幕間 神童セラヴィ
今回の登場人物は本編にはまだでません。
少年は5歳だった。
ボサボサの黒髪は無造作に鋏を入れたらしく不揃いだが、生き生きと好奇心を湛えて澄んだ榛色の瞳と相俟って、子供らしい屈託のなさと溢れんばかりの生命力に漲っていた。
季節は初夏だったが、高原の別荘地であるこの町は、常に爽やかな微風の通り道になっている。
むっとする深緑のにおいと蝉時雨に囲まれながら、少年は小高い丘の上に向かって駆けていた。
その手にはようやく渡された練習用の短杖が握られている。誰も居ない丘の上でこれから魔術の練習をするのだ。
だけど丘の上には先客がいた。
白いレースとピンク色の姫袖のドレスを着た天使のような綺麗な女の子。
年は同じ位か少し下か……話してみるとちょっと幼い感じがしたけれど、物腰や着ているものは明らかに貴族のお嬢様だ。多分別荘へ避暑に来た貴族の子供なのだろう。だから幼いというよりは、世間知らずな箱入りと言うべきかも知れない。
それから二人で短杖を代わる代わる握っては、遊び半分で魔術の練習をした。
一応、親から基礎を教わっていた少年は、簡単な魔術を使えたけれど、ぜんぜん素人らしい女の子はいくら頑張っても微風ひとつ起こせなくて、最後は涙目で膨れていた。
その様子があんまり可愛らしくて健気だったので、ついつい膨れた薔薇色の頬っぺをつついたら、ぽかぽかと小さな握り拳で叩かれた。
どこも痛くはなかったけれど、わざと痛がるフリをしたら女の子が、びっくりして目を丸くした後、さっきとは違う涙を流しそうになったので、少年が慌てていまのは冗談だといったら爪先で蹴飛ばされ、これは本気で痛かった。
片脚でぴょんぴょん跳んで痛がる少年の様子を見て、吹き出す少女の満面の笑みを見ているうちに、いつの間にか二人揃って笑っていた。
そんな事をしているうちに夕方になったので、二人は家に戻るために丘を下ることにした。
途中で分かれ道になり、お互いに帰る方向が逆だったので、その場で別れることになった。
別れる時に少年は少女の名前を聞いていなかったのに気が付いたけれど、聞くのも恥ずかしかったので、また明日も遊ぼう、明日こそ魔法を使えるようにしようねと、指切りをして別れた。
夕食の時間、少年は村の小さな教会の管理人である父親と助祭である母に今日の出来事を話した。
天使かお姫様みたいな女の子……そう言ったところ、それは○○○様の御息女だろう、と両親が口を揃え。それから、まさかお一人で別荘を抜け出すとは、注意しておいた方が、と困った顔を見合わせているのを見て、嫌な予感がした。
それから両親が少年の顔を覗き込むようにして言い含めた。
あの方は我々などとは身分が違うから、無礼を働いてはいけない。今後は不用意に近づかないように、と。
しぶしぶ頷いたけれど納得できずに、翌日も同じ時間に丘の上に行ってみた。
だけど女の子は来なかった。多分、父が何か言ったせいで来られなくなったのだろう。
翌年、少年は神学校へ特待生として進学した。それから一生懸命勉強をして過ごした。ただ、夏休みの度に実家に帰省しては、約束の丘の上に登ることは止めなかった。
それから7年が経った。
◆◇◆◇
「セラヴィ――セラヴィ・ロウ司祭! アロン司教様がお呼びだ、すぐに陪席せよ」
混雑した食堂に居丈高な中年の助祭の声が響き渡る。
多くが助祭以下の比較的若い層が集う安食堂の喧騒が一瞬途絶えて、おもむろに食事中の神官たちの視線が、食堂内にある粗末な長椅子の一点へと集った。
「………」
我関せずという顔で蒸した馬鈴薯、豆とキャベツと少量の肉が入った塩スープ、固い代わりに量だけはある麵麭を口に運んでいた、おさまりの悪いぼさぼさの黒髪の少年が、周囲の視線に押される形で面倒臭そうに顔を上げた。
顔立ちは上の下か、中の上というところだろう。きちんと身嗜みを整えて聖典片手に真面目な顔をしていれば、そこそこ見られそうな素材であるが、どことなく茫洋とした雰囲気といかにも貧乏臭い……司祭を表す赤の肩掛けをしていなければ、どう見ても口減らしに街に出てきた山だしの田舎者か、せいぜい辺境の教会で下働きをしている従者程度にしか見えないところだろう。
周囲の視線から彼が目当ての人物だと目星を付けた中年の助祭は、事前に聞いていた彼の経歴から連想していた人物像と、目にした実物とのギャップに軽く眉をひそめて、値踏みするようにジロジロ眺めた後、どことなく草臥れた肩掛けの色を確認して、どうにも釈然としない顔のまま口を開いた。
「聞こえたか、セラヴィ司祭? 至急、アロン司教様の元へ出頭せよ!」
そう頭ごなしに命令する助祭。
本来、司祭である彼――セラヴィ・ロウの方が位階的に上なのだが、司教の直属の部下であることと遥かに年上であること、なにより見るからに貧相な身なりをしていることで、敬意を表する必要がないと判断したのだろう。どこまでも横柄な態度であった。
他の神官たちは厄介事に巻き込まれまいと、その騒ぎを聴こえないふりをして、無言で食事を再開しつつも、ちらちらと横目に窺う。
彼らも立場的にはあまり裕福と言えない出自であるため、目の前で虎の威を借りて事大する中年助祭に対して、感情的に反発を覚えているが……かとといって明確に態度に出すこともできないため、砂を噛むような悶々とした気持ちで、せっかくの食事時に降って湧いた災難を受け入れるしかないのだった。
「どうした、セラヴィ司祭?! さっさと席を立たないか!」
一方、セラヴィ司祭と呼ばれた少年は、相変わらずマイペースに食事を続けている。
そんな彼の様子に苛立った助祭が荒々しい足取りで、入り口から混雑した店内へと踏み込み、周りの迷惑も顧みず、すし詰め状態で食事中の若い神官らが座る椅子の背もたれを蹴飛ばしながら、奥に座るセラヴィ司祭の席まで詰め寄ってきた。
「さっさと食事を終えて来ないか! アロン司教様がお呼びなんだぞ!?」
傍らでぎゃーぎゃー喚く中年男の叫び声は、流石に無視できないものだったらしい。セラヴィ司祭は、うんざりとした顔で塩スープをスプーンでかき混ぜながら口を開いた。
「今日は珍しくスープに肉が3切れも入ってたんですよ。俺は楽しみは後に取っておく性分なんで、最後にじっくり味わいたいので食べ終わってから行きますよ」
「は……?」
気負いのない口調で言われた返事の内容を耳にして、中年助祭の顔が一瞬呆けた。それから、何かの聞き間違いかというような目でセラヴィ司祭を見て、彼が言葉通り食事を続けているのを確認して、ようやく理解が及んだのだろう、白っちゃけた顔色が怒りに染まった。
「――セラヴィ司祭っ!!」
「聖典第24章第6項『幸福と希望は常に身近にある。明るい光の下、温かい食事をして、寛いだ瞬間がそれである』聖女スノウ様のお言葉ですね。日々の糧に感謝して、今日を無事に過ごせた幸福を味わう。これも聖職者としてのお勤めではないですか、ブラザー?」
スープを口に運びながら聖典を諳んじつつ、横目でうそぶく彼の屁理屈を受けて、言葉に詰まった助祭に向かって、周囲からも「その通り!」「これもお勤めです」「大事なお勤めを中断するわけにはいかないよな」などとヤジが飛ぶ。
しばしブルブルと無言で震えていた中年助祭だが、満面に怒気を漲らせて踵を返した。
「このことは報告させていただく! せいぜいその貧相な晩餐を味わって来ることだな!」
捨て台詞とともに彼が大股で食堂から去って行く。その途端、期せずして食堂内に喝采の声が上がり、普段の食事時に数倍する熱気が、それなりに大きな店内一杯にはち切れんばかりに広まった。
ほとんどの者が横柄な古参の助祭の鼻を明かせたことを単純に喜んでいるが、中には真摯に少年の今後を心配している者もいる。
「おい、大丈夫か。アロン司教は一応お前の上役だろう? 睨まれたらマズイんじゃないのか?」
「もともと自分の息子と比較して煙たがられたんだ。今以上に評価が下がりようはないさ」
固い麵麭をスープに浸しながら、自嘲気味に肩をすくめるセラヴィ。
それを受けて周囲に座っている若い(といっても若干12歳のセラヴィに比べれば3~6歳ほど年上だが)神官らが同意顔で頷いた。
「司教の息子って金の力で神学校を次席で卒業したって、噂の馬鹿息子だろう? 主席卒業をした9歳の『神童』様に負けた腹いせか。結局は親の顔と金が幅を利かせるんだから、遣り切れないよなあ」
「こちとら少ない金を遣り繰りして、場末の安食堂で腹を膨らませているってのにな」
その途端、カウンターの奥から「場末の安食堂で悪かったな!」という食堂の親父が張り上げる胴間声が響き渡った。
「ごちそうさん。じゃあ、面倒だけど俺は馬鹿息子の親のところへ行ってくるよ」
食器を持ってカウンターへと向かうセラヴィへ、「ご愁傷様」の声と眼差しが飛んだ。
◆◇◆◇
「喜びたまえ、ブラザー・セラヴィ。君の希望通り皇立学園への来年度からの編入が正式に認められたよ」
汚れのない白い法衣と恰幅の良い体格、にこやかな目元と相まって、一見すると善人にしか見えないアロン司教から、端的に告げられた要件を胸の内で復唱して、セラヴィは恭しく一礼をした。
「お骨折り感謝いたします。ブラザー・アロン」
「気にすることはないさ。若い君が己の未熟を自覚して、新たな学びの場につきたい……実に見上げた向上心だよ。
さすがは『神童』だね。とは言え神学校の成績が、そのまま広い世間で通用するのかどうかは不明だからね。努々増長せずに励むことだよ」
細めた瞼の隙間から、隠しきれない侮蔑を含んだ視線を向けるアロン司教。それに気が付かないフリをして、せいぜい殊勝な態度でセラヴィは「はっ」と短く返答を返す。
「それとその後3年間は司祭位のまま皇都の教会での預かりとなるけれど、万一問題など起こせば処罰の対象となるので、学生だと思わず常に聖職者としての自覚を忘れないように。……ああ、それと出されていた奨学金の申請は受理されたので、後程書類の確認をしたまえ」
執務机の上に投げ出すようにして置かれた関係書類の束を、セラヴィは無言でまとめて受け取る。
「それと君の後任は息子……いや、ブラザー・カミルを司祭へ昇格させて当たらせることになった。君とは同期の主席、次席の間柄だったかな? まあ、昇格は1年ほど離されたようだが、あと3年もあれば完全に逆転するだろうね」
ドロップアウトをした落伍者に対する優越感と、厄介払いができる歓びに溜飲が下がったのだろう。アロン司教は弾む声音で付け加えた。
「……そうですか。後任のために申し送りが必要でしょうか?」
特段変わった様子もなく、普段の茫洋とした顔で確認する少年の態度を、負け犬の遠吠えだとでも思ったのか、アロン司教は「別に必要ないだろう」と素気無く断り、用は済んだとばかり野良犬でも追い払うような手振りで、退室するよう促した。
「――失礼します」
一礼して退室したセラヴィがドアを閉める寸前、扉の傍に控えていた先ほどの助祭が、これ見よがしに鼻を鳴らして口角を吊り上げたのが見えた。
ちらりとそれを横目に見ながら扉を閉めるセラヴィは、謹厳な面持ちのまま分厚いカーペットが敷かれた廊下の曲がり角を曲がり、周囲に人が居ないのを確認して、大きく両手を上げて伸びをする。
「まったく、面倒な小物だな。どんぐりの背比べに参加するつもりはないんだけれど」
独りごちるその顔は、普段の茫洋とした表情と違って、まるで抜き身の刃のようであった。
とは言え、その俗物根性を良いように利用して、今回は比較的容易に皇立学園への編入を果たすことができたのだがな、と続ける。
あの無能な上司一同は、邪魔な目の上のタンコブを左遷させることが出来たことで満足し、こちらとしても各国の貴族の子弟と繋がりが持てるこの機会を十二分に利用するつもりでいる。
つまりどちらにとっても益があるということで、問題なかろう――と割り切っているのがセラヴィであった。
「まあ10年後には教団があるかどうか。……とはいえ、まずは目先の皇都での生活基盤の確保が先か」
奨学金が支給されるようになったのはありがたいが、それでも学費と食費でほぼ消える計算である。居住費や書籍代(活版印刷がないため基本が写本となるため、これが特に高額である)などを勘案すれば、どう考えてもやって行けない。
「家庭教師のバイトか、なければ最悪冒険者ギルドに登録かな」
12歳にして地属性と雷属性の魔術の他、初級の治癒魔術も使える『神童』である。後ろ盾も財産もないが、知識と才能は誰にも負けない自信がある。逆に言えばそれしか拠り所がないと言うことだが……。
「……しばらくは里帰りはできないかも知れないな」
ふと呟いた少年の瞳に浮かんだのは、望郷の念……ではなく、少女の姿をした憧憬だった。
――約束だよ。また明日も魔法を教えてね!
束の間の幸福。他愛のない約束。だけど果たせなかったそれ。
破ったのは彼女か。自分か。それとも身分の違いか。或いは運命か。
「覚えているかな?」
ほんの半日足らずの出会いであった。貴族である彼女にとっては取るに足らない出来事で、多分もう忘れている事だろう。
だが自分にとっては最初の転機であり同時に挫折であった。あれがあったからこそ、今日『神童』などと呼ばれる自分を形作れたのだろう。
我ながら未練がましい……と思いながら、セラヴィは元の茫洋とした表情に戻って苦笑をした。
それでも、もし万が一あの少女が約束を覚えていてくれたら、あの日から止まったままの時間が動き出して、自分はもっと前に踏み出せるかもしれない。
億劫そうな足取りで廊下を進みながら、セラヴィはそう思った。
なぜかサクサク書けたので、予定を変更して更新いたします。
なお、感想で「ラスボスっぽくない」というご意見が多いのですが、誤解を与える表現で申し訳ありませんでしたけれど、彼はジルにとって『運命的な相手=ラスボス』です。
別に悪の権化ではないですので。
3/22 誤字の修正をしました。
×少量の肉が入っの塩スープ→○少量の肉が入った塩スープ