助けてください 2
「うわーん、千香ちゃんのバカー」
もう何度目かの脱走である。お風呂を借り、夕飯を食べた後すぐに再開された勉強に、嫌気が差したのだ。
千香ちゃんの部屋の向かいにある葵先輩の部屋に逃げ込む。
「未希、また来たんだね。いらっしゃい」
物が少なく整然と片付いている部屋の中央に置いてあるテーブルの上には、ルーズリーフとペンが置いてある。
その横にスピーカーを置いて音楽を流しながら、読書をしていた先輩はちょっと苦笑を浮かべてから、隣にあるクッションの上を軽く叩く。
昨日も今日も、私はこの部屋に逃げてきたらその場所に座った。そこで泣き言を聞いてもらうのだ。
「千香ちゃんが鬼教官です。もうアルファベットなんて見たくないー」
「英語をやってたんだね。よしよし、お疲れ様」
先輩に頭を撫でて、慰めてもらう。撫でてもらうのは、この部屋に逃げ込んでからの恒例行事とかしている。
だが、今までと異なり読んでいたはずの本をテーブルに置いて、先輩が立ち上がった。
キョトンと目線を上に移せばふんわり笑う先輩と目が合い、少し待っててと言い残してから部屋から出て行ってしまった。
どうしたんだろう?
今までならば撫でられてから、千香ちゃんのところでどんな内容をやっていたのか聞いて、私が説明しているといつの間にか問題を解く流れになっているのだ。
集中して勉強を続けられない私に呆れて果ててしまったのだろうか。
ううっ……。本当にアホですみません。
そういえば、今部屋で流れているクラシック音楽は今まで逃げ込んだ時にはかかってなかった。読書していることはよくあったけど。
まさか、とても迷惑な時にお邪魔しちゃったのかもしれない。
怒らせちゃったのかも。だから出て行っただろうか。
ていうか、千香ちゃんにも怒らせたり呆れられて見捨てられたらどうしよう!生きていけないよ。
もう呆れられてはいるけど、捨てられてはないよね?まだ私に勉強教えてくれてるし。
千香ちゃんに捨てられないように、部屋に戻ろうかな……。
やっぱり戻ろう!千香ちゃんに見放されたら嫌だもん!
そう思ってドアノブに手を掛けた時に、葵先輩が戻ってきた。
手には二つのグラス。
「あれ、戻っちゃうの?折角作ったから、これ飲んでからにしない?」
グラスを一つ私に差し出す。
透明のグラスから見える中身はオレンジ色。
「飲んでいきます!」
「なら座ろうか。よし、どうぞ」
“待て”された犬のように従順に、すぐさまさっきのクッションに戻った。
期待でキラキラ目を輝くのを隠せない様子の私を笑う先輩からグラスを受け取ると一口飲んでみる。
ただのオレンジジュースのような色だけど違う。
オレンジジュースも入っているようだけど、他にも何か入っているみたいで美味しい!
「どうかな?今回のも多分、未希が好きな味になっていると思うんだけど」
「美味しいです!これオレンジジュースと何を混ぜてるんですか?」
「ふふ、内緒だよ。結構簡単だから、教えたら未希でも作れるようになっちゃうでしょ?また飲みたくなったら俺を頼って?」
葵先輩はよくこんな風に私に特製の飲み物を作ってくれる。
「今日も朝から今までずっと頑張ってたからね、ご褒美」
「ありがとうございます」
葵先輩の優しさに感激してウルウル。怒らせたわけじゃなくて良かったー。
もう夜だけど、これを飲んだらもう一頑張りしようかな。
そしてもし、明日からのテストで良い点を取れたらご褒美に千香ちゃんにお菓子を作ってもらうんだ!目標を立てて奮い立つ。
それに、葵先輩だってわざわざ私のために作ってくれたんだよね。
既製品のジュースとジュースを混ぜて私好みの味にしているだけなんて、簡単に言うけれどこれが結構難しいことくらい私にだって分かるのである。
だってファミレスのドリンクバーで幾度となく挑戦しては、甘くなりすぎたり、混ぜた結果味を殺し合って美味しくない飲み物を生産してきた過去があるから。
奇跡的に美味しくなった経験なんて片手で数えられるほどしかないのである。さらに残念なことは、美味しい配分のドリンクを再現することができないのだ。
私には飲み物を混ぜる才能すらないらしい……。
千香ちゃんはお菓子作りが上手だし、葵先輩は飲み物を作れる。
二人して私の胃袋を鷲掴みである。
「先輩も千香ちゃんもすごいですよね……」
「ん?どうしたの急に?」
「好みの味の飲み物を作れたりとか、甘い物をいつでもちゃんと作れるのは私にはできないから」
過去に急に思い立ってお菓子を作ったことがあるけど、千香ちゃんのクオリティに慣れた私の舌は納得をしてくれなかった。
というか、私が作ると大半が無味か焦げて苦い物になる。なんでだ。甘さが大脱走である。
まあ、だから当然納得できない結果になって、最終的に千香ちゃんに作ってもらうことになるのだ。
「そういうのができるってカッコいいなって思って」
「大丈夫、未希も作れるようになるよ」
先輩が慰めてくれるのは有難いのですが、やっぱり千香ちゃんみたいになれる気は全然してこない。
「千香ちゃんみたいにお菓子が作れたらいいのになぁ。カッコいいし尊敬ですよ。私千香ちゃんみたいな人と結婚したいです。私の好みのお菓子を作れるような人。いつでも作ってもらえたら幸せだそうな」
千香ちゃんをお嫁さんにもらったら幸せ満天だろうな。やっぱりああいうタイプが理想像だよね。
って、私は女だから自分がお嫁さんになる側だった。娶る方じゃないや。
千香ちゃんみたいな女子力持ってないけど、まあいっか。結婚なんて、まだまだ先の話だよね。
チビチビ飲んでいたから残り少なくなったジュースを一気に飲み干す。
自覚はなかったけどこの部屋に来てからの私は随分リラックスしていたらしい。
題名は分からないけど聞いたことのあるこのクラシック曲はいい感じに私の子守歌の役割を果たし、眠気が襲う。
「未希、疲れたの?今までずっと集中して問題解いていたし。少し横になっていいよ」
「でも……」
うつらうつらしだした私に気づいた葵先輩は、そんな誘惑をする。
横にはなりたい、けどここでそれをすると寝てしまう自信がある。
私はまだ勉強しないと……!
私が躊躇したのに気がついたはずなのに、先輩は私の体を自分の方に倒す。
簡単に倒された私は先輩の肩に頭を置いて上半身傾け、そのまま動けないよう後ろから回された手で頭を撫でられ捕縛された。
「これなら横になってないから問題ない?眠いならちょっと目を閉じてなよ」
悪魔の囁きである。
人の体温を感じ本格的な睡魔が襲ってきて、眠気に抗うだけの気力がなくなってきた。
少しならいいかな……。
ちょっと目を閉じるだけ。
五分くらいした後で、すぐに起きるか……ら。
――とおくでこえがきこえる。いしきがふわふわする。
わたしのかみをなでるあたたかさがここちいい。
「――いさん、未希、寝てるの?」
「うん、疲れてたみたい」
「まったく、しょうがないんだから」
まだまだがんばれりゅよ……、ねてにゃいよ……。
まぶたがおもくてあかないだけ。
「千香の部屋に運ぶよ」
からだがフワリとした。
それになんだかあったかいな……――。ぐぅ……。




