旦那様の貞操を奪え!
「リイナ……? それにエブリンも。こんな夜遅くに、二人とも一体何を……」
調理場に現れたおよそ一ヶ月ぶりのクラッド様は、眼帯に隠れていないほうの目をまん丸くして、驚いた表情で私達を見つめていた。
じっとしていると物々しいとすら言える装いの彼が、そのせいで一気に幼く見える。
「く」
「く?」
思いがけない人の登場で固まっていた時間と口が、勝手に動いた。
「クラッド様っ……!! なんてタイミングの良……じゃない、ええと、クラッド様の方こそどうしたんですか? こちらにお帰りになるなんて、何かあったんですか?」
「え? ああ、それは」
捲し立てるように言ったら、こちらの勢いに押されたのか彼が目を白黒させた。クラッド様は見た目の割にウサギ並の草食男子なので、私が弾丸トークを始めると基本聞き手に回ってくれる。
しかしおかげで、ついポロリしそうになった本音をなんとか誤魔化せてほっとした。
危ない危ない。
あまりのタイミングの良さについ神様にぐっじょぶしそうになったわ。
だってほんと、ここんとこ全然会ってなかったし。
にしてもエブリンから今日も商会の事務所に泊まるって聞いてたのに。
ついでに、一ヶ月ぶりと言ったのは、前回私が一方的に彼の仕事場に(差し入れと称して)押しかけた時から、という意味である。
あー……しっかし媚薬くっきんぐの最中に入ってこられてなくてほんと良かったわ。
鍋もエブリンが洗って片付け済みだし。
ちょっと匂いは残ってるけど、これくらいなら気にならないでしょ。
「……クラッド様とは知らず、大変失礼をいたしました」
エブリンがクラッド様に謝罪をしつつ頭を垂れる。
彼女の様子からするに、どうやら今日の帰宅についてはエブリンにすら知らされてなかったようだ。
たとえ連絡が無くともあらゆる事情に精通している『情報蜘蛛のエブリン』の異名を取る彼女にしては、珍しいミスである。
いつもなら、クラッド様が帰る時は絶対に前もって知らせてくれるもんね。
私が着飾る時間がいるからって、かなり早くから情報を掴んでくれる。ちょっとでも、私がクラッド様の気を引けるようにって。
だってそうでもしないとクラッド様ってばほとんど本宅に帰ってこないんだもの……!
そりゃ私に興味無いんだろうけど! 知ってるけど!
それでもせめて妻としての顔くらい立ててくれたっていいでしょうよー!
と思うのは我が儘でしょうか。
「その……中々こちらに帰って来られなくてすまないリイナ。今日は部屋に資料を取りに来たんだ。てっきり君は眠っていると思っていたんだけど……部屋にいなかったから……」
私の問いかけに、クラッド様は申し訳なさそうな顔でもごもごと、なぜか目線を逸らして応えてくれる。
声が尻すぼみでちょっと聞き取りずらかったけど、言葉の意味はなんとなくわかった。
クラッド様は商人という仕事柄、多くの資料や商品見本などに目を通すのだ。それはもう、膨大な量の。
各地方の街や商会から送られてくるそれらは事務所だけでは収まりきらず、現在は自宅の書斎にも塔のごとく積み上げられている有様で。
なので、時々必要なものをこうして取りに来るんだけど……。
毎回思うけど、誰か遣いをやればいいのに自分で行き来してるのよね。
そんなに多くはないんだけど。
移動が面倒くさくないのかなとちょっと思う。
まあ、おかげで私は彼に会えるってわけなんですが……。
クラッド様に会えたことで、思わず口元が緩んでしまった自分は我ながら単純だ。
そうなのよね……!
クラッド様ってば、私のこと完全放置ってわけじゃあないのよねーっ。
だから余計に希望持っちゃうんだけど。
嫌われてはいないっぽいけど、かといってガツガツ求められてる気も全くしないという。
ちょっと、いやかなり判断に困る有様でして。
まあだから私も調理場で『こんなの』作ったりしてるわけですが。
それにクラッド様って基本的に優しいのよね。かけてくれる言葉とか、こう、態度が大切にしてくれてる感じで。
なので私も諦めきれないといいますか。絶望つゆだくで嫁入りしたら、まさかの超良い人が相手だったら、誰でもあら♪ってなるもんじゃありません? しかもクラッド様眼帯してても格好良いし。むしろそれが良い。
とそれはさておいて。
ん、あれ?
そういえばクラッド様、私が寝てるのわかってて見に行ってくれたって今言わなかったっけ。
幻聴……じゃなさそうよね。一体何しに行ったんだろ。
「資料でしたら、ご連絡いただければ遅くともお届けしましたのに。それに、部屋にもいらしてくださったなんて。なのに不在で申し訳ありませんでした」
「い、いや、気にしないでくれ……ところで、君達はこんな時間に調理場で何をしてたんだい?」
謝罪したら、ふるふる首を横に振って返される。そして私とエブリンとを交互に見たクラッド様は、少し首を傾げてそう尋ねた。
同時に、私は横目でエブリンとそっと目を見合わせた。
彼女とは、子供の頃からの付き合いである。
互いに互いの考えることなど、たとえ言葉にせずともよく分かっていた。
よって、私達は視線だけで思いを通じ合わせた。言い方ちょっと変だけど。
ともあれ和訳するとこうである。
『エブリン、この際だからもういっちゃっていい?』
『もちろんですわお嬢様。これこそ飛んで火に入るなんとやらでございます』
『あ、私が教えたそれ覚えててくれたんだ』
『もちろんです。さあ、お早く』
以上、長年の付き合いさえあれば、一瞬でしかも視線のみでこの会話をする事が可能なのである。
つうと言えば、かあなのである。わかんない良い子は辞書で調べてね♪
というわけで、私は早速『旦那様の貞操を奪え!』計画を始動させることにした。
もう名前変わっちゃってるけど気にしない。
「こほん、実はですねクラッド様、私とエブリンはその……日頃お忙しいクラッド様に少しでも楽になっていただきたくて、疲労回復の栄養剤を作ってみたのです。これを飲めば色んなところがたちどころに元気になるそうですから、ぜひ飲んでいただきたいと……!」
エブリンが、そっとヘドロ色した液体の入ったゴブレットを渡してくれる。
ゴブレットはひんやりしていて、中身もちゃんと熱が冷めていた。まさにちょうど良い塩梅、といった具合だ。
本当にいい所に来て下さったわクラッド様……おかげで持ってく手間が省けた!
これぞ日頃の行いの賜物ってやつね!
(何したか覚えてないけど。あ、秋に罠にかかったカーバンクルは助けたか)
有り難うカーバンクル! 君がくれた幸運を逃しはしないわ!
というわけで、ほんのちょっと怪訝な顔をしているクラッド様にゴブレット片手にずずい、と迫ったら―――なぜか一瞬びくっとされて、その上一歩後ろへ下がられた。
待て。
どうして逃げる。
「クラッド様……?」
名を呼び彼の様子を窺うが、何分身長差があるのと調理場の明りを少なくしているせいで表情がよく見えない。
びみょーに目元が赤い気もするが、着ているローブについた宝石が反射しているだけのようにも見える。
「あ、ええと、栄養剤を作ってくれたんだね、有難う。その、色んなところっていう説明は少し気になるけど……気遣いはとても嬉しいよ。ただこれ……すごい色してるけど、だ、大丈夫かい?」
私が首をほぼ真上に向けているのを気にしてか、クラッド様は少し屈んで目線を低くしてくれた。おかげで彼の顔がよく見える。ただ、一歩離れた距離はそのままだった。
……なんか、中々懐かない野良の黒猫を手なずけようとしてるみたいだなぁ。
僅かに開けられた距離についそう思う。
まあしかし、クラッド様が戸惑うのも無理はない。なんといっても、もの凄い臭いと色なのだ。まともな神経を持った人間なら、絶対に口にしたくない代物だろう。だがしかし、日本には良薬口に苦しという言葉がある。
それでごまかせば……って間違えた……ええと『説明』すれば、彼も納得してくれることだろう。たぶん。
そう思って、私はエブリンと二人で用意しておいた文言を彼に伝えることにした。
「まあ……! 失礼しちゃいますわクラッド様っ。私がクラッド様に悪いものをお出しするわけ無いじゃありませんか……! 良く効くお薬ほど、口には苦く感じると申します。それに、効能は滋養強壮や新陳代謝の促進、精力増強など良いものばかりなんですよ」
「せい……? いや、その、やっぱり見た目が……」
「クラッド様ってば! 見た目で人を判断してはいけないと、家庭教師から教わらなかったのですか?」
「いや、人っていうかこれ一応お薬だよねリイナ……」
むう。クラッド様ってば中々強情……っていうか慎重なんだから。
簡単に何でも決めてしまわないのは私としても好ましいけれど、今この場では正直よろしくない。
むしろ困る。絶賛困る。
「クラッド様も商人ならばおわかりの筈です。珍妙な見た目の物ほど、秘めたる価値を持っているのだと。それとも……やっぱり私が作ったお薬など、口にするのはお嫌ですか……?」
今度は私の言葉が尻すぼみになっていく。
正直、クラッド様が嫌がるのも無理ないのよ。
いくら身体に良かろうがなんだろうが、滅多に会おうとすら思わない妻に勧められたところで、飲みたいと思うわけないって。こんな見た目にも絶対不味そうなシロモノ。
押して駄目なら引いてみろ、の体で言ってみた言葉だったのに、今の現状を再確認させられた気がして、自分の言葉に自らダメージを受けてしまった。
やっている事を棚に上げまくっている自覚はあるが、やはり疑われたり拒否されるのは結構辛いのだ。
だって嬉しかったんだもの。
転生してもお母様のおかげで借財だらけになって、首も回らなくなった時に結婚を申し込まれて。
てっきりセール中の爵位目当てな巨デブかニートだろうと思ってたのに、実際会ったら眼帯なんて関係ないくらい素敵な人で。
滅多に会ってはくれないけど、一応は気に掛けてくれてて。
だから私もつい思っちゃったのよ。
出会い方なんて関係無く、もしかしたら良い結婚に出来るんじゃ無いかって。
でもやっぱり、無理よね。
この一年、私からじゃなきゃまともに顔すら会わせてくれなかったんだもの。
所詮その程度って事なのよ。
わかってた……筈なのにね。
「っい、いや! 違うよリイナ!」
「え?」
私ががっくりと肩を落とした瞬間、クラッド様はなぜか慌てた素振りで口早にそう言うと、私の手にあったゴブレットをまるでひったくるみたいに奪い取った。
「クラッド様?」
「嫌だなんて……僕は思ってない! その、有り難うリイナ。せっかくだからいただくよ」
「え、ほ、本当ですかっ!?」
「ああ。……じゃあ、いただきます」
意を決した様子でクラッド様が言って、そしてそのまま、牛乳をがぶ飲みするみたいに、ぐいっとゴブレットをあおり、あの世にも奇妙なヘドロ色した液体をごくごくと……飲み干していった。
う、うわ……。
流石に一気飲みとは思いませんでしたよクラッド様!
中々の度胸です!
や、でも、ほんとに大丈夫かな……なんていっても見た目アレだし……
一瞬賞賛が頭に浮かんだものの、次第にちょっと心配になってくる。
だってあの臭いだ。
下手すりゃリバースしてしまうんじゃなかろうか。
そう思って、彼の顔を覗き込むと―――
「っ」
「……クラッド様?」
からん、と。
彼の手から零れるように、ゴブレットが調理場の床に転がった。
「え?」
「~~~~~っ!」
驚く私の前で、クラッド様の身体がふらりと揺らぐ。
あ、あぶな―――!
咄嗟に抱き留めようと両手を伸ばし、彼の身体を掴もうとして。
「―――リイナっ!!」
「はいいいっ!」
突然大きな声で名を呼ばれ、条件反射で声が出た。
差し出した両手が吃驚した拍子に思わず引っ込む。
目をぱちくりしながらクラッド様を見た。
彼はなんとか自分の足で踏ん張っている。
あ、良かった倒れてない。
束の間ほっとしたものの、しかしクラッド様は少し苦しそうに瞳を歪め、じっと私を凝視していた。
向けられている黒い瞳を私も見返して、そしてなぜか、身体が固まる。
あ、れ。
なんか―――目が―――恐い、ような―――?
「っ、リイ、ナ、」
「は、はいっ」
なんていうか、いつもとは違う、妙な、オーラが……
薬が効いてきた……?
でも、それにしては何か、やたら恐くない……?
猫とかウサギとかだった印象が、一気に百獣の王化したというか……
あれれ? クラッド様ってこんな迫力ある気配放つ人だったっけ……?
妙に威圧感が増した彼の様子に、思わずたじろぐ。
だってなんだか恐いのだ。
というか、逆に自分がウサギになったような気がするのはどうしてだろう。
クラッド様の黒い瞳が、まるで獲物を狙う猛獣の様に鋭く見える。
こここ、こわああああああっっっ!!
何、も、もしかして気付いたのっ!?
飲ませたのが栄養剤じゃなくて媚薬だってことがまさか……ば、ばれた……っ!?
強い視線と空間を支配する緊張感に、嫌な汗が背中を伝う。
そんな私の前から、クラッド様が二歩、三歩と距離をとる。
視線はそのまま、さながら獲物から目を離さないでいるように。
そうして、人間二人分ほど離れたところで―――
「~~~っごめんリイナ!! ちょっとお風呂行ってくる!!!!」
と。
まるで叫ぶみたいにそう言って、クラッド様はいつかの初夜みたいにくるっと綺麗にターンをかまし、そのまま脱兎の如く、私の前から姿を消した。
「へ?? え……く、クラッド様あああっっっ??」
「あらあら……」
調理場には、またまた取り残された私と、その後ろで呆れ声を出す、エブリンだけが取り残されていた。