幕間 専属メイド・モニカ
「お嬢様とルーカス様が、市街を見学に行きたいとおっしゃっているので、その案内を頼みます」
唐突に伝達されたその内容を聞いて、モニカは皿を並べる手を一瞬だけ止めた。
だが、止めたのは一瞬だけだ。
なにしろ、それを口に出したのは家令のロイスさんである。
彼女のような下から数えたほうが早いパーラーメイド(食卓に侍するメイド)にとっては、雲の上に位置する、実質的に男爵家の使用人全てを取り仕切る神のような存在だ。
その彼が、本来の彼女の上司に当たるコックのローランドを介せず――何しろ彼も、突然厨房に現れたロイスさんに驚いて、鍋を沸騰させ大慌てしているくらいだ――直接伝えてきたということは、まったく拒否権どころか疑問を挟む余地さえない、すでに確定された命令ということになる。
モニカは皿を並べ終えると、エプロンで手を拭き機械的に頭を下げた。
「わかりました。これからすぐにご案内すればよろしいのでしょうか?」
「ええ、既にお二方とも出かける準備は整っていますから、そのままの支度で結構なので応接室の方へ来るように」
「わかりました」
返事をしてから、念のため琥珀色の瞳を、一応上司であるローランドの顔に向けると、不承不承という顔で頷いた。
(お昼に手が足りなくなるのが嫌なんだろうけれど……だったら、ロイスさんに直接文句を言えばいいのに)
伝えることだけ伝え、即座に踵を返したロイスの背中に向かって愛想笑いを浮かべているローランド。大方内心では面倒事を持ってきた彼に、罵詈雑言を浴びせまくっていることだろう。
だが、もちろんそんな態度はおくびにも出すことはできない。結果、おそらく、帰ってきてから自分がその憂さ晴らしの矢面に立つことになるのが目に見えている。
「………」
下いびりの上へつらいを地で行く彼の性格を熟知しているモニカは、内心大いにため息をつきながら、ロイスについて厨房を後にした。
無言のまま絨毯の敷かれた廊下を歩き始めた二人だが、ふと思い出した……と言うように、ロイスが口を開いた。
「確かあなたの実家は、ウルグス市の近郊で宿屋を経営していましたね」
なにげなく言われたその言葉に、完全に虚を突かれたモニカの返事が、一瞬滞った。
確かにそういったことを、このお屋敷で働く際、面接に関わったロイスさんに話した記憶はあるが、まさか相手が覚えているとは夢にも思わなかったためである。
「……宿屋といっても、季節ごとの巡回商人や旅行者を相手にする、兼業の…農業の片手間に行っていたもので、本格的なモノではありませんが…」
物心ついた時から祖母と二人きりで小さな宿屋を切り盛りしてきた。父と母とは幼い頃に流行り病で死別している。顔さえ覚えていない。
15歳の時にもともと体が弱かった祖母が亡くなり、天涯孤独の娘一人では生活を続けることが困難になったため、帝都の出身だという村長夫人に紹介状を書いてもらって、奉公に出ることになった。
家財や僅かばかりの畑を売った全財産と、餞別として村長夫妻に渡された、お古ながら奉公先で着られそうなメイド服――当然、村長夫妻も温情だけで世話をしてくれたわけではないだろう。半分は孤児である自分を村で養う手間を省く考えがあってのことだ――とを抱えて、巡回商人の馬車に同乗させてもらい帝都へと上京してきた。
はじめての旅、はじめての大都会だった。
その後、偶然にこの男爵家の求人案内を目にして、ダメモトで面接を受けたところ、なぜか採用となり――おそらく、自分の一生の幸運はこの時に使い切ったのだろう、とモニカは思った――追い出されることもなく、どうにか1年以上働かせてもらっている。
あの寒村で食うや食わずの生活を送っていたことを考えれば、安全が保障され、毎日三食食べられ、その上月々の給金が貰えるいまの生活は、天国のようなものだ。
多少の小言や理不尽には慣れたし、それを差し引いてもここの生活は充分に快適だと思える。
「ふむ。なるほど……その経験のお陰でしょうか。あなたは他人に対する注意力が高いように見受けられますね。他になにか、武術か魔術の心得はありませんか?」
「魔術って程ではありませんが、代々村の呪い師のような家系だったそうで、祖母から簡単な呪いの手解きは受けていますが……」
何かを試されているような気分で首を傾げた。
そんな疑問を読み取ったようなタイミングで、ロイスさんが足を止めて、肩越しに振り返った。
「なるほどなるほど。ところで、素直な感想を聞かせて欲しいのですが、あなたはジュリアお嬢様を見てどう思いましたか?」
表情と口調は変わらないのに、これまでになく真剣な――嘘や誤魔化しを許さない響きを伴った――その問い掛けに、モニカはほぼ反射的に思ったことを口に出していた。
「……お綺麗な方ですね。まるで――」
「まるで?」
「咲き誇る大輪の花みたいに」
実際、女男爵様の養女として、突然紹介された彼女――ジュリア・フォルトゥーナ・ブラントミュラーという12歳の少女――に対する、モニカの感想はそれしかなかった。もしくは……。
(……神様は不公平だ)
という不満くらいなものである。
動きやすいようにショートカットにしていても、癖の強い赤茶けた髪は纏まりきらず。健康的ではあっても、そばかすの浮いた浅黒い肌はどこかくすんで見える。琥珀色の瞳はあまり感情を映さず、可愛げがない。
決して不器量というわけではないが、積極的に他者に訴えかけるような魅力も愛嬌もない。
つまりどこにでも居る平凡な人間……それが、16年間生きてきてモニカが自分に下した評価である。
対してジュリアお嬢様。あの方は自分とはまるで正反対だ。
12歳とは思えない長身痩躯……でありながら、同性の目さえ引き付ける豊かな胸と、信じられないほど細くくびれた腰、ボリュームのあるお尻。
貴族らしく腰の下まで伸びた長い髪は、薄い桜色が混じった金髪で、光の加減で艶やかにその濃淡を変え、幻想的な美しさを醸し出し、憂いと儚さを帯びた大粒の双眸は、澄んだ宝石のような翡翠色。
滑らかな肌は処女雪のようにシミ一つない純白で、その面立ちはまるで御伽噺の妖精かお姫様のように愛らしげである。
美しい。と誰もが感嘆とともに認める少女だろう。
とは言え、最初、彼女を紹介された時には、さほどその美貌に注意が向かなかった。
夕食前にいきなり屋敷内の使用人全員が集められ――と言っても帝都のこの屋敷には、現在12名の使用人しか居ない。女男爵様が赴任予定の『コンスル』という町に、造られたという屋敷へと、一足先に準備の為に向かっているため――紹介された時には「田舎者って言ってたけど、普通に貴族の子女だなあ」程度の感想しか抱かなかった。
それが一変したのは、訪問されたルーカス様と談笑している姿を、横から眺めていた時だった。
ルーカス様はやんごとない身分のお方で、かつて女男爵様が家庭教師をしていた関係で、たまに訪ねていらっしゃる。
はじめて見た時には、天使かと見まごう程の可愛らしさだったのが、この1年ほどで『貴公子』と呼べる気品と風格を増してきた。
自分は4つも年上で、比べることもおこがましい身分だけれど、見ているだけで胸が痛くなるほど、素敵な男の子。それがルーカス様に対するモニカの素直な気持ちだった。
恋ではない。手の届かない虹や星を眺めてため息をつくような、憧憬であり羨望である。
そんな彼が明らかに恋する瞳でジュリアお嬢様を見ている。
香茶を準備するように言われ、応接室に入った瞬間にすぐにわかった。
最初はまさかと思った。そしてそれが間違いないと確信した瞬間、頭が真っ白になった。なぜこんな出自も定かでないような平凡な少女を、ルーカス様が? 混乱しながら、ジュリアお嬢様を改めて観察してしばらくして、突然――まるで魔法が解けたかのように、お嬢様の姿が“変貌”した。
いや、変貌という言い方は正しくない。
確かに自分は昨日から、この方とお会いしていたし、いまだってその姿はなんら変わりない。だけれど、なぜこれほどの美貌の少女を目前にして『平凡だ』などと思っていたのだろうか?!
ルーカス様と相対していても見劣りしない……どころか、事によれば凌駕する、まさに『深窓の令嬢』に相応しい容姿である。
どうやら自分は昨日からどうかしていたらしい。
まさしくブラントミュラー男爵家に相応しい令嬢であり、この方であればルーカス様のお相手としても、誰一人ぐうの音もでないだろう。
モニカは密かにため息をついて納得したのだった。
そんなモニカの感想を聞いて、ロイスはどことなく満足げな顔で頷いた。
「なるほど。やはりあなたを選んで正解だったようですね」
「はあ……?」
それから、不意に笑顔を引っ込めたロイスは、鋭い口調で命令を下した。
「ですが、あなたのその感想…お嬢様の容姿に関することを、奥様以外には家臣であろうと誰であろうと、決して口外してはなりません。理由を聞くことも許しません。これは命令です」
同時にひやりとする刃の冷たさが、モニカの背中を撫でていく。
無言のまま、何度も首を縦に振る彼女の表情を見て、再び柔和な表情に戻ったロイスは、軽い口調で続けた。
「ですが、そう悪いことばかりではありませんよ。取りあえずあなたの給金は今日から3倍になります」
「――はあ?!」
普段のどちらかといえば無愛想な表情が崩れて、素っ頓狂な声をあげる彼女の様子を、楽しげに目を細めて見ながら、ロイスは軽く肩をすくめた。
「別に冗談ではありませんよ。今日からあなたにはパーラーメイドではなく、お嬢様の専属メイドになってもらいますので、その分の昇給分ということですね」
簡単に言ってくれるが、お嬢様の専属メイドというのは要するに侍女である。
パーラーメイドから侍女への昇進など、5段階昇進並みの快挙……というか、はっきり言って横紙破りの暴挙も良いところだ。
立場的にはいままでの上司だったコックのローランドよりも上になる。
「大変とは思いますが、あなたなら何とかなるでしょう。案外、お嬢様と気が合いそうですし」
気楽に言ってくれるロイスの言葉に呻き声で返答をするモニカ。
給金が上がったことは単純に嬉しいが、それにしてもメイド2年目にしていきなり侍女である。先行きが不安にならないと言えば嘘になるが……まあ、仕事そのものはいままでの延長でなんとかなりそうだし、あのお嬢様も脇で観察していた限りでは、かなり気さくで緩やかな――はっきり言えば天然っぽい――印象があった。
その為、美人にありがちな、ある種の近寄り難さが、かなり軽減されているので、ロイスさんが言う通り、案外上手く行くような気もする。
だが、問題はローランドをはじめとする他の使用人のやっかみである。
ブラントミュラー男爵家では、幸いさほど陰湿なイジメや、階級差別はなかったけれど(他家ではかなり悲惨らしい)、それも程度問題だろう。昨日まで同じ団体部屋で寝ていたメイドが、今日からお嬢様の侍女として、隣の個室で寝起きをすることになった……と、なれば当然、良い気持ちはしないのが人間だ。
(はあ……)
今後の使用人達との軋轢を考えると、到底素直に喜べないモニカなのであった。
「まあ、私をはじめ家政婦長のベアトリスにも、管理監督については相談してください。悪いようにはしませんから。それと近いうちにあなたの他にも専属メイドを選定する予定ですので」
慰めるような口調でのロイスの言葉に、モニカは「わかりました」と頷きながらも、ふと気になって確認した。
「あの、お嬢様の専属メイドに選ばれるのは、いま居る使用人の中からでしょうか?」
「いま居る、というのが現在この屋敷内に残っている者、という意味ならNOですね。あなたの他に該当者はいないようですので、まずはコンスルの屋敷に移ってから探す形ですが……おそらく居ないでしょう。では、外部から招くかとなれば……それも避けたいところですので、人選についてはなかなか歯がゆいところです」
「はあ」
半分は独白のようなものになったので、モニカは適当に相槌を打った。
「まあ、どのような形になるにせよ、新たに選ばれる専属メイドがいた場合、あなた以上にとんでもない人選になりそうで、いまから頭が痛いところです」
そう言っている割に楽しげな表情で、再び前を向くロイスさんの態度から、どうやら必要な話は終わったのだと判断して、モニカもまた姿勢を正した。
やがて廊下を進んだ先にある扉のひとつの前で立ち止まったロイスさんは、軽くノックをして「ロイスでございます」一言声をかけて、部屋の中へと入って行った。
続けて入り口のところで一礼したモニカが後に続く。
「お待たせしました。このモニカがお二人をご案内いたしますので、よろしくお願いいたします」
紹介されて、モニカは部屋の中に居た少年少女に向けて、改めて一礼をした。
本来は、この後市場に行くまでを書く予定だったのですけれど、予想外に長くなったので、モニカ視点のみのお話としました。
ちなみにメイド服は雇用者が用意するわけではなく『自前』です。
ですので、用意できない子はフルタイムで勤務できません。日雇いなどでお金を貯めて制服を購入してから、正式に働き口を探す形になります。(「路地裏の大英帝国」参照)
次回は「自由市場の散歩と奴隷の少女」(仮)の予定です。
3/20 脱字修正しました。
×ショートカットにしていも→○ショートカットにしていても
×ロイスどことなく満足げな顔→○ロイスはどことなく満足げな顔