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リビティウム皇国のブタクサ姫  作者: 佐崎 一路
第二章 令嬢ジュリア[12歳]
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孤児院の慰問と掏摸の娘

 あたしエミリアは今年14歳になる。いや、正確に14歳かはわからない。2歳位の時に親に捨てられ……そのあたりも記憶は曖昧だけれど、誰かに連れられて孤児院の前に置き去りにされた。

「お母さんはあっちに行くけれど、ここにじっとしているのよ」

 ひょっとすると後から記憶を作り出したのかも知れないけれど、そう念を押されて暗い夜中に孤児院の軒先で一人、膝を抱えて母親が帰って来るのを待っていたと思う。


 結局、疲れと寒さとでぐったりと横になっていた自分を、朝になって院長先生が見つけて大急ぎで院内に連れ込み、手当てと看病をしてくれた。

 それから結局、何年待っても親は迎えに来てくれなかった。


 孤児院での暮らしはさほど悪くはなかった。周りにいる兄弟たちは同じような身の上だし、辺境では10歳位になると、親に捨てられるようにして町へ働きに出される子供も多いので、とりわけ自分が不幸だと思ったこともない。

 まあ冬の寒さと毎日の食事にも事欠く生活だけは辛くて苦しかったけれど……。


 とは言え、あたしも5~6歳になる頃には年長組になり、一端(いっぱし)の大人気取りで年少組の面倒を見たり、院長先生を助けて孤児院の仕事を手伝ったりしていた。


 この孤児院はもともと聖女教団の巫女で、元冒険者だったという院長先生が、個人的に開設した施設で、天上紅華教の影響が強い帝国内で、孤児院を開設することを教団の本山が許可しなかったことから、教団を脱退して一個人として全財産をはたいてつくり上げたらしい。


 お世話になっておいてなんだけれど、正直、なんでそんな一文の得にもならないどころか、大損をするような事をしたんだろうと不思議に思え、実際に聞いてみたけれど、

「別に損とか得とか考えたことはないけれど……ここで育った子が、いつか社会の役に立てる立派な人間になれたなら、充分に得だと思うわね」

 と皺だらけの目尻を細めて、そんなことを言うばかりだった。


 だけど。

 だとすると……あたしは院長の恩を仇で返していることになる。

 なぜなら、あたしは掏摸(スリ)だから。


 孤児院にはたまに慈善家や篤志家なんていう、善人面をした金持ちがやってくることがあった。

 そんな時には孤児院の子供たちは全員並んで歌を歌ったり、色紙で作った折り紙を贈ったりしてもてなす事を強要させられる。

 そして、ものすごく運が良いと気に入った子が貰われて行く事があった。


 勿論、別れは寂しかったけれど、冬のシモヤケやあかぎれ、塩スープと黴の生えた黒パンの食事から解放される喜びから、誰も彼もほっとした顔で貰われていく。

 確かにここでの苦しい生活から解放される喜びはわからなくはない。だけどあたしは、あたしたちを哀れみの目で見て悦に耽る連中のおためごかしが大嫌いだったし、高いところから見下ろされている気分で、強い反発しか覚えなかった。


 そんな風だからいつも尖ったような目付きで連中を見てた。そのせいか……或いはそれがなくても、灰色の髪をした痩せッぽっちの小娘なんて、もともと見向きもされなかったかも知れないけれど、結局あたしは誰にも貰われることなく10歳の誕生日(孤児院に拾われた日)を迎え、翌日に自分から孤児院を出た。


 もともとあたしくらいの年齢になると、子供たちは外に働きに出るのが普通だったし、あたしとしてもそのつもりで準備を進めていた。孤児院を出たのは自分なりの自立をするためのけじめだったし、一人分食い扶持が減れば、その分、院の兄弟たちのお腹も膨らむだろうと思ってのことだ。


 で、最初の頃は院を出た兄や姉を頼って仕事を探したんだけれど、子供ができる仕事なんて靴磨きや新聞売り程度の実入りの少ないものばかり。

 その上、やたら縄張りだとかショバ代とかで、稼いだアガリの大半を持っていかれる理不尽なものだった。阿呆らしくなってきたところで、孤児たちの兄貴分の男にもっと簡単に稼げる方法――掏摸(スリ)や盗みの技を教えてもらった。


 もっとも実際に教えてくれたのは、元盗賊ギルドに入っていたとかいう酒で腕が利かなくなったジジイで、路傍で物乞いをしているこのジジイに授業料代わりに安酒を渡せば、掏摸(スリ)のやり方や鍵開けまで、べろんべろんに酔っ払いながらも教えてくれたものだった。


 ちなみにこのジジイは2年前の冬にあっさり凍死したし、あたしに盗みを勧めてくれた兄貴分も、ショバを巡って対立する連中に刺されて、3年前にあっけなく死んでいる。あたしにイロイロと親切にしてくれたのは、ひょっとすると自分の女にするつもりがあったのかも知れないけれど、名実共に晴れて一人ぼっちになったあたしは、ジジイに教わった掏摸(スリ)の技で今もこうして糊口をしのいでいる。

 院長が言った『立派な人間』には程遠い。




 ◆◇◆◇




 あたしが最初にその女(最初見たときは年上かと思っていたが、後から実年齢は2歳も下とわかったので、「女の子」というべきかも知れないが。長身で細身だけれど、胸と腰は豊かで落ち着いた物腰から、同い年か少し上の年齢だと思ったのだ)を見たのは、コンスルの商店街だった。


 黒を基調にした『いかにも高級品です』という光沢のある衣装を身に着けた女が、15~16歳と思える女給服の使用人を引き連れて買い物をしている。見るからに富豪か貴族の娘だろう。

 顔立ちは平凡だけど、おっとりと平和ボケした表情を見て、あたしは内心ほくそ笑んだ。


(……トロそうなお嬢様(カモ)だね)


「そこのお嬢様、新聞をお買い上げいただけませんか? 帝都の最新のニュースが満載ですよ」


 あたしは左手にぶら下げていた1本手付バスケットから、表向きの商売道具である帝都のゴシップ紙――中身は次の皇帝候補の予想トトカルチョとか、死んだ筈の太祖帝が実は生きていたとか、どこぞの皇族の殿下に秘密の恋人がいるとかいう胡散臭い内容ばかりのそれ――を手にとって近づいて行った。

 ちなみにこのバスケットには、他に包装紙で包んだキャンディも入れてある。

 こちらは野郎相手に使う小道具で、『キャンディ売り=売春』という隠語を含んだ商売で、その気になった馬鹿男を路地裏に連れ込んで、身包み剥ぐのに使うのだ。


 新聞片手に愛想笑いを浮かべて近づくあたしを、物珍しそうに見るお嬢さん。案の定、警戒心のないその様子に、あたしは内心舌舐めずりをした。

 ちらりと見ると、手に嵌めている指輪はたいした値打ちモノではないけれど、胸元――やたら豊満な胸――のドレスの下に隠すようにして、高価そうなネックレスが飾られているのが覗き見える。


 ピン!ときた。これは凄いお宝だ。いままで手にしたこともないような大金に化けるだろう。

 ごくりと唾を飲み込んで、さらに近づきもう一歩で手が届く……というとこで、さり気なく荷物を持っていた侍女が間に割って入り、感情の見えない琥珀色の瞳でじっとこちらを見てきた。


「そういったものは不要です。行きましょう、お嬢様」

 そう一言で切って捨てると、半ば無理やり“お嬢様”の手を取って、すたすたとその場を後にする侍女らしい女。

 促されて、ちょっと戸惑った様子ながら、そのお嬢様は彼女の後に付いて行った。


 残されたあたしは渋い顔で新聞を籠に戻した。

「バレたか……警戒されたのは確かだわね」

 あの侍女が傍に居る限り、あのお嬢様からネックレスをスリ盗るのは難しそうだ。




 ◆◇◆◇




「お気をつけください。あの娘、おそらくは堅気の人間ではありません」

 新聞売りの女の子――多分、私より2~3歳年上で頭半分背が低い、すばしっこそうな印象の相手――から充分距離を置いたところで、手を離してくれたモニカが眉をひそめて注意してきました。


「そんなことわかるの?」

「はい。犯罪者か商売女か……真っ当な職業には就いていないでしょう。目付きやニオイでわかります」

「へ……え」


 見た感じ普通の売り子と変わらないと思ったけれど、でもモニカがそういうのでしたらかなり信用がおけますね。なにしろ認識阻害を突破して、私の素顔を看破した眼力の持ち主ですから。


「……まだ若いのに」


 先ほどの彼女の年恰好を思い出して慨嘆すると、モニカは憮然と付け加えます。


「年齢など関係ありません。たとえどんな不幸な生い立ちや、そうせざるを得なかった理由があろうと、犯罪を犯すような人間はもともとの性根が腐っているのです」


 手厳しいモニカに言葉に私は苦笑いするしかありませんでした。実際に生きるか死ぬかの瀬戸際になれば、犯罪に手を染めないで生き抜く自信は、正直私にもありませんから。


「ま、取りあえず次の慰問の時に持っていく、お菓子の材料を買い揃えましょう。次はパウンドケーキの予定だけれど、プレーンのだけでは面白くないので」

 ちなみにお菓子作りに関しては、もともとある程度の知識があった(前世で母親が凝り性だったため、マクロビとかお菓子作りとか手伝わされたのですが、微妙に下手の横好きだったため、最終的に小学四年生の時に、私が一人でケーキを焼き上げたところ「産んで良かった!」と本気で感動されました。……私の存在意義って)のと、現世でレジーナに家事一切を仕込まれたお陰で、魔術以上にスキルアップしてしまいました。


「はあ。ですが、そんなに手間隙を掛ける意味があるのでしょうか?」

「……あー、まあ、クリスティ様は割りと本気で商業展開を考えてるみたいなので、もう何点か目玉になるお菓子のレシピを考案するよう言われているから」

「あれって本気だったんですか?!」

「みたいね。ロイスさんは街中の物件を探しているし、ベアトリスさんも茶葉の選定作業の監修をしてるみたいだし」

「……てっきり冗談かと思っていました」

「普通、そう思うわよねえ」


 しみじみと頷いて、私は次の買い物をするために、市場目指して足を進めました。


 ちなみにこの4ヶ月後にオープンした、ブラントミュラー家の直営喫茶1号店『ルタンドゥテ』は大評判となり、程なく(政治的圧力がかかったとも言われている)帝都に支店を開店して、ブラントミュラー家の重要な収入源と化し、そのレシピの特許料で私にもかなりの収入をもたらしてくれることになったのですが、それはまた別のお話です。




 ◆◇◆◇




 ここ4~5日、まともな食事にありつけていなかったあたしは、背に腹はかえられないので、久々に孤児院に顔を出すことにした。

 顔を出せば院長先生からたっぷりのお小言と、少しばかりの食事にありつく事ができるから。


(前に顔を出したのって3ヶ月くらい前だったかな)


 少しだけ気後れしながら孤児院の前まで行くと、お大尽が乗る立派な四頭立ての箱馬車が停まっているのが見えた。


(また、どこかの金持ちが恵まれない子供を観賞する為に、足をお運びくださったって訳だ)


 胡散臭そうにあたしを見る御者を無視して、門を入ったあたしは表玄関ではなく裏口へと回った……回ろうとしたところで、院の小さな庭で遊んでいる弟妹たちの姿を見て足を止めた。


 見れば男の子と年長の女の子たちは、椅子を並べて変わった遊びをして歓声を上げていている。その中に混じって、獣人らしい女給服を着た8歳位の女の子が遊んでいた。ついでに年少組の子供たちは12歳位の同じく女給服を着た女の子が、どことなく手馴れた様子で面倒を見ている。


 はしゃぐ子供たちの肌の色艶が以前よりも良く、わずかにふっくらしているのを見て、あたしは首を捻った。


「あっ。エミリアおねーちゃん」


 遊んでいた子供が、立ち竦むあたしに気付いてパラパラと近づいて来た。


「よっ、元気か。グラムにコータ、ティルダとイーダも仲良くやってるか?」

 親愛の情たっぷりに連中の頭をぐりぐり撫でる。


「いてて。ねーちゃん相変わらずだな」

「エミリアお姉ちゃん、院長先生が心配してたよ。ちゃんとしてるのか、たまには顔を出して欲しいって」

「はいはい、わかったわかった。ところで今日は誰か来ているのかい? 表にでっかい馬車が停まってたけど」


 適当にいなしながら聞くと、なんとこのあたりを統治している男爵様の御令嬢が慰問に来ているとのこと。


「んじゃ、あいつらは?」

 あたしの視線に気付いたのだろう、女給服の女の子二人が軽く頭を下げた。


「ラナとエレン姉ちゃんは、ジル様のお供だよ。『フルーツバスケット』とか『片足ずもう』とか、教えてくれた」

「へえ」

 どんな遊びかはわからないけれど、多分さっきまで子供らが夢中になってやっていたアレがそうだろう。


「んじゃ、そのお嬢様は今は中で院長先生とお話中かい?」

 侍女に子供たちのご機嫌をとらせて、自分は院内でお茶でも飲んでいるのかと思って聞いてみたんだけれど、答えは予想外のものだった。


「ううん。ジル様は院長先生とお洗濯してるよ」

「――へっ?!」

「その前は一緒に掃除したの!」

「そうそう。屋根に上って雨漏りの箇所も直してくれたし」


 あたしは口々にそんなことを言う、院の弟妹たちの顔を見回す。

「……貴族のお嬢様が洗濯したり、屋根に登って雨漏りの修理したりしたの…か?」

『うん!』

 一斉に頷かれて、あたしは絶句した。どこの世界に慰問に訪れた孤児院の屋根に登って、金槌を振るう貴族の御令嬢がいるんだ?!


 なんとなく毒気を抜かれた表情で、あたしは院の裏側へと回った。

 見れば院長先生とあの女――忘れもしない、何日か前に侍女を連れて商店街をふらふら歩いていた娘――が、並んで洗濯物を干している処だった。


(あいつ……!)

 その瞬間、あたしの心に猛烈な反感が起きた。

 いま考えても理由はよくわからない。恵まれた人間に対する悔しさや哀しみ。あたしがいた場所を占拠されたような僻み……そんな汚い感情が爆発して、どうしてもこの女の持っている物を奪い取ってみたくなったのだ。


「あら、エミリア! 来ていたのね」

 そこへ院長先生の弾む声がした。


「――ご無沙汰しています、先生」

「本当よ。あなたずっと顔を出さないから心配していてわ。ちゃんと食べているの? 少し痩せたんじゃない?」

「ええ、まあなんとか……」

 手を休めて母親みたいに心配する院長先生の様子に面映いものを感じながら、あたしは曖昧に返事をしながら、そちらに近寄って行った。


「あ、あら。失礼いたしました、ジュリア様。ここにいるのはうちの院を出た子で、エミリアといいます。エミリア、こちらはブラントミュラー男爵様の御息女でジュリア様です。随分とお世話になっていて、今日も子供たちの為にお菓子を持ってきてくださった上、いつも雑用までやっていただいて、本当に何と言って感謝してよいやら」

「いえ、院長先生。私も気晴らしになりますし、侍女のラナも近い年の子供と遊べて楽しそうですので、お互い様ですわ」


 屈託なく笑うジュリアお嬢様。

 なるほどねえ。院長先生と同じ人種か。他人の悪意よりも好意を信じて、常に陽のあたる場所を歩いていて、日陰者にも分け隔てなく手を伸ばしてくる。

 だけどねえ。日陰者にとっては太陽の輝きってのは、眩しすぎて余計なお世話なんだよね。


「どうもハジメマシテ。エミリアです。今日は久しぶりに院の様子を見に来たんですけれど、お嬢様のお陰で皆が楽しそうで……ビックリしました」

 あたしの挨拶になぜか微妙な顔をするジュリアお嬢様。

「院長先生、あたしも洗濯を手伝いますよ。まだ洗うものはあるんですか?」


「ああ、大丈夫。後は干すだけなので」

「わかりました。じゃあ、残りを干すのを手伝いますね」

 干すだけと言っても20人近い子供が暮している孤児院の洗濯は一仕事だ。

 あたしは腕まくりして洗濯物を入れてある籠に近づいた。


 ジュリアお嬢様も洗濯物を一枚一枚、丹念に皺を伸ばして干している。

 お嬢様のお遊びかと思ったら、意外と手馴れた仕草にちょっと舌を巻きつつ、それとなく傍に立つ。

 幸い先日の目端が利きそうな侍女は、今日は居ないらしい。チャンスだ。


「失礼ですけど、随分と手馴れてますね」

「ええ、まあ私はもともと貴族じゃ……いえ、もともと生粋の貴族なのよねぇ……けど、いろいろあって家事とか強制的にやらされた期間があったので、自然と身についちゃったのよ」


 微妙に言葉を濁して……と言うか、自分でも釈然としないような顔で、ジュリアお嬢様はよくわからない説明をする。


「はあ、そうなんですか」

「そうなんですよ」


 どことなく上の空で返事をする彼女の様子を見て、『ここだ!』と思ったあたしは、素早くネックレスを外すべく、首の後ろの止め具めざして手を滑らせた。


 刹那、ごくごく自然な動きで、ジュリアお嬢様の手があたしの手を掴んで、無造作に止めた。


(こ、こいつ、素人じゃない?!)


 タイミング、スピードともに完璧だった筈だ。だけどまったく気負いなしに、あたしの手を止めたお嬢様の繊手は、まるで万力のようにびくともしない。いや、これは多分、衛兵が使う捕縛術みたいな技術で押さえ込んでいるんだろう。


 あせるあたしの顔を、まじまじと振り返って見る貴族のお嬢様――そう気が付いたところで、あたしの頭が完全に冷えた。

 貴族のお姫様……それもこの一帯を統治する相手に盗みを働いて、ただで済むわけがない。普通の掏摸(スリ)でも、悪質なのは手首を斬り落とされる。だけど相手は貴族だ。そんなものじゃないだろう。

 いや、あたし一人が処罰されるならそれは仕方がない。けど、あたしはこの院の出身で、しかも院に慰問中を狙って盗みを働こうとしたのだ。当然、連帯責任で孤児院自体が責任を負わせられるに違いない。


 片手を捕られたまま、蒼白になって身動きもままならないあたしの様子に気が付いた院長先生が、怪訝そうに尋ねてきた。


「どうかしましたか? なにかこの子が粗相でも?」


 その言葉を受けて、ジュリアお嬢様は握っていたあたしの手を外すと、合点がいったという顔で頷いた。

「ああ、やっぱり。どこかで見たことがあると思ったら、貴女、街で新聞を売っていた売り子さんですね」

「え……?」

「お知り合いですか?」

「ええ、先日声を掛けられたのですが、生憎と買い物の途中でしたので、そのまま素通りしたのですが、今日はお仕事はお休みですか?」

「………」

 こいつ、この期に及んでどういうつもりだ?!


 困惑するあたしを他所に、院長先生がパッと顔をほころばせた。

「まあ。エミリア、ちゃんと働いていたのね。ずっと心配してたのよ。悪い仲間に入って、悪いことをしているんじゃないかって。ごめんなさいね、あなたを信じてあげられなくて。……本当に、自分の不明を恥じるばかりですわ、ジュリアお嬢様」

「大丈夫ですわ、院長先生。エミリアさんも、先生の気持ちはきちんと伝わっている筈ですから。ねえ?」

「………」

 あたしは無言のまま、俯いて頷いた。


「それじゃあ、洗濯物を干したらオヤツにしませんか。今日のパウンドケーキは、ちょっと自信作なので、ぜひエミリアさんもご一緒にお召し上がりください」

「いや、あたしは……」

「そうね。ジュリアお嬢様が持ってきてくださるお菓子は、どれも頬っぺたが落ちるほど美味しいのよ。エミリアがいれば子供たちも喜ぶと思うし」

「そうですね。家族と一緒に美味しいものを食べれば、嫌な気持ちも吹き飛びますからね」


 そのさり気ない気遣いの篭った言葉に、あたしは愕然とお嬢様の顔を見たけれど、当人はにこやかな気負いのない笑顔で、あたしの事を見詰め返すだけだった。


「そうね。困ったことがあったらいつでも戻ってらっしゃい。ここはあなたの家なんだから」

 院長先生の優しい言葉に泣きそうになりながら、あたしは残った洗濯物を乾かすために、作業へと戻った。



 その後、一仕事終えたあたしたちは、弟妹たちと同じテーブルについて『パウンドケーキ』とやらを食べたけれど、これが先生が言う通り、大げさでなくて目玉が飛び出るほど美味しくて(特にブランデーの匂いがするのが、あたしは一番美味しかった)、食べ過ぎてお腹が一杯になる頃には、いろいろな悩みが消えて、本当に幸せな気持ちになることができたのだった。


「こんな美味いもの毎日食べられる生活がしてみたいな」

 思わずポツリ呟いたその一言が耳に入ったらしい。

 ジュリアお嬢様は、

「なら今度、ブラントミュラー家の直営喫茶を開く予定なので、そこの従業員に応募してみない? 私から推薦しておきますよ」

 と、あっさりとんでもない事を提案してきた。


「えっ!? で、でも、あたしは(掏摸(スリ)で)」

「大丈夫。エミリアさんは信用できる人ですよね、院長先生?」

「勿論です。私の自慢の娘ですから。きっと役に立ちますよ」

「――っ!!」


 もう駄目だ。我慢してきた涙が思わずこぼれた。

 そんなあたしの様子を見て、弟妹たちが騒然としていたが、あたしは嗚咽をこらえながら、深々と院長先生とジュリアお嬢様に頭を下げる事しかできなかった。



 こうしてこの後、いろいろあったけれど、あたしは思いがけなく真っ当な仕事に就き、三度三度美味い食事にありつくこともできるようになった。いまの目標はお嬢様に負けないお菓子を作って、孤児院の弟妹たちに振舞うことだ。

ちなみに小学四年生でケーキを作って「産んで良かった」と母親に言われたエピソードは友人の実話です(笑)

作中と違うのはお母さんが家事無能力者だったためその後、家事一切を彼女がやったことですね(爆)

ただ男の子だとどうなるんでしょうね。お兄さんもいましたけれど、ほとんど手伝わないと言っていたので(でもやる気になれば作れるそうです)、男子は同じ立場でも最後まで作らないのかわかりませんね。

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もよろしくお願いします。
― 新着の感想 ―
[一言] 手作りクッキーとか食べたいワン
[気になる点] 主人公は姉弟子に負けるほど弱いのか。剣術でエレンの幼なじみといい勝負なのは性別のこともあってまあわかるけど釈然としないなぁ
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