旦那様の願い! 〜クラッドside〜
突然隣の部屋から彼女の気配が消えて。
姿も一切見かけなくなって。
俺は居ても立ってもいられなくなり、隣室を訪ねた。
するとげっそりした彼女の母親が虚ろな表情で顔を出し、俺に言った。
「理衣奈は死んだの。もういないの」と。
その後の事は正直ほとんど覚えていない。
ただいつの間にか俺は自室に戻っていて、電気も付けず、水も食べ物も一切口にしないまま沈む夕日と昇る朝日を何度か繰り返し見たくらいの朧気な記憶程度しか残っていない。
彼女が、塚本理衣奈という女性がこの世から消えてしまった。
その事実に打ちのめされていた。
世界が終わるとはこういう事かと理解した。
やたら顔が冷たく感じて、気付いた時には目から涙を流していた。
喉から零れていたのは嗚咽だ。
声を上げて泣くなど、育ての親である祖母が亡くなった時以来で、自分でも実感がなかった。
彼女(理衣奈)の死を知った直後では無く、時間差で溢れ出たのは脳が事実を受け入れるのに刻を必要としたからだろうか。
頭と手足が痺れていて、全ての感覚を遠くに感じた。
猛烈な虚無感に襲われて、それきり俺の身体は動かなくなった。
何日か経った頃、大学の友人が訪ねてきたようだったが、定かでは無かった。
無力に過ごしていたある日、扉が無理矢理こじ開けられ数人の男達が部屋に押し入ってきた。
顔は覚えていない。ただその男達は何かを口々に言いながら、俺を取り囲み殴る蹴るの暴行を加えた。
たぶん一般人ではなかったのだろう。彼女を襲った男の仲間だったのかもしれない。
俺は怒鳴り声を遠くに聞きながら、抵抗もせずにそれを受けた。
自分はそうすべきだと思ったからだ。
顔を殴られ頬骨が砕けた音がした。
畳に倒れ込んだら腹を蹴られ、喉から胃液と血の混じった味がした。
右手を上から踏みつけられて、指も何本か折れたようだった。
叫び声を上げたような気もするが、耳からも液体が流れていたようなので鼓膜が裂けていたのだろう。
痛みはあったが、どこか遠かった。
ただ、痛覚は一定のラインを越えると熱さに変わるのだな、という感想だけは抱いた。
どの位の時間続いたのかはわからない。
けれど男達は暫く俺を痛めつけた後、何か捨て台詞を吐いて出て行った。
閉まる扉の音が微かに聞こえ、俺は暴行が終わったのを知った。
片目が潰れているのか視界は半分になっていて、時刻も夜になっていたみたいだった。
電気もついていない部屋の中、色の消えた世界の中で音も感触も何もかもが膜に包まれたように遠い。
畳の上で横たわりながら、俺は知らず笑っていた。
自分のあまりの馬鹿さ加減に、嫌気が差して。
こんな風に自分を痛めつけたところで、彼女がかえってくる筈もないのに、と。
くだらない自己満足だ。
自己に対する愚かな憐憫だ。
悲劇のヒロインにでもなったつもりかと、身体が酷く寒くなっていく暗闇の中自嘲しながら、俺はもう一人の『俺』の声を聞いた。
「どうして、彼女を助けなかったのか」と。
頭にはっきりと響いた声は、続けて口汚く俺を罵った。
臆病者、卑怯者、人殺し、と。
彼女の苦境を知っていたのに見過ごした。
その事を彼女を好きだった己の想いに責め立てられた。
彼女を失ったのはお前のせいだと、たとえ気味悪がられても、嫌われたとしても、彼女が生きてさえいれば良かったのに。
そうもう一人の俺が俺を責め立てる。
いつの間にか、強く強く好きになっていたのに。何の行動も起こさなかった。
俺は彼女よりも年下で、平凡な貧乏学生に過ぎなかったと逃げの口実にしていた。
俺は弱かった。
好きな女性の窮地を救えるような、ヒーローにはなれなかった。
だから罰を受けたのだ。
彼女を失うという―――罰を。
こんな痛みなど……彼女の痛みに比べたら。
横に倒れた視界が、段々とぼやけていく。
涙は既に涸れていて、俺は自分の意識が深いところへ落ちていくのを感じていた。
身体は痛みと無力感で鉛のように重く、頬は古ぼけた畳に血と涙で張り付いている。
指先すらも動かせず、耳に蠅の飛び交う羽音が聞こえても払うことさえできない。
このまま目を閉じれば、俺も彼女と同じ場所に行けるだろうかと朧気に思う。
彼女は許してくれるだろうか。
すぐ傍にいながら、事情を知っていながら助けなかった俺のことを。
……いいや、違う。
こんな俺には、彼女に合わせる顔など初めから無いのだ。
浮かぶのは後悔ばかり。
彼女を母親から引き剥がしておけば良かっただとか、稼いだ金をポストにでもねじ込んでおけば良かっただとか、今考えても無駄な事ばかりで。
できる事はあったのに。
やらなかった。
その事実が突き刺さる。
きっとどこか心の中で「大丈夫だろう」と甘く見ていたのだ。
やつれていく彼女の顔を目にしていたのに。
彼女がいなくなって初めて、惹かれていた心と存在の重さに気付かされた。
ああ。
もしも―――もう一度、最初からやり直せるのなら。
今度こそ、何をしても、どんな事をしても、たとえ自分を鬼としてでも、彼女を助けてみせるのに―――
落ちていく意識の中でそう、思った時。
『アイツ』の声が聞こえた。
「―――なら、彼女の来世にて、今度こそお前が助けてみせるか?」
と。
男か女か判別しにくい不思議な声は耳に反響して、俺は声に誘われるがまま頷いた。
彼女を救いたい。
そして―――今度こそ、彼女に好きだと伝えたい。
唯一の強い願いを、決意に変えて。




