『ざまぁ 今更遅い 追放系』が好かれる理由
『ざまあ』『いまさら遅い』『追放系』が好かれる理由について考えてみた。
酷いことを書いたと思う。
その手の小説が好きな人は読まないで欲しい。
多分とても疲れていると思うから、夢を見続けていればいい。
『ざまあ』『いまさら遅い』『追放系』
組織やメンバーの中で縁の下の力もち的に非常に役に立っている人材が、その能力を正当に評価されず、追放され、その結果組織は衰退し、戻ってこいという勧誘を受けるものの、それはもう遅いと言い放ち『ざまあ』を味わう、というものがその典型的なストーリーのようだ。
ランキングの上位をそのようそのパターンが占めているのがわかる。
残念ながらあまり私の好みの物語ではないので趣味の小説を探すためにはランキングはあてにならない。
とはいえ人気のジャンルだし、タイトルで惹かれるものも時にはあるので何種類かは読んでみた。
興味を惹かれたのは、その手の小説があまり自分の趣味ではない事と、その手の小説が人気のパターンであることについてのこの乖離について。
現実にはもちろん、この『ざまあ』展開はほとんどあり得ない訳であるが、この場合小説に求められてるのはリアリティーではなく夢である。
小説でぐらい夢を見させてくれというのが本音だし、リアリティーの指摘は本来意味がない。
となればそういった『ざまあ』には夢や憧れが詰まってるんだろうと思う。
現実世界においてひたむきに頑張ってるのに評価されない人達の夢。
いつかその組織から自分がいなくなったとき、その組織は痛い目に遭うんだという今の自分の自尊心と安らぎ、実際に自分がいなくなった場合に自分を蔑ろにした人達や組織が痛い目にあってほしいという復讐心。
むしろ今の自分をできれば評価してほしい、自分を不当に扱ってることに気がついて欲しいというささやかな希望。
そんなものが『ざまあ』系には満ちているのではないだろうか。
また、少々趣が異なるが、ブラック企業で使い倒された人材がそのブラック企業で培った忍耐力といったものを活かし、異世界で活躍するという物語も何件か拝読させていただいた。
おそらくそこにも夢が詰まっているのだろう。
ブラック企業で働くことにも決して無駄ではないと、今耐え忍んでいることはとても偉いことなのだと、きっといつかは報われる日が来るのだろうと、そのような夢が詰まってるのではないだろうか。
そして、そんな夢を抱く人が日本には大勢いる。
そう考えれば、この手の小説が人気になるのも不思議ではない。
苦しくも切ない現実の合間に、ほんの昼休みや休憩時間に、現実に傷ついた心の空洞を埋めるように夢を詰め込む。
心の隙間用に相応しい短い文章で区切られた無料で読めるWEB小説が人気であることも頷ける。
しかし、このような分析をすればするほど、悲しい気持ちにならざるを得ない。
つまり、現実の人たちはあまりにも厳しい状況に置かれていて、救いを求めるように、自分の中の隙間に夢のような小説を詰め込みながらなんとか日常生きているのだと思うと切なくてならない。
実際には縁の下の力持ちがいなくなったとしても、組織は普通に回る。
『便利な雑用係がいなくなったけど、どうせまた同じような奴は来る』。組織の管理職などその程度の認識だ。
仮にその組織が何かしらの痛手を負ったとしても、その管理職は責任など負わない。
なぜならそこで責任を負わせられるような組織であれば管理職の人材もそれなりに有能であったはずだから。
大抵の組織は役職持ちや管理職に『実力』などを求めない。
求められるのは組織への適応力くらいか。
縁の下の力持ち的人材を正当に評価するだけの能力のある管理職を重用するだけの幹部職もいない。
能力のない人間が組織の上に立ちがちなのは日本社会の習性のようなもの。政治を見ていれば分かること。
そもそも日本にはマトモな『リーダー論』もない。
役職を『専門職』とは考えず、単に『他より高給のポジション』としか捉えないため『役職』は『ご褒美』扱いだ。そんな中では『役職』に応じた能力は要求されるはずもない。
そんな世界(異世界含む)で『ざまあ』などはまずありえない。
だからそれは夢。私から見れば『いつか宝くじで1億円当たって今の生活から抜け出す』くらいの夢。
夢を見たい人は、当たらないと宝くじを『いつか当たる』と信じて買い続ける。
しかし確率論的に言えば宝くじは当たらない。だから私は宝くじを買わない。
それが私に『ざまあ』が趣味に合わない理由なのかも知れない。
ほんの少しくらいは現実になるかも、くらいの期待がなければ夢は楽しめない。
『宝くじ』や『パチンコ』、それに公営ギャンブル。そういったものは決して儲かるものではない。儲かるのは胴元だけ。
けれどギャンブルで破綻する者はみんな『とんとん』だと言う。損もするけれど儲かっているという認識だ。しかしこれは家計簿でもつけれは錯覚でしかないことに気づくだろう。
現実認識や可能性の発生率について明らかに認知に誤りがある。
残念ながら、あまりに現実的ではない夢を見る人は、現実の認識において劣っていると言わざるを得ない。わざと鈍麻させているのかも知れない。
『不当に評価されている者』がもし本当に有能であるなら、自分の成果や存在価値を周囲に理解させることが出来たかも知れない。また、組織に評価されないような無駄な労力を払うのは愚かでしかないと切り捨てることが出来たかも知れない。
労働環境や待遇改善のために動くことも出来たかも。
ブラック企業で耐え忍ぶことは、それは偉いことなのではなく、単にその方が楽だからだ。何も考えずに従っていれば例え状況が悪くても細々と給料がもらえる。その状況を変える気力も能力もないから、ブラック企業のいいようにされているだけだ。
そのような人物が異世界に転生したとして活躍できるとはとても思えない。
恐らく現実の認識において劣化しているため、夢を見るときの度合がご都合主義に傾くのだろう。
もちろん夢は必要だ。
けれどその見てる夢は悲しい。
この酷い現実を耐え忍ぶためのささやかな娯楽としての夢。
あまりに資本家や搾取者側にとって都合の良い夢。
搾取する側にとっては、こんなにも都合の良い人材はいない。
低賃金で過酷な労働に文句も言わず、優しい夢の世界で自分を慰めつつ働き続ける。
あとは壊れたら捨てるだけ。
『ざまあ』系を読む人や書く人をバカにするつもりはない。
夢を作るのは素敵なことだし、誰でも夢を見たいものだから。
パチンコに興じる人を否定しないのと同じように。
現実認識を改めて欲しいと家計簿をすすめることもあるけれど、大抵はムダに終わる。私は夢の破壊者として嫌悪されるのがオチだ。
壊れて捨てられていく人を見るのに慣れることはないけれど。