第三夜
「元々俺は旅医者でね。そろそろ別の場所へ向かおうと思っていたんだ」
太陽は真上に上った頃、道を歩きながらアーテルは言った。
本人の言うように旅慣れているのか、荷物はカバン一つだけだ。
「君が寝ていたベッドがあった家も、村で使わなくなったやつを借りていたんだよ」
「村人に信頼されていたみたいね…」
「田舎の村には医者なんて殆ど居ないからね。医者と言うだけで案外親切にしてくれるものだよ」
まあ、確かに医者と言うのは貴重だ。
軽い病気でも場合によっては死に至る時代だ。
見知らぬ旅人だろうと、医者であるだけである程度は信用されるものなのだろう。
「何で旅なんて続けているの?」
クリスは不思議そうに呟く。
「貴族のお抱えにでもなれば、一生食べるのには困らないと思うけど?」
医者が不足しているのは田舎の村だけじゃない。
クリスの出身地、白日教会の本部がある『聖都ケテル』でも医者はまだ不足している。
十分な医療知識さえあれば、職に困ることなど一生無いだろう。
「そんな生活も悪くは無いけど、医者と言うものはある意味科学者に近い人種なんだよ」
「科学者?」
「そう。医学を発展させるのは、膨大な知識でも、卓越した技術でも無い」
カチカチとアーテルは手袋に付いた爪を鳴らしながら言う。
「それは『経験』さ。数多くの患者を診て、触れて、知る。そればかりはどれだけ本を読もうとも得られないものだ」
アーテルは金儲けの為に医者になったのではない。
自身の技術の向上、ひいては医学の発展の為にこの道を選んだ。
だからこそ、貴族のお抱えになって屋敷の中で一生を終えるつもりは無い。
国中を巡り、直接患者に関わることで多くの経験を得たいのだ。
「…なるほど。その珍妙な格好は、その為ってこと」
「そう言うことさ」
全身を覆うガウンコートは患者の血が皮膚に触れないように。
クチバシ付きのマスクは患者と距離を取る為に。
「医者として実に合理的な格好だと言うのに、何故か変人扱いされることが多いのだよ」
「それは当然だと思うわ」
「何故だ?」
本気で理解していないのか、アーテルは心底不思議そうな顔をした。
キョロキョロと自身の恰好を見下ろし、やがて何かに気付いたように顔を上げる。
「…患者の匂いがする」
「へ? 匂い?」
「こっちだ!」
そう言うとアーテルは唐突に走り出した。
突然の行動にクリスは目を白黒させる。
「ちょっと! いきなりどこに行くの!」
ふと我に返り、クリスは急いでアーテルの後を追った。
「と言うか、速ッ!? ひょろひょろとした手足しているくせに!」
見た目運動が得意そうには見えなかったが、アーテルは意外と速かった。
クリスはこれでも教会で訓練を積んでいると言うのに、中々追い付けない。
幸いにも、アーテルはしばらくすると立ち止まった為、すぐに追い付くことは出来た。
「はぁ…はぁ…! 病み上がりの人間を急に走らせるなっての…!」
(…うん? と言うか、何で私、素直に追い掛けているんだろう?)
いっそこのままアーテルを放って立ち去れば良かったのではないだろうか?
そんな考えが今更頭に浮かんできた。
本当に今更だが。
「クリス。見ろ」
「何よ? 確か患者がどうとか…」
アーテルの指さす方向を見て、クリスは言葉を止めた。
そこに在ったのは、一つの民家だった。
入り口には破壊の痕跡があり、壁や地面には大きな爪痕が残っている。
クリスの顔が段々と強張っていく。
「コレは、人狼に…?」
「そのようだ。だが、生存者はまだ居る」
「どうして分かるの?」
「患者の匂いがする」
「………」
またそれか、とクリスは思わず呆れた。
「…?」
体に痛みを感じ、少年は目を覚ました。
何か薬のような匂いがする。
違和感を覚え、瞼をゆっくりと開く。
「やあ」
目を開けて、最初に映ったのは奇妙なマスクを被った怪人だった。
「うわああああああ!?」
「良い叫び声だ。思ったより元気そうじゃないか」
「おお、お前は誰だ! 俺に何をする気だ! 母さんはどこだ!」
「まあ、落ち着くんだ。まずは注射を打とう」
パニックに陥る少年に対し、怪人はマイペースに注射器を取り出す。
その尖った先端を見て、少年の顔が青褪めた。
「コレを注射すれば、すぐにまた母親に会える。安心しろ」
「や、やめろおおおおおおおおおお!?」
ガクガクと恐怖に震える少年の腕に注射が打たれた。
そこで緊張がピークに達したのか、少年はそのまま気絶した。
「うん? 何故気絶した?」
「この馬鹿! 医者が患者を怖がらせてどうするのよ!」
首を傾げるアーテルの頭をクリスは思い切り叩いた。
この男、わざとやっているのではないか。
言葉選びが最悪すぎる。
悪夢でも見ているのか、何やら魘されている少年が不憫でならない。
「あ、あの…」
先に治療を受けていた少年の母親が心配そうに呟く。
「だ、大丈夫よ。この子に打ったのは、ワクチンだから」
慌ててクリスはアーテルのフォローをする。
アーテルが少年に注射したのは、ただのワクチンだ。
「ワクチン、ですか?」
「その通り」
不思議そうな顔を浮かべた母親にアーテルは身を乗り出す。
「人狼に襲われた際、もっとも気を付けなければならないのは『感染症』だ」
アーテルは懐から茶色の小瓶を取り出す。
「人狼に噛まれると『狼狂病』と言う病気に罹ってしまうことがある。発症すればまず助からない恐ろしい病気だ」
言いながらアーテルは小瓶を母親に手渡した。
「一応ワクチンは打ったけど、体に黒い痣が浮かぶようだったらコレを飲むんだ」
小瓶の中には幾つかの丸薬が入っている。
それは全てアーテルが自作した狼狂病の薬だった。
「あ、ありがとうございます! ですが、私はお金が…」
「代金なんて気にしなくていい。人として当然のことをしたまでだからね」
そう言うとアーテルは立ち上がった。
「ああ、そうだ。代金代わりと言う訳では無いが…」
ちらりとアーテルはクリスを一瞥してから尋ねる。
「君達を襲った人狼がどこへ逃げたか分かるかい?」