第十三夜
「………」
羽交い締めにされたクリスは意識を後方に向けた。
コツコツと靴を鳴らして男が近付いてくる。
それはクリスより一足遅れてきたアーテルだった。
「…アーテル?」
「―――」
アーテルは何も答えない。
ぼんやりと囚われたクリス、そして男達を従えたヴィーナスを眺めている。
「あはは! そこの男も魅了されちゃったのかしらぁ? もしかして恋人? だとしたらごめんなさいねぇ」
けらけらと可笑しそうに笑いながら、ヴィーナスはアーテルへ視線を向けた。
「美しさは罪、と言うけど本当よねぇ」
「…何をしたの」
クリスは低い声で告げる。
コレは異常だ。
愛も恋も超越した『崇拝』に近い感情。
ヴィーナスの為なら、文字通り命だって投げ出す程の激情が男達を支配している。
「私達メガセリオンはそれぞれ一つずつ『あの方』から力を与えられている」
(…あの方?)
「私が授かった力は『色欲』…愛欲も欲情も全て私の司る物よ」
ヴィーナスはウィンクをしながら情欲に歪んだ笑みを浮かべた。
人間を見下す優越感に満ちた笑みだった。
「…授かった力は一つ。それに、色欲ね」
クリスはヴィーナスの言葉を栗化し、一人頷く。
「良い情報を貰ったわ。ぺらぺらと喋ってくれて、ありがとう」
瞬間、クリスを羽交い締めしていた男が吹き飛ばされる。
驚くヴィーナスを前に、クリスは走り出した。
「色欲と言う名前から察するに、あなたの能力は他者を魅了する能力」
ヴィーナスを守るべく立ちはだかる男達へクリスは躊躇いなく発砲する。
狙うのは手足。
心臓を正確に狙い撃つことが出来るクリスにとって、急所を外して無力化することは造作もない。
「魅了する条件は…」
他の男達は知らないが、アーテルは言葉を交わすまでも無く洗脳されていた。
条件はもっとシンプル。
「視線を合わせること…!」
「!」
ヴィーナスの特徴的な眼を見つめながらクリスは告げる。
魔眼。
悪魔や魔女が持つと言われるそれは、視線を向けるだけで相手を呪う。
人を魅了し、意のままに操る異能だ。
それは強力な呪いだ。
一目で敵を洗脳し、自身の支配下に置く。
無敵と言っても良いだろう。
だが、
「だけど、その力は異性にしか効かない」
もしクリスにも同じように効くのなら、今頃は洗脳されている筈だった。
最初に目を合わせた瞬間に戦いは終わっていた。
「だから村の女を殺したのでしょう? 女は奴隷に出来ないから!」
被害に遭った村で殺されたのは女だけだった。
洗脳し、連れ去ったのは男達。
従える奴隷の中に女は一人も居なかった。
「ッ」
クリスは男達を全て無力化し、ヴィーナスへ迫る。
華奢な外見は荒事が得意そうには見えない。
しかし、侮るのは危険だ。
油断なくクリスは銃口をヴィーナスの心臓へ向ける。
「…あは」
ヴィーナスの口元が愉悦に歪んだ。
『その一瞥はクピドの一矢。
愛しき人よ。我が眼の虜となれ』
歌うような言葉と共に、ヴィーナスの金眼が不気味に輝く。
「呪禁『色欲』」
「ッ!」
がくり、とクリスの膝が地につく。
頭に霧が掛かったように思考が混濁する。
その視線から、目を離すことが出来ない。
「貴女は二つ、勘違いをしているわぁ」
ヴィーナスは女神のように笑いながら呟く。
「一つ。私の『色欲』は同性も魅了できる。異性に比べれば時間が掛かるけどねぇ」
人差し指を立てながら、ヴィーナスは言った。
視線を合わせた回数か、視線を合わせた時間か。
条件さえ整えれば、女も問題なく魅了できるのだ。
「二つ。私が村の女を殺したのは別に魅了できないからじゃない」
二本目の指を立て、ヴィーナスは言う。
「…では、どうして?」
「簡単な話…『醜い』からよ」
ヴィーナスは膝をついたクリスを見下ろし、そう告げた。
「この私に比べれば、どんな女も醜く見える。醜い女達は身勝手に私を妬み、憎む」
常に笑みを浮かべていた顔に、僅かな負の感情が宿る。
殺した女達を心から嫌悪するようにヴィーナスは吐き捨てた。
「彼氏を奪われた? 旦那を奪われた? 知らないわよ。それはただ、貴女に魅力が欠けていたってだけの話でしょう?」
「………」
「だから私、女って大嫌いなの。全員死ねば良いと思っている」
そう言って、ヴィーナスは視線をクリスに向ける。
「…だけど、貴女は美しいわね」
言いながらヴィーナスはその手でクリスの頬に触れた。
クリスの白い肌を撫でながら、情欲に染まった笑みを浮かべる。
「今まで見てきたどの女よりも美しいわぁ。この私が他人に対して美を感じるなんて初めて」
うっとりとした表情でヴィーナスはクリスを見つめた。
「ぐ…う…!」
「まだ抗おうとしているの? その心の強さも堪らないわねぇ」
洗脳に抵抗する姿を見て、ヴィーナスはますます喜悦に顔を歪める。
「貴女なら私に嫉妬しない。私達、対等の『お友達』になれると思わない? お友達、良い響きだわぁ」
男なら捨てる程いるが、女の友達は新鮮だ。
人間だった頃も含めて初めてかもしれない。
クリスの心情を余所に、ヴィーナスは想像に心を躍らせている。
「さあ、貴女の首筋に口づけをするわ。大丈夫、すぐに気持ちよくなるから」
愛欲に歪んだ顔でヴィーナスはクリスを抱き締めた。
そしてその唇をクリスの首に近付け…
「女相手でも見境なしか。最近の子は乱れているねー」
呑気なその声を聞き、ヴィーナスは冷や水を浴びせられたような気分になった。
クリスから離れ、視線を声の主に向ける。
「何、あなた?」
そこに居たのは、カラスのようなマスクを付けた黒い男。
既に洗脳した筈の男が、気安く片手を上げている。
「やあ、お楽しみのところ失礼。悪いんだけど、その子を返してもらえるかな?」
「………」
ヴィーナスは睨みつけるように金の眼で凝視する。
それだけだ。
それだけで、男は自分の意のままになる。
例えマスクで顔を隠していても関係ない。
視線を交わえば、それで呪いは成立する。
「魅力的な瞳だね………それが?」
「ッ! どうして、私の魔眼が効かないの! 男なら誰だって一目で魅了してきたのに!」
目の前の現実が信じられず、ヴィーヴルは声を荒げる。
自身の美貌を否定されたような気分だった。
そんなヴィーヴルを眺めながら、アーテルは懐に手を入れる。
「生憎、俺は恋も愛も知らない『人でなし』だからね。俺には君の美しさが分からない」
ジャラジャラと音を立てて、アーテルの首元から何かが飛び出す。
服の中に隠されていたそれは、ペンダント。
「聖銀の、ペンダント…!」
それは教会に認められた聖人である証。
「正直、気が進まないよ。だって医者が人を傷つけるなんて本末転倒も良い所だろう?」
アーテルは手袋に付けられた爪を鳴らし、獣のような構えを取る。
「でもまあ、病原体を駆除すると言えば、医者らしいかな?」




