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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

煙の匂い

作者: しのぶ

※フィクションです

 俺はもう30年ほどこの症状に苦しんでいる。


 この症状が起こり始めると、頭が痛くなり、記憶が途切れ途切れになり……そして、頭の中に「煙の匂い」が充満してくる。この症状が起こると俺は怒りが制御できなくなり、他人を怒鳴りつけたり暴力を振るったりしてしまう。

 子供の頃はよくそのために暴力沙汰を起こしたが、後には物に当たるようになった。人に暴力を振るうよりはまだマシだが、それでも周りからは気味悪がられ、憎まれ、嫌われて孤立するようになっていった。


 この病気のせいで、学校も中退し、仕事も長く続かず、俺は貧しくほとんど路頭に迷うようになってしまっていた。


 この病気が始まったのは多分10歳くらいの頃からだったと思うが、病気のためか、どうにもその頃の記憶が曖昧だし、それ以前の記憶も途切れ途切れになっていてよく思い出せない。


 俺はこの病気をどうにか治そうとしてあらゆる手を尽くしたが、どの病院に行っても異常はないと言われ、ついに原因はわからなかった。10年前に精神科にも行ったが、そこでもやはり異常は見つからなかった。


 そうして過ごすうちに俺は、これはきっと幼少期に両親から虐待を受けたせいだと思うようになった。両親だけでなく、多分当時隣に住んでいた斎藤のせいでもあるだろう。俺自身には虐待を受けた記憶はないが、なにせ幼少期の記憶が途切れ途切れになっているから、そのせいで思い出せないのだろう。

 だが、両親との関係はあまり良いものではなかったはずだし、隣の斎藤にもいじめられていたような記憶が断片的にある。


 きっと、当時の記憶が過酷なものだったから、無意識のうちにその記憶が封じ込められ、そのために記憶にも障害が生まれ、怒りを制御できなくなるのだろう。そうに違いない。虐待について書かれた本を読んでみても、どうも俺と同じような症状が書かれているように思われた。


 ではどうするか……?


 俺は、両親と斎藤とケリをつけなければならないと思うようになった。過去を精算するためには、彼らを亡き者にしなくてはならない。殺すのだ。


 もちろん、彼らを殺したりすれば前科がつくし、逮捕され投獄され、あるいは死刑になるかも知れない。

 だが、これほど長い期間にわたって台無しにされ続けてきた俺の人生のことを思うと、もはやそのために復讐をせずにはいられないと思った。彼らを殺して、過去を精算して死ねるならむしろ本望ではないか?


 それに、もしかして、もしかして彼らを亡き者にすることによってこの病気が治るのだとしたら……死ぬ前の少しの間でも、この症状を無くせるならば、それでいいと思うようになったのだ。



 そんなわけで、俺は実家に帰って両親を殺害した。そしてまだ近所に住んでいた斎藤も殺した。


 憎い相手だというのに、彼らを殺したときはそれでも心が痛んだ。



 だが、それと共にある種の開放感も感じた。ようやく終わった……ようやく過去を精算したのだ。憎むべき過去を断ち切ったのだ。


 付近の住人の通報によって俺は逮捕され留置所に送られたが、それでも俺の心は穏やかだった。元凶を断ったのだから、きっとあの症状も無くなるだろう。

 実を言うとまだあの症状は出ていたが、それでも前よりは症状が軽くなっているように思えた。あの呪いのような病気も、これからは少しずつ治まっていくはずだ……



 裁判を待つ間、俺は裁判所と捜査機関の命令で精神鑑定を受けることになった。でも、精神鑑定を受けたところでどうせ異常は見つからないだろう。現に俺は10年前に精神科にかかったけど、その時は何の異常も見つからなかった。だからこそもう自分でケリをつけるしかないと思って、あの犯行に及んだのだから……


 精神鑑定を終えてしばらく後、俺は自分の弁護士と面会することになった。弁護士は言った。


「こんにちは、後藤さん。気分はどうですか」


「ええ、今でも穏やかな気持ちです。ようやく虐待されていた過去を精算できたのですから」


「そうですか……」


 弁護士はファイルから紙の資料を取り出してそれをちらりと眺めたあと、言った。


「ええと……それで、この間の精神鑑定の結果が出たのですが……」


「ああ、そうですか。でもどうせ異常なんてないでしょう?いいんです。罰は甘んじて受けますよ。もとより、その覚悟だったのですから」


「そうですか……」


 弁護士はまた手元の資料を見て、それから俺の顔を見て、また資料を見てから、妙にためらった後、言った。



「ええと……それで、その、言いにくいのですが、あなたは虐待を受けてはいませんでした」



「え?」


「いや、受けていなかったとは言い切れませんが、少なくとも、あなたのその病気の症状は、虐待が原因ではないはずです。


精神鑑定の結果、あなたは非常に珍しい障害を負っていることが分かりました。


この障害は、発見されたのがここ5年くらいのことですので、昔はその存在自体が知られていなかったし、検査でも引っかからなかったのです。


この障害は生まれつきのもののようですが、だいたい10歳前後の時期に発症して、怒りの爆発や情緒不安定、記憶障害、幻覚などの症状を引き起こします。あなたの言っていた「煙の匂い」というのもこの幻覚症状の一部でしょう。あなたの場合は匂いですが、人によっては悪口が聞こえたり、あるはずのないものが見えたりもするようです。


あなたは自分が幼少期に虐待されていたと思いこんでいたようですが、それもこの障害の一部でしょう。この障害は妄想……つまり、ありもしないことを思い込む、思い込みが激しくなるという症状も含みますから。人によっては、被害妄想が激しくなり、周囲の人が自分に危害を加えようとしていると思いこんで、暴力事件を起こしたという事例も報告されています。


そういうわけですから……まあ、その、残念ですが、あなたのご両親と隣の住人の斎藤さんが亡くなったことによって、あなたのその症状が治る、ということは無いでしょう。


とはいえ、裁判としては、心神耗弱(しんしんこうじゃく)の状態にあったということで、裁判を有利に進めることはできると思います。もしかしたら無罪になるかも……」



 弁護士はまだ話し続けていたが、俺にはもう聞こえなかった。


 頭がひどく痛くなり、記憶が途切れ途切れになってきた。



 そして、いつものように、頭の中にあの煙の匂いが充満した。

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