ピンポンハイド
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おいおい。あの子、ピンポンダッシュしていかなかったか?
家人が出てこないところを見ると、留守にしているのか、スルーか。あるいは足を悪くしていて、出るまでに時間がかかっちまう御仁とか……うーん、そうだとしたら後味がわりいな。
カメラ付きのインターホンをつけたり、センサーを用意したりと、一軒家だったら色々と手が打てる。
でもいまの家みたいに、アパート一階のチャイムじゃなかなかそうはいくまい。ターゲッティングされたが最後、時間や心のゆとりをわずかなりとも奪われる……うん、やられる側に回って、初めて分かるんだよな、このへん。
つぶらやは小さいころにやったことないか? ピンポンダッシュ。
一部の男子だと、どれだけバレずにギリギリまで粘れるか――とかで点数付けされてさ。競うことも多かったんだよな。
かくいう俺も、一時期ははまったんだが、あることをきっかけにやらなくなっちまったよ。
――ん? そのきっかけに興味がある?
そこらへんの食いつきは、さすがつぶらやとも思うが……まあいいだろ。
気楽に聞いてくれ。
俺がピンポンダッシュをする理由は、ひとことでいえばスリルだね。
バレるかどうかのギリギリの戦い。そこで勝ちをもぎ取ることに、何より心地よさを見出していたんだ。
思うによ、体ひとつで手軽に競い合う機会って現在じゃ限られるだろ?
スポーツとかは一瞬じゃ終わらねえ。ルールにのっとって何分、何十分と拘束される。結果が出るのも、その後だ。勝利の美酒を味わうことだってな。
俺はその美酒を、簡単、お手軽、一瞬で飲み下すこと。それができるのが、俺にとってはピンポンダッシュだったんだ。
万引きとかに比べると、俺の中では犯罪のイメージが薄かったってのも一因だ せいぜいがいたずらどまりの認識。どやされればそれで済むだろう。
想像するペナルティの軽さが、俺の足、俺の頭すらもどんどん軽くしていった。
ピンポンダッシュは、文字通りインターホンを押したら、すぐその場から逃げ出す行為を指す。だが俺はあえて近くに潜んだり、何食わぬ顔で付近の通行人に紛れたりして、家や部屋の主が出てくるのを待つのがほとんどだった。
いわば「ピンポンハイド」ってところか。インターホンが鳴るのを聞きつけて、出てくる家主の反応をうかがいたかったんだよ。
怒る人、怖がる人、犯人探しをする人、全然反応がない人……それらの一喜一憂を、あたかも他人事のように、高みの見物としゃれこんだ。
相手を翻弄している。そう考えるだけで、じわじわと陶酔感が湧いてくるんだよな。
こうさ、ネット越しの球技をしているときに、ボールがネットにかかって相手のコートすれすれに落ちていく瞬間に似ている。相手がさ、「そんなのないよ~」って、必死こいてカバーに走ってさ。それでも間に合わず、失点を許してしまう。それが自分の手によるものだと考えたら――。
もう、サイコーだね。美酒どころか、その日のこれから食う飯が、何でもおごちそうになっちまうわな。
そうして刹那の美味さに酔いしれる俺は、とうとう学区のはずれのアパートにまで手を出した。
さっきの子がやったように、フェンス越しに道路に面した一階の角部屋。そのドアの前へそろり、そろりと近づいていく。
いたずら前に最後の確認。通行人はなし。ここから回り込んで、フェンス越しに様子が見られる位置。部屋とフェンスの間には、茂みが少々と住んでいる人のものと思しき自転車が数台。
そしてガスのタンク。周囲をしっかり壁で囲ってあって、俺の半身を隠すのに問題はなし。いいコンディションだ。
ドアの真ん中。音符マークがついているボタンをかちっ。
「キンコーン」とドア越しにも聞こえてくる、チャイムの音。すかさず俺は、敷地内を脱出。件のガスの壁の後ろに身を隠し、顔の半分だけのぞかせて部屋のドアを観察し始める。
この間、わずか数秒。何度も繰り返してきたから、足音も極力抑えることができたはずだ。
ややあって。家主がドアを開けて、外へ出てくる。
ぱっと見た感じ、当時の俺と大差ない年頃の男の子だった。野球帽を目深にかぶっていて、口元くらいしかよく見えなかった。
「あれ?」と思ったよ。普通、家の中なら帽子はとるものだろう? 外へ出るにしたって、それなりに歩くと分かってなきゃ、被らない。
それを、たかがドアの前での応対で済むだろう顔出しで、わざわざ被るか?
男の子は左右を見渡すことなく、外に出てドアを閉めたかと思うと、じっとドアと対面する。数秒前に、俺がやっていたのと同じ姿勢のまま、彼はドアのチャイムへ手を伸ばす。
キンコーン。
でかい音がここまで響いてきて、俺はびくりとしかける。
ここからは見えないが、どこかしらの窓が開いていたのか? そうだとしたら、俺の先ほどの「キンコーン」も誰かに聞かれているか?
珍しく、俺の方が周囲の様子をうかがう側に回ってしまったが、あの男の子の指は、そこで止まらない。
キンコーン。キンコーン。キンコン、キンコン。キンコキンコーン……。
連打だ。それもただ等間隔で押すばかりじゃなく、テンポをつけている。
――モールス信号?
とっさに俺の頭に浮かんだのはそれだ。信号の内容はまったく知らないが、このチャイムの鳴らし方。何者かにサインを送っているんじゃないかと思ったんだ。
もし俺のいたずらを計算づくで、追手役の誰かに合図を送っているんだとしたら、ここにずっと潜んでいるのはまずいかも。
俺は何食わぬ顔で身体を起こすと、ちょうど後ろから俺を追い越しかけた、お姉さんと足並みを合わせて、アパートを離れていく。
しばらくあのチャイムは鳴り続けたが、すっかりアパートが小さくなったとき、ドアが開いた音がして、どきりとしたさ。
あいつが部屋の中に戻った、ならいいんだけど……。
現場から数百メートルは離れた。いまのところ、追手の姿は見えない。
ほっと胸をなで下ろすと、急にのどが渇いてきた。
おりよく、すぐそばに自販機を発見。「安いよ!」と書かれた、80円均一のものだ。そんじょそこらの120円なんかよりも、よっぽど魅力的。
すっと100円を投入し、ボタンぽちっ。ガタンゴトンと受け取り口に落ちてくる缶。チャリンチャリンと鳴る釣り銭口、20円。
それらを滑らかに処理し、手に取るエナドリ80円。親指をプルタブにかけ、「プシッ」と起こした、その時だった。
プシッ、プシッ、プシッ……。
俺のすぐ近くで、いくつも缶を開ける音が連なった。
びっくりして、あたりを見やるも缶を持つ人など俺以外にいない。その戸惑っている間に、炭酸のエナドリはたちまち缶の口からあふれ、俺の手を、そしてアスファルトを濡らしていく。
そのアスファルト、俺が垂らした部分の周りが同じように濡れ始めた。
当然、誰の姿もない。でも数センチおきに離れた、ぽつぽつという黒い点。それがどんどん円周を広げて、もともとこぼした俺のエナドリの痕に殺到し、塗りつぶしていく。
俺の周りに、見えないが大勢いる。そんで、俺の真似をしている。
やはりつけられていたんだ。ピンポンダッシュをした時から、ずっと。
俺は缶を投げ捨てて、逃げ出した。狙ったわけじゃないが、缶は自販機脇のふたのついてないくずかごに飛び込む。
ほとんど飲まずに終わった、中身たっぷりのでぶっちょだ。空っぽでがりがりの同士が、直撃を受けて大いにへこむ。
とたん、道路をはさんで向かい側。クリーニング店の真ん前に止めてあったセダンの屋根が、一気に内側へ潰れた。これもまた、何も落ちていないのにだ。
――いや、違う。見えていないだけだ。
さっきのエナドリがあふれた時と同じだ。あいつらは俺がやったことの真似っこをしたんだ。スケールを何倍も大きくして。
走る一歩一歩もそうだ。道路のこちら側とあちら側で並走するように、奴らは俺についてくる。俺の横で、一歩ごとにアスファルトにひびが入ったり、めくれたりしていく。
幸い、ちょうど周りの人がはけている。この異変に気付かれてはいないはずだ。だが、もし俺が少しでもルートを変えたりしたら……。
ちらりと横目でうかがう。すぐ前方のT字路を右折するのが、俺の家への道。そいつらも後をついてくるなら、アスファルトには引き続き甚大な被害が出る。
だがもし、こいつらが鏡のように俺とは真逆に動いたとしたら?
T字路の左。突き当たりには少し大きい、病院の入り口がある。外来の患者さんの姿が、ここからもチラホラ見える。ひょっとしたら入院している患者さんだって。
そこへ車さえ潰す、あいつらの襲撃があったら……。
対向車の姿も見え、俺は動けなくなった。さすがにこれ以上は道路の異状を察知されてしまうし、余計な事故を招きかねない。
歩道の真ん中で立ち尽くす俺は、あとからやってくる人に変な目で見られたが、構わなかった。にらんだ通り、あいつらは俺が動かない限りアクションを起こさないようだった。
最悪、日が暮れて人通りがなくなるのを待つか……。
そう思いかけて、ふと背後から音がする。
キンコーン。キンコーン。キンコン、キンコン。キンコキンコーン……。
あの部屋のチャイムの音。振り返って俺は、「うおっ」と叫んじまう。
野球帽をかぶった、あいつがいたんだ。その口が動くたび、あのチャイムの「キンコーン」という音が紡がれる。
あのとき聞いた音は、部屋のものじゃなかった。あいつがあの場でチャイムを鳴らしながら、自分の口で出していたんだ。隠れていた俺にも、聞こえてくるのは道理だ。
「――今日の授業はもう終わり。みんな、先生にあいさつしようね」
あいつがそうつぶやくと、俺の肩に頭に、ずしずしと重いものがのしかかってくる。たまらず、俺はそこへ這いつくばっちまった。
野球帽のあいつはつばを手で直しながら俺を見下ろすと、それ以上は何も言わず、背を向けて去っていく。その後を、アスファルトの上にできる、無数の濡れた足跡が追いかけていくのを、俺は見たんだ。