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獣に到る病  作者: 髪槍夜昼
二章 白の獣
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第三十八夜


大聖堂。


白日教会の中心である建物。


壁には様々な宗教画が並べられ、大理石の床にも何かの奇跡をモチーフにした模様が描かれている。


その奥には御神体のように安置された巨大な樹がある。


「………」


それは、宗教に疎いアーテルから見ても分かる程に神聖さを感じさせる物だった。


どんな名画よりも、どんな宝石よりも、この場に於いて価値のある存在。


聖堂の天井に届きそうな程にその枝を大きく伸ばしているその大樹は、樹齢百年を優に超えているだろう『神樹』だった。


「『セフィロト』を見るのは初めてか?」


大樹の下に立っていた一人の女が呟く。


「コレこそが生命の樹。約六百年前に殉教者ヨハネが植えた神樹だ」


それは若い女だった。


まだ年若く、少女と呼ばれる年頃を抜けたばかりと言った所。


「全てはこの樹から始まった。暴君ヘロデが打倒された後、セフィロトが植えられたこの場所が第一の都市となった」


それでも纏っている装束に決して劣ることは無く、その顔立ちは清廉そのもの。


長く美しい金色の髪には幾つかの花を髪飾りのように差しており、幻想画染みた印象を与える女だった。


「ようこそ、大聖堂へ。あなた達を歓迎しよう」


そう言って教皇ヨハンナは花のような笑みを浮かべた。








「きょ、教皇様…!」


クリスは相手の正体に気付くと、すぐに頭を下げる。


目の前に立つ女は、教皇だ。


恩寵を授かって生まれてきた、正しく神に愛された存在。


白日教会の信徒にとっては、神と同等に崇拝するべき神の代行者だ。


「まあ、楽にしてくれよ。立場など気にせずにね」


「い、いえ…」


「…?」


ヨハンナの言葉に恐縮するクリスを見て、アーテルは首を傾げた。


相手は教皇であり、聖女である前に一信徒であるクリスが崇拝する対象であることは理解しているが。


(こんなに信心深い性格だったか?)


確かにクリスは善人だが、普段の言動を見ている限り信心深いとは言い難い。


神の力や信仰を、人狼を滅ぼす為の道具のように考えているように見える。


どちらかと言えばクリスは目に見えない信仰対象よりも、目に見える形で自分を助けてくれた者に尊敬を示すように思っていたが。


「教皇様には、その、深い御恩がありますし…」


(…なるほど)


クリスの言葉にアーテルは一人納得する。


クリスは恩があると言った。


つまり、立場に対する敬意では無く、ヨハンナ自身に対する敬意。


神に愛された存在としてのヨハンナでは無く、人間ヨハンナに対する恩から尊敬を示していると。


(いやはや、ソフィーもそうだけど、聖女って人種は恩に弱いものなのかな?)


二人共、随分と義理堅い。


「恩なんて気にしなくていい。借りがあると言うのならお前は既に十分に………ん?」


そこで言葉を切り、ヨハンナはアーテルに視線を向けた。


アーテルの怪しげな風貌を訝し気に感じているのではなく、その内面に眉を動かす。


「お前、怪我をしているのか?」


「え?」


「…少し動くな」


アーテルの返事を待たず、ヨハンナは手を翳す。


すると、その手から小さな花弁のような物が幾つも舞い、アーテルの体へと吸い込まれていった。


「コレは…」


具合を確かめるように腕を動かし、アーテルは驚愕した。


治っている。


応急手当だけを施していた身体の傷が、全て。


砕けていた内臓や骨まで全部元通りになっている。


「まだどこか痛い所はあるか?」


「いや、大丈夫だよ。それより、コレは一体…」


「『恩寵グラティア』だよ」


何でも無いことのようにヨハンナは答えた。


「言うなら秘跡サクラメントの上位版だな。私の力は並みの聖人よりも強力なんだ」


特に誇るでもなく、驕るでもなく、ただ事実を説明するように言うヨハンナ。


「秘跡同様に恩寵にも種類があるが、私の場合は癒し」


ヨハンナの手の平から無数の花が生える。


花の甘い香りが、周囲を包み込んだ。


「自身の生命力を花に変え、他者に分け与える力だ」


「分け与える…?」


アーテルはヨハンナの手の平を眺めながら繰り返す。


あの花々はヨハンナ自身の生命力から生み出された物だったのか。


「それって大丈夫なんですか?」


「私は生命力も常人より多くてね。一人二人の重傷を治したくらいなら、軽い貧血になる程度さ」


朗らかに笑みを浮かべるヨハンナ。


それでも、その力は自身の命を削る力である。


ほんの僅かであろうと、自らの血肉を削り、分け与える能力。


秘跡とは、本人に相応しい物が神によって与えられると言われている。


自分のことしか考えない人間には、この力は宿らない。


ヨハンナが他者の為に自分を犠牲にすることを厭わない人間だからこそ、この力を得たのだろう。


「さて、そろそろ本題に入ろうか」


パン、と手を叩いてからヨハンナは言った。


「報告によるとお前達はマスターテリオンと接触。また、白騎士とも遭遇したらしいな」


「はい。そうです」


「間違いないよ」


「ふむ。それで生き残っているとは大した物だ」


感心したように唸り、ヨハンナは二人を見つめた。


「マスターテリオンはカラスのような使い魔を使っていました。だから、直接戦った訳では…」


「まあ、そうだろうな」


その報告は聞いていたのか、特に驚くことなくヨハンナは頷く。


「もし直接会っていたら、間違いなく死んでいただろうから」


そして、当然の事実を告げた。


「実のところ、マスターテリオンと教会が接触した回数は非常に少ないんだ」


「そう、なんですか?」


「ああ、狼狂病が発生して約百年。メガセリオンと呼ばれる人狼が教会を襲い始めたのが……七十年くらい前からかな」


トントン、と自身のこめかみを叩きながらヨハンナは言う。


「その中で、教会がマスターテリオンと接触したのは十三年前の一度きりだ」


「十三年前…」


「当時何があったのかは、修道院で学んでいるだろう?」


言うまでもない、とヨハンナは言葉を止める。


だが、アーテルはそれに不思議そうに首を傾げた。


「十三年前に何があったんだい?」


「…そうか。お前は正式な聖人じゃなかったね」


ならば説明しよう、とヨハンナは口を開く。


「『聖戦』と呼ばれる戦争があった」


それは、全ての聖人と聖女が知る白日教会の歴史。


聖なる戦い。


「当時、歴代最高と言われる教皇がいた」


誰もが認める真の英雄。


ヨハンナの先代であるその教皇は、誰よりも神に愛された存在だった。


「メガセリオンの半数を撃破した『彼女』は、多くの聖人を率いて遠征に向かった」


「遠征…」


「メガセリオンの本拠地『マルクト』に」


メガセリオンの半分を討伐したことで勢いに乗り、教会の聖人達はマルクトへ侵攻した。


それこそが聖戦。


全てのメガセリオンを滅ぼす為の戦争。


「当時、メガセリオンの要だと思われていた四騎士の内、二体を倒し、彼女達は勝利する筈だった」


それは百年の歴史に於いて、最大の出来事。


教会の聖人達は、メガセリオンをあと一歩の所まで追い詰めたのだ。


「そして、奴が現れた」


「…それが、マスターテリオン」


「そう」


今まで、四騎士が頂点だと思っていた。


四騎士さえ全て倒せば、この戦争は終わると思っていた。


それこそが最大の誤算。


真の敵は、その上に居た。


「四騎士を遥かに超える実力を持つマスターテリオンを前に、遠征軍は壊滅。教皇も命を落とした」


「………」


アーテルは言葉が無かった。


四騎士。あの白騎士でも、化物のような力を持っていた。


それを倒した英雄達でさえ、マスターテリオンには勝てなかった。


あのカラスの分身を倒したことなど、何の気休めにもならない。


本物のマスターテリオンは、一体どれだけの怪物なのだろうか。

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