第二十一夜
「『紅糸』」
紅の糸が夜を駆ける。
虚空へ描く無数の軌跡は、まるで流星群の如く夜空を彩る。
蟻の子すら逃さないと言うように張り巡らされた糸の檻。
形ある生物である限り、回避することは不可能。
「………」
対するプルートは何ら躊躇なく、それを走り抜けた。
腐食の毒を纏った獣は檻に囚われない。
その身に触れる全てを腐らせ、溶かす。
大地すらも腐食させながら走り続け、アーテルへと迫る。
「これなら、どうだ…!」
アーテルの指先が動く。
無数の紅い糸が束ねられ、一つの塊へと形を変えていく。
「潰れろ!」
それは紅い糸で編まれた拳。
巨人の腕のようなその拳は、正面からプルートの顔面を殴り飛ばした。
「ぎ…ッ」
初めて、プルートの口から苦悶の声が上がる。
人狼とは言え、見た目通りの重量しか持たないプルートの体が木の葉のように吹き飛んだ。
「やっぱり。触れた者を腐食させると言っても、質量によっては時間が掛かるようだな」
あくまでも腐食の毒はプルートの体の表面を纏っているだけだ。
今の拳のように大質量の物を瞬時に腐食させることは出来ず、その衝撃も流せない。
(…とは言え、この程度では意味が無い)
人狼の再生力は脅威的だ。
手足の欠損でさえ、時間を掛ければ再生できる。
銀製の武器や秘跡を使えば、その再生速度を遅らせることが出来るが、相手は人狼の上位種。
それだけでは止めを刺すことは出来ないだろう。
(狙うのは、やはり心臓か)
その身に流れる黒血の源。
『心臓』を秘跡で破壊すればメガセリオンも死に至ることは、既にヴィーナスで分かっている。
(より鋭く、より大きく、糸を編み込む…)
アーテルのイメージと共に紅い糸が収束する。
虚空に形成されるのは、紅の杭。
その数は四つ。
プルートの四肢を地面に縫い付けるように、血肉を抉る。
「が、あああああああ!」
黒い血飛沫を噴き出しながら、プルートは絶叫した。
それを冷徹に見下ろし、アーテルは止めの一撃を作り出す。
「あああああァァァァ!」
五本目の杭が放たれる直前、プルートの絶叫が咆哮へ変わった。
手足を杭で穿たれたままアーテルを睨みつけ、大口を開ける。
瞬間、弾けるようにプルートの体が射出された。
「何…!」
動かない体など要らぬとばかりに、杭に貫かれた四肢を千切り、首と胴体だけになったプルートはアーテルへと襲い掛かる。
それは獣の執念。
例え首だけになろうとも敵の喉笛に喰らい付く殺戮本能。
完全に虚を衝かれたアーテルの右肩をプルートの牙が抉った。
「ぐ…うう…!」
牙で肉を抉られる痛みよりも先に、プルートに触れた皮膚の腐る激痛が走る。
振り払おうと爪を振るうアーテル。
しかし、それよりも先にプルートは自ら身を退いた。
「………」
無言でそれを見つめるプルートの四肢が再生していく。
瞬く間に復元するプルートの体とは裏腹に、アーテルの右肩は骨まで腐敗している。
右腕は垂れ下がり、全く力が入らない。
「利き腕を潰した。お前は、終わりだ」
「…は」
プルートの言葉に、アーテルは小さく笑う。
「生憎、俺は両利きなんだよ…!」
残った左腕を動かし、アーテルは糸を操る。
束ねた紅い糸がアーテルの右肩と右腕を包み込み、人形のように動かす。
「この指が一本でも残っている限り、糸は操れる」
「…そうか」
再び両手で無数の糸を操るアーテルを前に、プルートは感情なく呟く。
「では、その指。骨の髄まで腐り落ちろ…!」
プルートの纏う毒の濃度が増大する。
大地を腐らせ、空気を腐らせ、触れた者全てを腐らせる腐敗の毒。
それは最早、鎧と言うよりは『沼』に近い。
触れた存在を何であれ腐敗させ、溶かして引き摺り込む。
再び紅い杭を形成し、プルートの身を貫くアーテル。
だが、一度目よりも効果が薄い。
腐敗の速度が目に見えて上昇し、杭は跡形も無く霧散した。
「チッ…!」
それだけではない。
アーテルは問題ないように振る舞っているが、やはり右腕の負傷が原因で動きが鈍っている。
操れる糸の数も減少しており、杭の数も二本に減っていた。
「…ッ」
それを、クリスは歯を食い縛って見ていた。
視線の先で、アーテルの体に次々と傷が刻まれていく。
アーテルもプルートにダメージを負わせているが、多少の傷など人狼の体には無意味。
結果的に、アーテルだけが一方的に消耗している。
(このままじゃ…!)
何とかしなければならない。
そうは思っても、クリスにはプルートを倒す方法が思いつかなかった。
無事だった方の銃を右腕に握っているが、コレで何が出来る。
(奴の毒の鎧を突破することは出来ない。鋼の糸だろうと、血の弾丸だろうと…)
それは既に証明されていることだ。
アーテルの攻撃も、クリスの攻撃も、あの鎧を貫くことは出来ない。
腐敗が間に合わない程の質量で攻撃すると言う方法は、既にアーテルが試した。
そして毒の濃度を上げることで対処されてしまった。
(…毒?)
ふとクリスはそれが引っ掛かった。
毒。全てを腐敗させる毒。
それは、本当に何でも腐敗させてしまうのだろうか。
当然だろう。同族である人狼でさえも、その毒は溶かしてしまったのだから。
(だったら、何で…)
クリスの視線がプルートに向けられる。
その戦闘スタイル、能力の使い方を見て、一つの推測が浮かんだ。
(試してみる価値は、ある…!)
クリスは銃を握り、静かにプルートへと向けた。
息を殺し、気配を絶ち、チャンスを待つ。
「ファイア!」
そして、その時は訪れた。
「な…!」
アーテルは突然の出来事に動きを止めた。
背後から飛んできた血の弾丸。
それがアーテルに迫るプルートへ放たれたのだ。
大きく開かれた、プルートの口へと。
「…!」
プルートの口内に飛び込んだ弾丸は、しかし腐敗することなく体内を貫く。
そう、毒の鎧はあくまで皮膚だけの物。
内側、即ちプルートの肉体は毒では無い。
そうでなければ、プルートは自らの毒で死滅してしまう。
「あ、が…」
そして、体内に混入した弾丸は、逆にプルート自身を蝕む毒となる。
クリスの血。
獣を内から焼き尽くす劇毒によって。
「コレで、終わりよ…!」




