、校舎の方角から愛子を呼ぶ声がする。
「愛子!愛子でしょ!」
愛子が声の主の方へ目をやると、そこには
自分と同い年位の中年女性が立っていた。どこか小百合の面影が有ったが、愛子に小百合だと確信させたのは。あの何時もやる挨拶だった、昔と変わらず顔の横で小刻みに手を振り
、こちらに微笑んで来ていた。愛子の頭の中ではその姿が小百合を最後に見届けた光景と重なり合っていた。愛子は小百合を認めると、矢も立ても居られなかった。持っていた書類も投げ捨て、鞄も落とし小百合に駆け寄った。
「小百合?小百合なのね」
「愛子!愛子なのね。生きていたんだ、会いたかった」
「私もよ、会いたかった、会いたかったよ」
二人の言葉は涙交じりで聞き取るのが困難な程だった。お互いを確かめる様に手を取り
、顔を撫でていた、涙は流れ続け止らなかった。状況を把握した二人の娘達は遠巻きでそれを眺めていた、娘達もお互いを自己紹介して、挨拶を交わしていた。説明は不要だった。
「御免ね。私!私だけが生き残っていたと思っていたの」
「私も同じよ、自分だけが生き残ったと、ずっとそう思っていた」
「私は隊が玉砕した後で瀕死の所で捕虜収容所に収容されたの、それで何とか生き残れたの。小百合は?でもどうして?サイパンの収容所では会わなかった。どうしていたの」
「私、私ね・・・」
小百合はあの時の出来事を語る。
サイパンの崖淵に立つ若かりし小百合。崖から身を投げ海に落ちて行く、波に洗われて息が出来ずに段々と意識が薄らいで行く。やがてその体は波に揺られて海面を漂い始める。そこへ米軍の上陸用舟艇が近づいて来る、舟艇の乗員は小百合の体を船に引き揚げると、すぐさま元来た海路を戻って行く。小百合が目を覚ますとそこは病院船の中だった。
「病院船?」
「そう、そこは米軍の病院船の中だった。私はそこで息を吹き返して、そして治療を受けたの。その病院船は負傷兵を収容すると、そのままハワイに帰港した」
「じゃあその後はハワイで」
「そうなの、復員するまでハワイの収容所に居たの」
「それではサイパンでは会う筈ないはね」
「ハワイの収容所で終戦を知って私は直ぐに安否を知らせる為に、実家と念の為に田舎に手紙を書いたの。そしたら田舎から父の手紙が着いた。その手紙で知ったの、私達の隊のサイパン医療派遣隊が全滅した事を、手紙を読んで愕然とした、言葉が無かった。父は私が死んだ者と思っていたから、文面からは喜ぶ父の姿が想像出来た。でも私は喜べなかった。私一人が生き残ったと思い、自責の念で一杯だった、だからそれ以来私は誰とも会わず、連絡も取らずにいたの、もちろん学校の事も全て忘れ様としていた」
「それは私も同じだった、私だけが生き残ったと思っていた。・・・あらでも変ね」
愛子が何かに気づく。
「何が?」
「田舎に手紙を送ったと言ったけど、ちゃんと届いたの。田舎は大空襲に遭って酷い有様で戦前の住所は用を成さないはずでは」
「そんな事は無いは、私の田舎は大規模な空襲に遭って無いのよ」
「嘘よ、私は何度も小百合の田舎へ行った、藤沢の自宅のご近所の小母さんにお父様の故郷を聞いて、長岡へ何度も足を運んだの、確かに大きな空襲を受けていた、この目で見て来たのよ」
「あっ、もしかしてその小母さん、頬に大きなホクロが有る人じゃあない?」
「そう、そうよ!ホクロ有った」
小百合は思わず笑い出す。
「もうやだ、立花の小母さんたら、相変わらずだな」
「変わった方なの?」
「うぅん、良い人なのだけど、オッチョコチョイで思い込みが激しい人でね、一度間違えて覚えると直らないの。私の田舎は長岡では無くて、長野よ、長野なの」
「長野!長岡じゃ無くて長野なの。それじゃあ何度も足を運んでも何も手がかりは有る訳無いはね」
二人は笑い出す。その姿を遠巻きで見ていた美佐貴と小百合の娘の愛華が羨ましそうな
視線を送っていた。
「良いなあ母さん達、三十年も会っていなかったのに、あんなに仲が良くて」
「本当にそうだね。そう言えば、内の父が話していたけど、若い時に苦楽を共にした仲間とは、歳を重ねて幾つに成っても、例え立場に差が開いても、何時までも同じ仲間でいられると、そう話していた。父は海軍の予科練出身なのだけど、その仲間とは何時会っても俺、貴様の仲だと自慢気に話していた」
「私もそんな仲間が欲しいな、苦楽を共に出来る仲間が」
美佐貴の言葉を受けて愛華が手を差し出す
「成ろうよ、私達も母さん達に負けない位に。同じ学舎で学ぶのだもの、苦楽を共に出来るはずよ」
「そうね、成りましょう」
二人は固い握手を交わす。今度は愛子達が
それを遠巻きで眺めていた。愛子と小百合もお互いの娘について話していた。
「でも不思議ね、お互いの娘が同い年で、しかも同じ大学に進むなんて、偶然なのかな?凄い事ね」
愛子は何かの力を感じていた。
「偶然じゃ無いと思う。必然でこう成ったと思うの、きっと神様が・・・そう仲間が、あの子達が手引きしてくれたのだよ」
小百合の言葉が愛子の心に響いた。
「そうね・・・そう、絶対にそうだね」
二人は改めてお互いの娘の姿を見つめていた、暫くして二人は手招きで娘達を呼び寄せる。
「美佐貴ご挨拶しなさい」
「美佐貴です、宜しくお願いします」
「小百合解ると思うけど、美佐貴の名は美佐子から貰ったの」
「うん解る、宜しくね」
小百合は美佐貴に手を差し出す、美佐貴も
手を差し出し握手を交わす。
「美佐子の事は聞いているの?」
「はい母から伺いました」
「そう、じゃああの子の分も頑張ってね」
「はい!」
美佐貴は小百合の手を強く握りしめる。
小百合も手を握り返していた。
「我が娘に劣らず愛子の若い時に瓜二つね。それじゃあ今度は愛華自己紹介しなさい」
「愛華です。宜しくお願いします」
同様に握手を交わす二人。
「愛華の愛は愛子から貰ったの。良い名でしょ」
「そうかなと思っていたの。それなら光栄よ」
愛子は握った手を解いて、愛華の顔と髪の毛を撫でまわしながら。
「それにしてもビックリする位小百合の若い時にそっくりね。私と美佐貴の比じゃないは、生き写しじゃない、さっきは本当に驚いたのよ、心臓が破裂しそうだったのよ」
愛子と小百合は話が尽きなかった。何時までも二人の娘を交え、校舎の軒下のベンチで話していた。大分時間が過ぎた頃、美佐貴がカメラを取り出して、皆で記念撮影をしようと提案をする。
「母さん達を先に撮りたいな。そうだ(鞄から写真を取り出し)あそこで、この写真の様に撮ろうよ」
「ああそれが好い、ねえ母さんそうしようよ」
「そう、何だか恥ずかしいは」
「照れる歳でも無いでしょう。この写真と同じポーズで撮るから、同じにしてよ」
四人はポプラの下に移動すると、あの時の記念写真を手にして、それと同じポーズを
する。
「こうかしら」
「違うもう少し寄って」
「私はこっちを向いているでしょ」
「そう、でも表情が硬いな、少し笑って」
ああでも無い、こうでも無いと、とても楽しそうだ。漸くポーズが決まり、美佐貴
がカメラのシャッターを押す。
「はい、良いぃ!母さん達動かないで。ハイ!チーズ!」
カシャ!撮られた写真はあの時と同じ場所で、二人共寸分違わず同じポーズをしていた
。昔と違うのは仲間達が居ない事だった。
後日。現像が出来上がった小百合との写真を、居間の書棚の光成の写真の隣に置く愛子がいた。又その隣には思い出のあの写真が、
既に置いてあった。三つ並べて置かれた写真を愛子と只成と美佐貴が三人で眺めていた。
「愛子の宿題もこれで遂に終わりに成ったな」
「そうね、長い宿題だった」
ほっとため息が出る。
「此れからは、母さん達の体験談を心に留めて精進します」
「おっ、気の利いた事を言ったな。好し期待して見守るとするか」
「はい」
ニコリと美佐貴がすると、只成も二人に微笑む。
「ねえ、何だか光成叔父さんの写真が笑っている様に見えるのだけど、気の所為かな」
「本当ね、そんな気がする」
「笑っているさ。愛子の宿題が完結したのだから、兄貴もあの世で喜んでいるだろう」
物言わぬ光成の写真を中心に右に思い出の写真、左に小百合と愛子の写真。確かに只成の写真は、今の愛子には笑っている様に見えた。以前と変わらぬ写真でも、重荷が取れた愛子の心の中は、笑っていた頃の光成の事が全てだったのだから。
(終わり)