リイナと理衣奈!
―――夢を、見ていた気がする。
それはとても、とても―――幸せな―――
「理衣奈、ねえ理衣奈ってば」
「……え?」
聞き覚えのある声に目覚めると、ぼんやり薄暗い中に広がる見慣れた天井があった。
一瞬夢かと思って目を瞬かせるも、開けた視界に変化はなくて。
一枚一枚まるでアニメフィルムのように、目に順番に映る景色にはまず最初に【母】の顔。
その次は母越しに見える黄色く光る豆電球。
おかげで部屋は暗く、今が夜である事がわかる。鈴虫の鳴き声が聞こえるあたり、季節は秋なのだろうか。
笠を被ったレトロな明りに、思考が段々とクリアになってくる。
「【母さん】……何、どうしたの」
むくりと布団から起き上がると、母が申し訳なさげに眉を下げた。
私は同じく見慣れたその顔から視線を逸らし、後ろにある安っぽい編み目の壁紙に目を向ける。
あまり綺麗とは言い難い部屋の壁紙は経年劣化で所々浮き上がり、誰がつけたかも知らない染みもついている。
申し訳程度の換気扇しかないせいか、台所からは仄かに生ゴミのにおいがしていた。
―――ああ、なるほど。
そうね。
そうよね。
あんなの夢よね。
そりゃ。
まだ薄く靄の掛かる頭で、なんだそうだったのかと結論を出し始める。
あまりにリアルなものだから、てっきり本当に自分が転生して生まれ変わったのかと思ってしまった。
けれど、どうやらそれは単なる夢だったらしい。
そりゃそうだ。
日本人の、貧乏なOLである塚本理衣奈が、そんなどことも知らない異世界のご令嬢などになれる筈がない。
たとえ母親が今と同じく金銭感覚大崩壊の人であっても、この状況を助けてくれる人が都合良く現れるなんて、ありえないのだ。
ああでも。
すごく……いい夢だったな。
母親のロクシアナは母さんとそっくりだったけど、でも今より愛嬌があった。
侍女のエブリンは厳しいけど信頼できる女性で、とても頼りになって。
そして。
そして私の夫となってくれたクラッド様は―――
「起こしてごめんね。あのね理衣奈。その……」
「何?」
夢の世界で見た綺麗な人を思い出していたら、それを阻むようにじっとりした声がした。
私は少しだけ眉を顰めながら、内心溜息をつき問い返す。
この人が語尾を濁す時、言われる事は大抵決まっている。
「あのね、今月もね、足りないのよ。生活費……悪いけど、なんとかならない?」
申し訳無さそうに、控えめに見えてけれど否と言わせないという雰囲気に、嫌な懐かしさを感じた。
ここ最近は金銭の心配が無かったから、余計にそう思うのだろう。
といっても、それは夢の世界での私のことになるのだが。
「わかった。幾ら?」
「五万円」
「そう。じゃあ明日おろしてくる」
私が了解すると、母は笑顔を浮かべて「起こしてごめんね」と言って部屋を出て行った。
部屋といっても寝床にしている部屋を出ればすぐにリビングがあり、母はそこで寝起きしている。
間を隔てるのは襖一枚。
もちろんプライベートなどありはしない。
古いアパートは壁も薄く、隣に住む学生の生活音すら響いてくるほどだ。
ただ父は月に一度帰るかどうかなので、そのおかげで少しは自分の時間が持てている。
でなければ、とっくに色々壊れていただろう。今も無事とは言い難いが。
リビングから物音がする。
母が片付けでもしているんだろう。
……母さん、また使い込んだんだな。
もう一度布団に横になりながら、深い深い溜息を吐いた。
母からお金を出してほしいと言われたのは、これで何度目になるだろうか。
数え切れないから、分からない。
高校時代はまだ良かった。
自分の授業料の事もあったから、仕方ないと思えた。
就職しOLとなった今も生活費くらいは入れるべきだと思っているから、月に十万円は家に入れている。
だけど、母に五万円欲しいと言われたのは今月これで二回目だ。
つまりはトータルで二十万円。
私は仕事と掛け持ちで隠れてバイトもしているので、月収は三十万近くあるが、それでも半分以上持っていかれるのはかなりキツい。
そもそも、私がこうして掛け持ちしているのは母の為だ。
お嬢様育ちの母には、金銭感覚というものがまるで無い。
幾ら教えても、幾ら家計簿をつけて一週間の生活費を分けて考えてと諭しても、必ず必要なものもそうで無いものも買い込んで、月の途中でお金が無いと私のところにやってくる。
最初は私も何度も言って聞かせたが、言う度狂ったように泣かれては、こちらもほとほと疲れてしまい、今やもう諦めてしまった。それは父も同じだ。
元々仕事で月一程度しか帰ってこないが、それも他の人のところにいっているのかどうかすらわからない。
そのせいか近頃は余計に母の金遣いが荒くなった。
仕事をしても続かず、パートやアルバイトですら三日と経たずに辞めてくる。
理由を聞いても支離滅裂な答えしか返らない。
もう、お手上げだった。
搾取子という言葉があるけれど、自分はまさにそれなのではと時々思う。
しかも救いなのか嘆くべきなのか、母には本当に悪気がない。
彼女が散財する理由の全てが家族の為だと本人は言う。だからこそ余計質が悪いのだ。
勝手に車のローンを組んでくることもある。
高級スーツや旅行の費用を限度額いっぱいまでカード払いにしてくるし、テレビの通信販売にもすぐに電話してしまう。おかげで父のカードも母の家族カードも、勿論私のも全てのカードが使い潰された。
買い物をしていないと正気でいられない病気だといえるだろう。
けれど、病院に連れて行ったらそれこそ虐待しているみたいに大泣きされ、隣近所にまで言いふらされた。
母がこんなだから、私は就職した時、母を捨てるべきかどうか、本当に迷った。
だけど結局そうは出来なくて。
子供の頃から今まで、悪い時ばかりでは無かったから、捨てられなかった。
これが人間の情というなら、私にとっては不幸の種でしかない。
少しでも良い記憶があるせいで、非情になりきれない。
捨ててしまいたいのに、幼い頃の記憶が邪魔をする。
母は料理上手な人で、私が物心ついた時から食パンやアイスクリームを手作りしてくれた。
小学生の頃はよく友達に羨ましがられたものだった。
元々お嬢様育ちなこともあってか裁縫や料理が得意な人なのだ。そんな母の実家は裕福で、駆け落ち同然で父と結婚したものの、悪い事に母は自分の生活レベルを落とす事が出来なかった。
今は無い毛皮のコートや大ぶりのサファイアの指輪を父にねだって買ってもらったり、現金が無くなればローンを重ね、欲しいものが買えなくなると泣き喚いたりを繰り返した。
渡したお金は全部使い切るし、渡さなければこっそり財布から抜いていく。
家に現金を置かなければ、隣近所に無心さえしに行ってしまう。
お金の事さえ無ければ良い母と言えるのに、母はそれだけが致命的な欠点だった。
お金が無いと言えば泣かれ、詰られ、かといって捨てる事も出来ず、ただひたすら働き続けて。
近頃は立っているだけで視界が揺れて、私の身体もそろそろ駄目かもしれないなと思っている。
病院に行くという気力すらわいてこない有様だ。
……だけどもう、いいかな。
だってなんだか疲れたんだ。
母さんにお金渡すのも。
泣かれるのも。
帰ってこない父さんを待つのも。
家を捨てられない自分の馬鹿さ加減に呆れるのも。全部。
「明日……銀行いかなきゃ」
かけもちバイトのお給料が昨日振り込まれているはずだから、今月はまだ母に渡すお金がある。
だけどこれ以上寄越せと言われたら、私は一体、どうしたらいいんだろう。
己が身一代で財を成したというあの人なら……どうしただろうか。
あの右目を眼帯で覆った、けれど優しい左目を持つ夢の世界の『私』の夫なら。
何かアドバイスくらい貰うことができただろうか。
「どうせ夢が覚めるなら、あの人に一度で良いから好きって言って欲しかったなぁ……」
今のこの塚本理衣奈という疲れ切った女ではなく、異世界の令嬢リイナ=フォンターナであったなら、たとえ母親の問題があったとしても、一抹の希望があったかもしれないのに。
「……なんて、夢はやっぱり、夢よね」
彼の墨色の髪と瞳を思い出す。
もしも本当の夫婦になれていたら、あの眼帯に隠された本当の彼を、見せてもらうこともできたのだろうか。
夢の中の私は彼が右目を失った理由を聞かされていない。
だけどなんとなく、そこに真実が隠されているような気がしていた。
それはとても漠然とした根拠のないものだったけど、ただ心がそう強く思ったというだけのものだけど。
「あの人の事、知りたかったなぁ」
そう静かな絶望の海に沈むように、私は戻れない夢の世界に思いを馳せながら、布団の中で目を閉じた。