第八十一夜
「芽吹け…『邪悪の樹』」
セフィロトを滅ぼしたカインがそう告げると、その体から黒い血が流れ出した。
床に広がる黒血から草木が芽吹くように、枯れ枝が伸びる。
それは外見こそ似ているが、生命の樹とは真逆の力。
あらゆる生命を吸い尽くし、枯死させる邪悪の樹。
かつて、カインが教会軍を全滅させた力だった。
「くそっ…!」
完全に力を取り戻したカインを前に、グレゴリウスは槍を握り締める。
ボロボロの体では最早耐えることしか出来ないが、それでも闘志を捨てない。
「見事だ。この力を見ても、恐れずに他者の為に命を投げ出す…それもまた一つの強さだろう」
素直に感心したように告げてから、カインは笑みを浮かべる。
「俺には永劫、理解できない強さだがな」
死の枝が放たれる。
回避など不可能。
最初からその選択肢はグレゴリウスにはない。
勝ち目など無い。
だとしても、せめてヨハンナだけは守り抜いて見せると。
「カイン…!」
瞬間、男の声が響いた。
風を切り裂くような音と共に、その場に新たな人影が現れる。
「断ち切れ!『紅糸』」
振るわれるのは紅の糸。
グレゴリウスへ止め刺そうとしていたカインの真横から糸が迫る。
「チッ…意外と、速かったな」
それを素手で弾きながら、カインは舌打ちをした。
僅かに距離を取るカインの前に、四人の男女が立つ。
アーテル。クリス。ソフィー。ルキウス。
聖戦に向かったメンバーの全てだった。
「クリス…他の者達も、無事だったか」
「遅れて申し訳ありません。教皇様」
ヨハンナに軽く頭を下げ、クリスは前に視線を向ける。
アーテルと睨み合う男へと。
「アレって、アルデバラン? 何がどうなっているの?」
「違う。奴はカインだ。姿は違うが、間違いない」
アーテルはカインを睨みながら告げる。
こうして直接会うのは初めてだが、確信があった。
人形と戦っていた時から感じていたこの感覚。
目の前の男こそが、自分を獣に変えた元凶だと。
「お前に宿る呪禁が告げているのか? 俺こそが、お前が真に仕える主人だと」
「誰が…!」
激高しながら、アーテルは糸を振るう。
かつてない速度で放たれた攻撃は、聖堂の天井や床を傷付けながら四方からカインを狙った。
「ははは!」
まともに受ければバラバラの肉片と化す攻撃を軽く防ぎながら、カインは嗤う。
「凄いな。いつのまにそれほど成長したんだ?」
まるで子供の成長を喜ぶ親のような顔でカインは言った。
「…皮肉のつもりか? 片手で防いでおいて」
「いやいや、攻撃の話じゃない。その怒りのことだ」
ニタリ、とカインは悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「人間のふりが随分と上手くなったと感心したんだ。本当は、何も感じていないくせに!」
「!」
「復讐だ、敵討ちだ、と口にするのはそれが人として当然のこと、だからだろう?」
アーテルの口癖を真似ながらカインは指摘する。
人間のふりばかりする獣に対して。
「一つ良いことを教えてやろう。お前は…」
「炎よ…!」
何かを言いかけたカインを遮るように、青い炎がその身を包む。
「アーテル! 敵の言葉に惑わされるな!」
「あ、ああ!」
ルキウスの言葉にアーテルは頷いた。
思わず雰囲気に呑まれていた。
今はそんな状況では無いのに。
「真実から目を逸らすことが、賢い選択とは思えんな」
「何…!」
全身を包む炎を物ともせず、カインは淡々と呟く。
驚くルキウスの隙を突くように、片腕を振るった。
「温い」
「ぐ…がッ…!」
ルキウスの体がくの字に曲がり、聖堂の隅へ飛んでいく。
壁に叩き付けられたルキウスは、その場に倒れ込んだ。
「全く、ゆっくりと話も出来ないな。どいつもこいつも血気盛んなことだ」
虫でも払うように炎を掻き消しながら、カインは何でも無いように言う。
「…そもそも、お前達は何故そんなに俺が殺したいんだ?」
カインは不思議そうに言った。
「お前が黒血をばら撒き、多くの人間を殺したからに決まっているだろう…!」
「殺したのは人狼共だろう? 奴らとて生きているのだ。肉を喰わねば生きていけない」
「ふざけるな! その人狼を、メガセリオンを最初に生み出したのはお前じゃないか!」
「…それの何が悪い?」
アーテルの言葉に、カインは首を傾げた。
「俺はただ、求める者に救いを与えてやっただけだ。死にたくない。助けて欲しい。そんな懇願を受ければ、手を差し伸べてやるのが人情と言うやつだろう?」
誰一人として、強制的に獣に変えた者は居ない。
「俺は善人では無いが、死を恐れる心だけはよく理解できる。だから俺は死に瀕した者に呪禁を与え、強靭な肉体をくれてやったのさ」
「馬鹿な…」
「選択したのは奴らの方だ。奴らは皆、自分の意思で獣となることを選んだのさ」
「…それは、違う」
「何?」
自信を持って告げるカインに対し、アーテルはそれを否定する。
全てでは無い。
全てのメガセリオンが、自分の意思で獣となることを選んだ筈がない。
何故なら。
「俺は、獣になどなりたくなかった! 心を失いたくなどなかった!」
「………」
「ここにいる俺がその証拠だ! お前に無理やり獣に変えられた俺自身が!」
マスクを取り、アーテルは自身の眼でカインを睨みつける。
その顔に浮かんでいるのは怒り。
自分から全てを奪った敵に対する怒りだ。
「…くく」
殺意すら込められた視線を受けて、カインは笑った。
「くははは! はははははははは! コレは傑作だ! まだ気付かないのか! まだ思い出さないのか!」
「思い、出す…?」
「お前もそうなのだよ」
「…え?」
その言葉は、ゾッとする程に冷たいものだった。
アーテルの体が総毛立ち、冷や汗が流れる。
何か、何か不吉な予感を覚えた。
アーテルの中の、致命的な何かが壊れてしまうような予感が。
「アーテル。お前も、自ら望んだのだよ。俺の呪禁をな」
「そ、そんな筈…!」
悲鳴のような声を上げたのは、アーテルでは無くクリスだった。
言われた本人は何も言わず、青白い顔で黙り込んでいる。
カインの言葉を、否定することが出来なかった。
「十年前のあの夜、お前は俺の乗る馬車の前に飛び出して来た」
カインは真実を語る。
アーテル自身が忘れていた過去を。
「瀕死のお前は俺に懇願したのだ。まだ死ねない。家族の下へ帰らなければならない、とな」
「………」
でたらめだ、とアーテルは叫びたかった。
だが、アーテルの脳裏にその時の光景が浮かび、何も言うことが出来なくなった。
あの日は確か、ミリアムの誕生日だった。
用意していたプレゼントを取りに一人で街へ行ったのだ。
早く喜ばせたくて。喜ぶ顔が見たくて。
逸る心を抑えきれず、アーテルは馬車に引かれてしまった。
「まあ、目の前で死なれるのも目覚めが悪い、と俺は呪禁をくれてやった」
馬車の中から出てきたカインは、死にかけのアーテルに呪禁を与えた。
その結果、アーテルは獣となったのだ。
「で、でも…! あなたはアーテルの家族を殺した筈…!」
「…そいつが、そう言ったのか?」
カインは嘲るように喉を鳴らした。
アーテルの顔が更に色を失う。
恐怖するようにその体が僅かに震えていた。
「もう思い出したのだろう?」
「お、俺は…まさか…」
「そうだ」
アーテルが忘れていた過去。
自ら忘れようとしていた真実。
「お前の家族を殺したのは、獣となったお前自身だ」
「な…!」
クリスは言葉を失い、思わずアーテルの顔を見た。
身を震わせるアーテルは苦し気に頭を掻き毟っている。
「人を殺さないことが人である証? お前達のような獣とは違う? はははは! 笑わせてくれる!」
「う…あ…」
「お前は十年前の時点で既に! その手を血に染めていたと言うのにな! はははははははは!」
カインは腹を抱えて笑い続ける。
その嘲笑を聞く度に、アーテルの心に亀裂が走った。
今まで辛うじて人の形を保っていた何かが、崩れていく。
「あ、ああ…あああああああ!」
ドロリ、とアーテルの両目から黒い涙が流れる。
全身に流れる血が黒く染まっていく。
「くくく、それではこの場は任せたぞ。我が新たなメガセリオン、無感動のアーテルよ」
完全な獣と化したアーテルを満足そうに見つめると、カインは用が済んだと言わんばかりに霧のようにその場から去っていった。




