第五十一夜
「それにしても、凄い種類の花達ですね」
クリスは教皇室の花々に水をやりながら言った。
「裏庭にはもっと沢山の花を植えている。昔から花を育てるのが好きでね」
コーヒーを啜り、ヨハンナは笑みを浮かべる。
飾られた花々は丁寧に世話がされており、ヨハンナが心からそれを大切にしていることが分かった。
「植物は良い。見ているだけで心が洗われる」
「そうですね…」
「職業柄、ストレスが溜まるからね」
フッ、とヨハンナは自虐するように笑った。
それを見て、クリスは目を丸くする。
意外そうな表情を浮かべるクリスに気付き、ヨハンナは目を細めた。
「何だ? 私がストレスや疲労を感じるのがそんなに意外か?」
「い、いえ…その…」
クリスは言葉に詰まる。
正直、意外だった。
クリスから見たヨハンナは完璧な教皇であり、常に人々と平和の為に尽くし、ストレスなんかとは無縁だと思っていた。
「私だって十九の女なんだぞ? 教皇なんかになってなければ、お花屋さんになりたかったわ」
「お、お花屋さん、ですか?」
その言葉が意外過ぎてクリスは思わず噴き出してしまった。
ヨハンナはじろり、とクリスの顔を睨む。
「今、笑ったな。そんなに私に似合わないか…良いじゃないか、願うだけならタダなんだから」
拗ねたようにヨハンナは息を吐いた。
そんな姿もまた、意外だった。
しかし、考えてみればそれは当然のことだ。
完璧な指導者。
神に愛された教皇。
どんな言葉で呼ばれようと、ヨハンナだって人間に変わりない。
不満があれば口にするし、嫌なことがあれば気が沈む。
他の人間と何も変わらない。
ただ、ヨハンナはそんな弱みを隠すのが人より上手なだけなのだ。
「…意外ですけど、前よりももっと貴女を好きになりました」
「好き、か。堅苦しい美辞麗句より、そう言う率直な言葉の方が私は好みだよ」
笑顔で告げるクリスに、ヨハンナも笑みを浮かべた。
(そう言えば…)
ふとクリスは思い出した。
(結局、コルネリアさんは何で泣いていたんだろう?)
「…結論から言うね」
同じ頃、アーテルはコルネリアと向かい合っていた。
何枚かの資料を眺め、そして簡潔に告げる。
「花粉症です」
「グスッ…」
アーテルの診断結果に、コルネリアは鼻を鳴らした。
その眼は赤く、涙で潤んでいる。
「す、少し前から、教皇室に入ると、目や鼻が痒くなって…グスッ…く、くしゃみが止まらなくなることも…あって…グスッ」
「うん。花粉症です」
改めてアーテルは診断結果を告げた。
どう見ても花粉症だった。
普段からヨハンナの花の世話をしていたから、花粉を吸ってしまったのだろう。
「グスッ…グスッ…ハックシュ…!」
「…お薬出しときますね」
「お、お願いします…」
「………」
クリスはしばらくヨハンナと雑談した後、笑顔で帰っていった。
一人残ったヨハンナは花を眺めながら、今日のことを考える。
「クリスは私に対して遠慮があったようだが、少しは打ち解けてくれたかな」
クリスは必要以上にヨハンナを神聖視し過ぎていたようだ。
だから、ヨハンナが素の表情を見せたことで、壁が薄まったように感じた。
互いの本音を語ることで立場を超えた友人になれるかも知れない。
「…と言うのは建前で」
ヨハンナは冷めた表情で呟く。
「クリスもアーテルも重要な戦力。重要な駒だ。いざという時に私の指示通りに動いてくれなければ、計画が狂ってしまう」
恩で縛るのは簡単だが、あまりそれに頼り過ぎていればこちらの行動が狭まる。
クリスの信じる『恩人』のイメージからかけ離れた行動が取れなくなってしまう。
それ故に、クリスのイメージをもっと現実の自分に近付ける必要があった。
例えば、冷酷な判断を下した時にもクリスが迷いなく従うように。
クリスはあくまでも駒の一つだ。
ネフィリム計画はヨハンナが行わせたものではないけれど、ヨハンナはその『成果』に目を付けて横から掠め取った。
クリスを助けたのは正義感からの行動ではなく、その力を求めただけだ。
だからクリスは駒に過ぎず、駒は好きに使い潰して構わない。
「…と言うのも建前で」
はぁ、とヨハンナはため息をついた。
どっちも本音でどっちも建前だ。
クリスを助けたのは彼女の力を利用する為であるし、彼女と立場を超えた友人になりたいと言うのも本音。
ヨハンナは何の得も無くクリスを助けるほど善人では無いが、自分が気付けなかった所で非道な実験を受けていたクリスに何も思わないほど悪人でも無かった。
神に愛されようが、白日教会の指導者だろうが、ヨハンナは人間だ。
善にも悪にも傾き切れない普通の人間だった。
「クリス。お前は似合わないと思うだろうけど、私は本当に花屋になりたかったんだ」
ただ好きな花のことばかり考えて生きたかった。
普通の人間になりたかった。普通の生活が欲しかった。
教皇になど、なりたくなかった。
「…お母さん」
ヨハンナは机の上に飾られた写真を見つめる。
そこには笑顔を浮かべた女性が映っていた。
「どうして、死んでしまったの…?」
その問いに答える者は、誰もいなかった。




