初めての異世界
転移は一瞬だった。
真っ黒な穴に飛び込んだと思ったら、真っ昼間の草原に飛び出していた。
「う、うぉっ! ホントに転移した!?」
そうなると分かっていた筈なのに、実際に異世界転移を体験してみると、やはり驚かずにはいられない。
周囲を見回すと、膝ぐらいまでの高さの草が一面に広がっている。その中にぽつぽつと灌木が生えていて、パッと見た感じは、キリンやシマウマが生息するステップと呼ばれる地域の様だ。
しかし、地平線に横たわる青い山脈の影の向こうから顔を出す巨大な星が、強烈な異世界感を主張している。
「木星みたいな見た目だな。赤くて縞々で巨大で・・・。そして、ちょっと不気味だ」
地球ではありえない光景をいつまでも堪能していたいところだったけど、軽い肌寒さにオレは身を震わせた。
「さむっ! 堪えられない程じゃないけど、あんまり嬉しくないぞ」
気候的には春先って感じだが、さすがに素っ裸で過ごすには向いていない様だ。
そう。異世界に渡って来たのは良いが、オレの着衣は全て失われていたのである。きっと黒い穴の前に、脱け殻の様にオレの着ていた服が落ちている事だろう。
向こうの世界から何一つ持ち込めない事の、一番の弊害がこれだ。
オレは自分の身体を見下ろした。
素っ裸である。
見事に素っ裸である。
寒さと心細さのせいで、大事な部分が悲しいまでに縮こまっている。
ゆるんだ肉。ぽっこりお腹。しおしおと縮こまったマコトくん。ああ、醜い。こんな姿、異世界人にだって見られたくない。
「今回は裸でも仕方ないけど、次からは服を持って来れるようにしないと」
生き物以外は渡れない異世界の扉だけど、実は物を持ち込む裏技がある。
それが、ゲームによく出てくるアイテムボックスを扱えるようにする事だ。アイテムボックスという名の異空間に収納した物なら、異世界の扉を一緒に越えられるのである。
「で、アイテムボックスの様な特殊能力を身に付けるには、モンスターを倒さないといけないんだよな」
まさにゲームそのものの話なのだが、この世界では、モンスターを倒して取り込んだエネルギーを使い、アイテムボックスや筋力アップ等といった能力を構築出来るというのだ。
そのエネルギーは、マナとか魔力とか呼ばれている。
「勇者たちの作り出したマニュアルによると、スライムをひたすら乱獲しろって話なんだけどなー」
スライムは好戦的でない上、どこにでもいるし、容易く倒せる相手なので、武器なんかなくても問題なく狩れるらしい。ただスライムは弱過ぎて、得られる魔力も少ないので、かなり大量に狩らないといけないのだ。
よく見てみれば、丈の低い草に埋もれて、半透明のぷるぷるした塊がゆっくり蠢いている。
「あれがスライムか。確かに木の棒でも拾ってくれば簡単そうだけど・・・」
一応、ちょうど野球のバットぐらいのサイズの棒を拾ってみたが、こちらに敵意を持っている様子のないスライムたちに叩きつける気には、どうしてもなれなかった。
「ゲームなら、ウサギだってネコだって平気で倒せるけど、現実には難しいなぁ」
子どもの頃なら、波に浮かぶクラゲを狙って海外から石を投げつけたり、捕まえてきたカミキリムシ同士をどちらかの首が落ちるまで戦わせたり、かなり残酷な遊びをやった覚えもある。でも大人になるに連れて、良くも悪くもオレはすっかり平和的な人間になってしまった。
オレには、スライムを狩る事が出来ないらしい。
「だったら、どうする? アイテムボックスとかを手に入れるのを諦めるか? なんとか30時間をしのいで、二度と異世界に来るのをやめるのか?」
しかし、スライム以外の凶暴なモンスターに出くわしたら、どうする?
うーん、異世界に来たのは、やっぱり失敗だったかなぁ?
スライムで魔力を集められない限り、他のモンスターを倒せるとは思えないもんなぁ。
勇者たちのマニュアルには、スライムを乱獲したエネルギーで、まずは攻撃能力を身に付けろって書かれていた。その能力で更にスライムを乱獲しながら、他のモンスターにも手を出していけって話だった。
「つまり、スライムより前に他のモンスターに遭遇したら、そこでゲームオーバーって事だよな」
正確な統計はないけど、異世界から生きて帰って来れなかった人間は、かなりの数に上ると言う。
なお、異世界で生命を落とした場合は、30時間後に死体だけが元の世界に戻って来るらしい。
「やばいなー。仕事を辞めた途端に行方不明になったら、自殺したとかいう誤解が広まっちまいそうだ。なんとか、生きて帰りたいなー。
ん? これって虫型モンスターの死骸か?」
武器になりそうな物がないかとさまよっていたオレが見つけたのは、2メートルを超えるバッタっぽいモンスターの死骸だった。
身体の部分には、スライムたちが群がっている。恐らく、食べている最中なのだろう。
「堅そうな脚と触覚は無傷だけど・・・ふむ、これなら武器になりそうじゃん?」
まず、細くて強靭そうな触覚。長さは1メートル半ぐらい。鞭っぽく使えそうだ。同じバッタ型モンスターが相手なら、顔面を叩いてやったら、けっこうイヤがりそうじゃない?
そして、本命の後ろ脚。長さ1メートルぐらいだけど軽くて頑丈。先端に付いてるゴツい爪が、とっても頼もしそう。
後ろ脚2本を左手で抱え、右手で触覚を持つと、オレは適当な方向に歩き出した。
が、すぐに足の裏の痛みに悲鳴を上げそうになる。
「うぅっ、裸は辛いけど、それ以上に裸足が堪えるなぁ。まだ草原だから良かったけど、これが岩場だったら身動き出来なかったんじゃないか?」
もう移動なんかやめて、あと29時間ちょいを少しでも安全に過ごせそうな場所を探すのが賢いのかも。
食べ物は我慢するとして、せめて水があればなぁ。
とりあえず灌木がかたまって生えている辺りに目をつけて、そちらに歩いて行く。
草むらの中に何があるのか分からないので、かなりおっかなびっくりな足取りだ。尖った石とか踏んで怪我をしたり、異世界の毒虫に足を刺されたりしたくない。それに、やっぱり凸凹の地面が素足に痛い。
「オレの夢見た異世界って、こういうものだったかなー?」
ぼやきながら、ヨチヨチ歩き続けるオレ。
もっと、ドラマチックな展開があっても良いんじゃない? エルフの美女に出会うとか。
あ。でも、こんな醜い素っ裸をエルフ美女の視線にさらす訳にはいかないな。
異世界に渡って来て1時間も経たないというのに、もう現実逃避が始まっていた。
ヒューンという甲高い音とともに、巨大な存在感が背後から迫って来たのは、そんな時だ。
「う・・・!」
振り返りながら、オレは反射的に右手の鞭を振るった。
そいつは、まさにオレに襲いかかる寸前だったらしい。
思いのほか近い所にいたせいで、偶然にその大きな複眼に鞭がクリーンヒット。
痛みのせいか、素早く距離を取るそいつ。
――――トンボ型モンスターだ。
まず目に入ったのは、巨大な複眼。
そして、その下でガチャガチャ音を立てている、横向きに開く大顎。
複眼の表面にうっすらと青黒い横線が刻まれているのは、鞭が当たった痕らしい。
トンボそっくりのモンスターは、透明な翅を震わせて空中に静止したまま、オレを睨み付けている。
正面から向き合っているせいで、トンボの全体の姿は見えないが、かなりデカいサイズ感だ。地球でも、古代には60センチとか80センチとかのトンボがいたというけれど、目の前にいるのは、軽くその記録を更新してるんじゃないだろうか。
なんせ顔の大きさが、明らかにオレの顔より大きい。少なくとも、全長1メートルは超えているだろう。
下手をすると、ガチャガチャ耳障りな音を立てる大顎は、オレの頭をぱっくり咥えられそうだ。
ぐわーっ、これは大ピンチだ。
ドラマチックな展開なんて求めるんじゃなかったよ!