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異世界に行かなかった日の話。

作者: quiet

 異世界転移装置なるものが安楽死装置の隠語でないということを知ったのはつい最近のことで、そういうことをSNSで言ったら「時代遅れおじさん」と煽りを受けた。


 未だに半信半疑で、というか十中八九嘘だと思っているのだが、異世界に行く装置というのが今めちゃくちゃに流行しているらしい。適当にインターネットで調べたところによると、複数の経済大国のバックアップの下に新設の国際機関が運営する装置で、事前の問診や非侵襲型の脳測定等を通して申請者の選好を判断し、しかるのち本当に望む異世界へと転移させる、というものらしい。


 うさんくさい。


 というか嘘だろう、と思っている。

 公式発表では、民間でひっそり研究していたアマチュアチームが発明した技術を利用しているらしいが、どう考えてもオーバーテクノロジーである。宇宙人から渡されましたとか超古代文明の遺産からの再発見ですとか言われた方がまだ納得がいく。


 が、そんな私の感覚に反しこれが大流行らしいのだ。

 どんどこどんどこ人々はラーメン屋に並ぶような感覚で転移装置に列をなし、導入から一年が経とうとする今になっては、そろそろ人口が導入前の半分を切るのでは、という勢いらしい。


『化石おじさん時代に乗り遅れすぎてて笑っちゃうんだけど どこ住み? 山?』


 東京だわ。


 だがそれで妙に納得いったこともある。最近近所のスーパーに昼時に行っても苦も無く買い物ができるなあ、と思っていたのだ。私はアラサー労働者ではあるが、基本的には在宅勤務であまり外に出ることもないため、なかなか気が付かなかった。


 しかしまあ、よくもそんなになあ。


 SNSで情報提供してくれた大学生くん(顔も知らない)に『江戸』と返して『寿司』と返信が来たのを見届けて、一体人口が半分を切るような世界というのはどんなものだろう、と久しぶりに外に出てみることにした。


 とは言っても、私の住むのはやや寂れた住宅街のマンションだ。昼間は特にそれほど人の気配もないし、ポストアポカリプス的な雰囲気すらある。これでは大して変わりがわからない。

 するってえと、都市である。電車に乗って、ターミナル駅まで行ってみよう、と思った。


 普段からそれほど人気のない、川沿いの道を歩いて、駅へと向かう。花がたくさん咲いていて春が来ているのだなあ、と思ったのだが、私は梅と桜と桃の違いすらわからない。よって何の花が咲いているのかはわからなかった。


 駅に着くと、言われてみれば、いつにも増してホームに人が少ないような気もした。気がしただけである。私は普段から特に人に注視して生きてこなかったらしい。人口が半分になっていようが何だろうが、少なくとも生活圏においてはその変化をはっきりと感じ取ることができないようだ。


 まあいいか、と電車を待っていると、思いのほかその時間が長かった。

 十分ほど待っても上りも下りもやってこないので、時刻表を見てみると、どうも以前よりずっと本数が少なくなっているようだ。地元よりはさすがに多いけれど、東京にしては少ない。もうちょっとだけ待ってみると、電車が来た。タイミング悪く、私がホームに来る直前に一本出ていたらしい。


 電車はゆらゆら揺れている。窓から射し込む光は白く、暖かい。床に反射して眩いくらいだ。

 ここでもまた、人の数についてはよくわからなかった。記憶にある限りでは、このくらいの時間ではアウトドアな雰囲気の老人の集団や、暇そうな大学生、後はスーツの人々が何人か乗っているくらいなのである。むしろいつもより、大学生くらいだろうか、そういう若者が多いように思えた。


 時間というものが持つ特徴らしい特徴といえば、何もせずとも過ぎていくということで、ぼうっとしているうちに当然のように折り返しの終点に着いた。ターミナル駅である。


 ホームに降りた。

 やはり一目には人数の違いだとか、そういうものはよくわからない。ターミナル駅にしては少ない……のだろうか? しかし、ターミナル駅だからといっていついかなるときでも人でごった返しているわけではない……ような記憶もある。私のこれまでの世界認識の曖昧さのために、どうやっても人数の多寡については把握できないような気配が漂ってきていた。


 とは言っても、折角ここまで来たのだ。

 食事でもして本屋にでも寄って、それくらいのことはしても良いだろう。改札を抜けた。


 時刻は、携帯を取り出す、十一時。昼時にはちょうど良い時間だろう。メッセージが来ている。大学生くんから。


『おじさん暇なら会わない?』


 返信する。


『出会い系はやめましょう』


 今時ちょっと古い人間なのかもしれないが、インターネットから繋がった人物に会うのは抵抗がある。昔にちょっとばっかりネット上の交流にハマっていただけに、かえって今になっても、現実とネットは切り離すもの、という感覚が抜けないのだ。


 携帯をしまって歩き出す。

 さて、何を食べようか。


 何が好きか、と言われれば、何年か前ならラーメン、と答えただろう。大学時代はいつも学食で伸びたラーメンを啜っていた。が、今となっては、その、やや胃が。


 等と考えていると、いつの間にやらふらふらと、看板に『サラダバー』と大きく書かれた店に足を踏み入れていた。新人らしい黒縁眼鏡の、痩せた男性店員に席に案内してもらい、たどたどしい説明を聞き、よくわからないまま今日のパスタとサラダバーを頼んだ。


 特に好き嫌いがないため、昼食の取り方はこんな風になりがちである。注文を忘れたが最後、という雰囲気を漂わせた店員の背中を、別に忘れたら適当に持ってきてくれればいいんだが、と考えながら見送った。ひょっとすると大学生くんもあんな調子で真面目にアルバイトなどしているのかもしれない、と思い、また携帯を取り出す。


『下心おじさん』


 前言撤回。


 サラダバーでもさもさ野菜を盛りながらふと店内を見渡すと、どうも人が少ない。端の方に外回りの途中だろうか、スーツ姿の男女二人組が座っているくらいである。ちなみに私の席は妙に店のど真ん中で、ううむ、こうしてよく見てしまうとなんだか居心地が悪い。


 流行っていない店なのだろうか。思いながら席に着き、一口もしゃもしゃ草を食むと、まあこれで流行らないということはあるまい、と考え直した。ドレッシングが美味しいし野菜ももしゃもしゃしていて美味しい。山羊のような笑顔になってしまう。この閑散ぶりは時間帯か、それとも本当に人が減った影響か。


 ところですっかり、人が減る、ということばかりに思考を向けていたが、それは結果のひとつであり、重要なのは異世界転移装置とやらの方である。


 話を聞く限りでは、つまり自分にとって都合の良い、理想の世界に行ける、ということなのだろう。これが一体どこまで理想通りなのかは知らないが、何はともあれすごい話だ。すごい話だが、それにしても人口が半分になるほど気軽に生活を捨てられる人ばかりなのだろうか、とも思う。


 家族がいるだろうに、と思い、しかしよく考えてみれば私の周りにそれほど結婚している人物は――、いやいることにはいる、が、縁のない人間はとことんどんどこ縁がない。私も縁がない側である。

 仕事があるだろうに、と思い、しかしよく考えてみれば私の周りを見てみても喜んで働いている人物は少ない。人が減れば仕事も回らなくなる、かについてもよくわからない。仕事をする人間が減ったとして、仕事を増やす人間も減るのだから。


 世の中わからんものだなあ、とごくごく当たり前のことを考えていると、眼鏡の店員が手をぷるぷると震わせながらパスタを運んできた。おお……、とその危なっかしいさまを見ていると、奥の方からやや年上だろう、女性の店員がおそらく今の私と同じようなハラハラした表情でこちらを窺っている。目が合ったので頷いてみると、あからさまにホッとした顔をした。何よりである。


「こ、こちら、日替わりの、ほうれん草と、きのこのクリームパスタです」


 震える手が盆からテーブルの上へと、かたかた皿を運んでいく。がんばれ、と思いながら見ていると、最後の最後で加減を間違えたのか、がん、と机を叩く大きめの音がして、一瞬肝が冷えた。が、特に中身が零れることもない。店員は私より肝を冷やした様子で表情が凍りついていた。ので、できるだけ愛想良く見えるように笑って、「ありがとうございます」と声に出す。意図した効果はあったようで、「ごゆっくりどうぞ」の声は、それほど震えていなかった。


 もぐもぐとパスタを食べているうちに、思考は別の方向へと動いていく。

 元々世の中がどうなろうと私には関係のない話なのだ。世界は私と関係なく動き続けるし、私は世界の中で適当にのらくらと生きていくばかりである。人が減ってもそれなりにやっていけるならそれなりにやっていくばかりだし、それなりにやっていけないならそれなりにやっていけるようちょっと気合を入れるばかりだし、どうせそのうち人は寿命で死ぬのだ。それほど深刻になることもない。


 私にとって重要なのは、今日買って帰る本のことだとか、近くで上映している映画のラインナップだとか、そういうことだ。


 パスタを平らげるうちに、二組ほど客がやってきた。まだ店内の席には余裕がある。コーヒーを飲みながら、近くの映画館のHPを開いた。


 ニュースはめっきりチェックしなくなった。が、映画と本の話題だけはそれなりにチェックを続けている。今も見たい映画はいくつかある。時間帯を調べてみれば、ちょうどそのうちひとつが程よい時間から上映を始める。


 優雅な一日だ。

 席を立ち、会計に向かう。これもまた眼鏡の店員がやってくれたのだけれど、今度は思いのほかスムーズだった。レシートを受け取って「ごちそうさまでした」と軽く礼をすると、「またお越しくださいませ」とちょっとこちらがびっくりするくらい深くお辞儀をされた。ううむ、また行った方がいいのだろうかという気分にさせられてしまう。


 映画館に着くと、入場までしばらく時間があった。だが、外で暇を潰すほどの長さでもない。ロビーの広告を見て回ることにした。


 上映中のポスター。

 上映予定のポスター。

 電車と違って映画の本数は変わらなそうだな、なんて思っていると、白と青を基調にした、爽やかな広告が目についた。


『理想の世界に羽ばたこう!』


 抽象的な図柄にキャッチコピー。下の方には『異世界転移機構』と団体名の記載がある。


 すごい時代になったものだ。

 なんてこと、ここ最近は毎年のように思っているのだけれど。


 ふと思いついて、これから見る映画のポスターをパシャリ、と写真に撮った。そしてSNSに『見る』と一言添えてアップする。


 しばらくパンフレットの購入について検討していると、入場開始のアナウンスが鳴った。手洗いに立ち寄ったのち、劇場へと足を踏み入れる。


 場内には空席が目立った。平日の昼間なのでそれほどおかしくはないのかもしれない。


 上映開始のブザーが鳴る。


 その映画のタイトルは、『青い春』といった。

 舞台設定は少し未来の日本。春先に急増する自死の対策のため、桜の花がことごとく青く染められてしまった世界で生きる、売れない画家の物語だ。


 結果だけ言うと、LED照明の販促映画だった。


 劇場から出ると、すっかり一日も終わってしまったような気分になった。が、時刻は未だに三時も回っていない。まだまだやれることはありそうだ。帰りがけに電機店に寄るとしても。


 とりあえずはSNSに感想を、と思い、しかしやめた。最近こうしたことばかりしている。たまにはインターネットから離れるのもいいだろう。


 もう一本映画を見るのは体力的に厳しいものがある。ここは当初の予定通りに本屋に向かうことにしよう。


「あの、すみません」


 と、そのとき、ふと声をかけられた。

 一度は自分の周囲にいる人物に話しかけたのか、と思い、あたりを見たが、どうも私以外に人間はいない。はい、と応えてみると、相手は二十くらいだろう若い人物だった。不安げな表情で、顔に見覚えはない。さて、何の用だろう。


「お、」

「お?」

「おじさんですか?」


 えぇ……。

 常日頃からおじさんを自称してはいるものの、一種の予防線的な性格もある。こうして初対面の年下からおじさん呼ばわりを受けるのは精神的にかなり厳しいものがある。


「すみませんまちがえました」


 しかし私の返答を待たずしてその推定二十歳は早口で頭を下げて踵を返し――、


「あ」


 と気付いた。

 後ろ姿に見覚えがあった。SNSで。


「大学生くんか」


 向こうの動きが止まる。振り向くと、今度は、怒りと安堵の混ざったような表情だった。


「なーんだやっぱりそうじゃん! ちわっすちわちわ。初めまして。映画すか」


 なるほど、と思う。先ほどSNSにアップした映画ポスターの画像はやや引き気味で撮った。偶然かここにいた大学生くんが、写真を撮った私の場所に気が付いて、それで声をかけてきた、ということだろう。

 ネットマナーはどうなんだ、と言いたくもなるが、日々進歩する情報社会だ。そもそも東京で位置情報の割れるような投稿をした私が、そこについて言及する権利はない(のかもしれない)。


「初めまして。映画だよ。大学生くんもかい? 奇遇だね」

「そうなんすよ。おじさんはあのなんかオサレっぽい邦画でしょ? 好きな俳優とか出てるんすか?」


 聞かれて、ふと気付く。俳優の名前をひとりも知らなかった。監督の名前なら知っているのだが。


「いや、予告編が面白そうだったからね。君は何の映画を?」

「女児向けアニメっす」


 人の好みはそれぞれである。


「幼稚園児と並んで映画見てました」

「い、いいんじゃないかな。フレッシュで」

「せやろ~」


 大学生くんはにんまり笑って、拳を突き出してくる。私もつられて拳を差し出すと、「うぇ~い」と乾杯でもするように拳を突き合わせてくる。


 わ、わっかわかしいなあ……。


「おじさんこれからどうすんの? 飯?」

「いや、お昼はさっき食べたよ。本屋にでも寄って帰ろうかってところだ」

「おっ、奇遇~。俺も俺も。買いたい本があってさ」


 行こ行こ、と大学生くんは歩き始める。

 なるほど、自然に一緒に買い物をする流れに……なるのか。

 最近の若者のコミュニケーション能力には目を見張るものがある、と思おうとしたが、私もどちらかと言えば断然若者サイドなわけで、つまりこれは年代による能力差ではなく、純然たる個人としての能力差……。


 考えるのをやめた。

 ちょうどよかった。書店の場所をよく覚えていなかったのだ。

 私はてくてくと、大学生くんの後をついていった。


 東京には異常に巨大な書店と、まあまあ手ごろな書店の二種類があり、私たちが訪れたのは駅の近くの後者だった。自動ドアをくぐった先には、外よりも暖かな、ぼやけた空気がこもっていた。本の頁の一つ一つの隙間に、春の陽気が挟み込まれてしまったように。


「おじさんってどんな本読むんだっけ」


 大学生くんは何の気なしにそんなことを聞いてきたが、こういうとき乱読派の人間は困る。何でも読むなんてのは何も読まないと同じ……、とすべてにおいて断言したりはしないが、少なくとも話題の広がりにおいては似たようなものだ。何が好き? 何食べたい? 何でもいいよがいちばん困る。


「そうだな……」


 ということで、どうにか具体的になりそうな答えを捻りだす。


「短編集かな。どうも長編を読む体力がなくなってきて……」

「そーなん、俺ラノベ好き。おじさんラノベは読まんの?」


 おっとバッサリ。自分の土俵に引き込むタイプらしい。コミュニケーションは難しい。


「昔はよく読んだなあ。こう、感動系みたいなのを……」


 思えばあの頃から乱読が始まったのかもしれない、と思ったりもする。少なくとも私の読んでいたころのライトノベルというのは、ライトノベルという大きな箱の中にあらゆるものが詰め込まれていた、そんな不思議な空間だった。SF、伝奇、ミステリ、恋愛……。今ではライト文芸?などの呼び方も出てきて、どのような区分けがされているのかわからないが、ふと、懐かしい気持ちになったりもする。


「最近のおすすめはあるかい?」


 カラフルな書棚の前でそう聞くと、大学生くんはううん、と考えたのち、難しげな表情で、いくつか本を引き抜いていく。


「おすすめかー……。これは? 万年睡眠不足で戦ってる最中に寝ちゃうから最弱、って冒険者が異世界から来た眠気覚ましの達人の会社員のバックアップを受けて、究極の寝床を探すって話」

「おおう……」


 いきなり面食らってしまった。異世界。どうしても例の装置のことを思い出してしまう。


「あ、ごめん。異世界苦手? でもおもろいよ」

「いや、そういうわけじゃないのだけれど……。それにしてもなんだかすごいな、その話は。なんというか……」


 ちらり、と目線を動かしてみると、大学生くんの手に持つそれ以外にも、異世界の文字がいたるところに覗いている。凄まじい、の一言の限りだ。下手をすると恋とか愛とかそういう単語よりもよっぽど使われているのではないだろうか。


「まーちょっと馴染みづらいかもね。異世界物って飽和しててさ、探偵物のバリエーションみたいになってっから、普段から読んでないと……ってのもあるし」


 探偵物のバリエーション、という言葉に、ああ、と頷く。

 探偵物は、事件が発生し、探偵がそれを解くという点で、ほとんど基本のストーリーラインは共通している。しかし世には数えきれないほどの探偵物が存在していて、それらの一つ一つを特徴付けるのはバリエーション、つまりは味付けの違いである。


 陰惨な事件の裏にフォークロア的な不気味さを付け足す、個性豊かなキャラクターを登場させる、現実世界とは異なるルールを一つだけ追加する等々……。


 異世界物も同じなのだろう。私は不勉強ゆえ深くはわからないが、異世界に行った主人公が冒険をする、その基本の枠組みの中に何を追加していくかでバリエーションを生み出しているのだ。


 そしてもちろん、探偵物の中に「そもそも探偵が登場しない」「事件を解決できない」「事件が解決することですべての事態が悪化する」等、基本のフレームを理解していないことには十分にアイディアの面白さが理解できないものがあるように、異世界物にもそういう要素があるのだろう。


「じゃあこれは?」


 そんなことを考えていると、大学生くんが、次の本を取り出す。


「交通事故に遭った親子のうち、子供は幼いまま衝撃で肉体ごと異世界へ、父親は幽霊になって魂だけが異世界へ。父親は息子のために、イロイロ制約のある状態から元いた世界の知識をどうにかメッセージとして伝えていく、って話。」

「ちょっと重そうな設定だな」

「いや、軽いよ。半分コメディ」

「この設定でコメディ……?」


 無理じゃないか。もうあらすじの時点で人を泣かせるつもりで書かれているとしか思えないのだけれど……、しかしその本の帯に『パパ、すごーい!』と書いてあるのを見て、脱力する。なるほど、確かにそうらしい。


「ちなみに残りの半分は?」

「『何もしてやれずにごめんな……』って空気かな」


 食い合わせが悪すぎる。


 その後も、大学生くんは次々に本を取り出し、私に勧めてくれた。

 その多くは私を購買ターゲットとして見ていないようなもので、あまり芳しい反応はできなかったけれど。


「それにしても、君は随分たくさんの本を読んでいるな」

「このへんはネット発の書籍化だかんねー。大体ネットで読んでるんすよ。……にしても、ううん。おじさん好みにうるさいっすね」

「年を取るとね、新しいものを受け付けられなくなるんだよ」


 自分で言ってから本当に老いたような発言だと思った。

 そんなことはない。私はまだ若い。唐揚げ弁当が食べられる。……まだなんとか。


「そういう君は異世界物ばかりかい?」

「まあねー。好きなんだよね」

「どんなところが?」

「さあ?」


 言いつつ、大学生くんは書棚とむむむ、と向き合い、視線はこちらに向けないままで。


「さあ、って」

「好きに理由つけてもしょうがないっしょー……あっ!」

「わっ」

「そうだ、あれがあるじゃん!」


 大学生くんが急にすっくと立ちあがる。私だったら間違いなく立ち眩みを起こすような速度で。


 そして書棚を回って、陳列棚の横側……ええと、なんて言うんだったか。あの新刊本が並べてある目立つところに回り、そのうちの一番上の本を二冊、手に取った。


「これこれ! これがあったじゃん!」


 そして、うち一冊を私に手渡す。


「これはどういう?」

「俺が今日買いに来たやつだよ。これ面白いぜー? 美少女になりたいってSNSで語りまくるハイスペックなおっさんが異世界トリップして、ボスモンスターを倒して戦利品の身体パーツと自分の身体を置き換えまくって真の美少女を目指す話!」

「設定だけでお腹いっぱいだな……」


 どころかすでに胃もたれ状態だ。


「でも好きでしょ、おじさんはこういうの」

「一応誤解のないように言っておくけどね。すべてのおじさんが美少女になりたいとか思ってるわけじゃないんだよ」

「じゃあこのおじさんは?」

「…………思ってないよ」


 この本はとりあえず買ってみるけれど。

 ほら、好意を素直に受け取るために。


 二人で並んでレジを通過した後、大学生くんとはお別れになった。今日はこれから予定があるそうだ。私も何か予定があっただろうか、と思い返してみたが、特にない。帰路に着くことにした。あ、電機店……まあ、次の機会でいいか。


 電車に乗り込むころになっても、未だにあたりは明るかった。

 ついこの間までは、夜ばかりが来るようにして時間が過ぎていったというのに、今では終わらない季節を過ごしているようにすら思えてくる。


 そういえば、と思い出したのは、私が外に出た目的で、結局、人がどのくらい減っているかについて、途中からはあまり観察をしていなかったなあ、と振り返ってみる。

 ここにきて帳尻を合わせるために周囲を見回してみるけれど、春の空の、雨を含んだ曇り空、灰色の光が充ちる車両の中では、誰もかれもまばらに立ち、座り、そこに変化があったのかどうかは、やはりわからなかった。鞄を開いてみると、折り畳み傘は入っていない。最後に使ったのはいつだったか。空模様を窺えば、すれ違う花枝がやけに鮮やかに目に焼き付いていく。


 良い一日だったな、と思った。


 昼頃に外に出かけて、上等な食事をして、新しい映画を見て、友人と会い、本を眺め、春の下を電車で走っていく。


 もう少し、外の景色を見てみよう。そう思い、立ち上がり、扉の近くにもたれかかる、と目に入る。


『理想の世界に羽ばたこう!   異世界転移機構』


「理想の世界、ね」


 行かないだろうな、と私は思う。


 不幸ではない。

 万全ではない。

 私の人生で、生活だ。


 それ以上のことは、それほど口にするに値しないと思う。

 私は、行かないだろう。

 そこにいくらかの、新世界への恐怖が混じっていることも否定しないが、単にこれは、この枠組みの中で生を送ることを、拒絶しないという選択のために。


 すれ違う、花々がいずれ散るだろうこと。

 私の命も、そう遠くなく、なくなるだろうこと。


 私というのは、人類が半分近くにまで減っていたとしても気付かない、変わらない、そんなちっぽけな存在だった。

 だから、この広いのか、大きいのかもわからない、理想でもない世界の中でも、生きる形を自分の思うように変えていける。それだけの余白が、私には与えられている。


 ゆえに、行かないだろう。

 食べるものや、見る映画や、読む本を変えながら、私は私の生活を過ごしていくだろうと、そう思う。


 雨だれが一つ、窓を流れて、風に飛び散る。私の目には、映らない場所で。


 天候は悪化しつつ、なぜだかいやに、その雲の裏の光の存在を仄めかしている。いずれ春雷に変わるかもしれない、そんな光のことを。


 私は、行かないだろう。


 でもひょっとすると。

 頭を過る可能性がある。


 私は知らない。理想の世界に羽ばたいたあとに、人の記憶がどうなるのか。すべての記憶を持ったまま異世界に行くのか、それとも異世界にいる自分とすっかり置き換わってしまうのか。

 ひょっとして。

 異世界に行った人間は、異世界に行ったなんて自覚はなくて、ずっと自分はこの世界で生きてきたんだ、なんてごく自然に思うようになったとして。


 それなら、理想の世界に行く気もなく、この世界で暮らし続ける私は。ひょっとしたら。


 ひょっとしたら、なんて。


 そんな馬鹿なことを考えながら電車に揺られていく。

 雲は、透明なビニール傘のようにして、光を遮っている。

 家路を辿る中で、携帯を取り出し、大学生くんにメッセージを送った。


『今日はありがとう』


 ただ、それだけの言葉。

 返事はなくて。


 何もかも、それでいいような気がしたりしている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] あぁ…なんか好き、この雰囲気。 別に劇的なイベントとか特別な力とかなくても、なんとなく幸せにはなれるんですよね、と感じられました。
[一言] すべてのおじさんは美少女になりたいとか思ってます! 間違いありません!
[一言] 体のいい棄民かなぁ…と思ってましたが。 主人公が今現在に充足しているのが、全ての答えなんでしょうね。
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