幕間 新航路の開通とベーレンズ伯爵の悩み
ちょっとリハビリがてらキーボード入力をしてみました。
【闇の森】にあった『蒼神の負の遺産』が消え、それらの後始末のため一時的にジルたちがグラウィオール帝国帝都コンワルリスに滞在していた時のこと――。
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エステル・リーセ・ベーレンズはグラウィオール帝国帝都コンワルリスから馬車で一日ほどの距離にある、大河テーグラ河沿いに造られた帝国最大の港湾交易都市エッダ子爵領に居を構えるベーレンズ伯爵家の長女である。
ベーレンズ伯爵家――その母体であるベーレンズ商会は、帝国のみならず大陸中に存在する船の半数と、航路の八割を押さえる大陸最大の海運業者であり、ベーレンズ伯爵は文字通りの海運王である。
もともと大陸最大の海運王であり、屈指の財閥ベーレンズ商会であったが、さらにここニ、三年は思いがけない追い風が商会を後押しするようになった。
そのひとつが、長年にわたって存在は知られていたものの、諸般の事情から使用不能になっていた中部フェルス大河を遡上し、大陸最大の湖ロスマリー湖を越え、西部方面レウィス大河を下る大陸横断航路の使用が認められたことである。
そしてもうひとつが、禁忌の土地と忌み嫌われていた吸血鬼が支配する国、ユース大公国との交易及び港の開設であった。
これにより、これまでは危険と隣り合わせで、大陸南部のクレス自由同盟を大回りに回らなければ到達できなかった大陸東西を結ぶルートが、一気にそして安全に短縮されるようになったのである。
半ば偶然と巡り合わせによってこの僥倖に与れたベーレンズ商会は、これによって海運業者としての立場を一気に盤石なものへと変えることになった。
なにしろ同業他社が三月かかる航路を一月に、そしてより安全な航海が約束されたのである。
慌てて同じ航路を開拓しようとした者たちもいたが、無許可の艦船は侵略と見なされて、ロスマリー湖に棲む水棲人たちの猛攻にあって沈没し、これによって大陸を周回するルートはほぼベーレンズ商会一手に握られた……という経緯があった。
これによってその他の海運業者たちはベーレンズ商会の傘下に収まるか、細々と貧しい獣人族が暮らすクレス自由同盟を相手に赤字ギリギリの商売を続けるか、諦めて商売を畳んで首を吊るかという、ほぼ完全なベーレンズ商会のひとり勝ち状態となってしまったのである。
そのベーレンズ伯爵は帝都にある支店(規模としては倉庫群を抱えるエッダ子爵領本店の方が広いが、商会としてはこちらが実質的な本店である)の執務室で、苦虫を嚙みつぶしたような顔で独り言ちた。
「……マズいな。勝ちすぎた」
ここで手放しで喜ばないのがベーレンズ伯爵の抜け目なさである。
それでなくても、その財力は軽く中規模国家の国家予算を超え、その気になれば書面ひとつで中小国を干上がらせることすら可能なベーレンズ商会。
これまでは競合する財閥があったからこそ、ある程度国との折り合いがついていたが、『出る杭は打たれる』の格言通り、飛び抜けた一強となってしまっては、はっきり言って国からは危険視され、他の財団からの足の引っ張り合いは壮絶を極めるだろう。
実際、いまの段階で提携を切ってきたり、法外な値段を吹っ掛けてきたりするようになった商会は枚挙にいとまがない。
さらには商業ギルドが元老院や貴族院を後ろ盾にして、根も葉もない罪でベーレンズ商会を訴える(なお、この世界には独占禁止法は存在しない)準備をしているとも聞く。
いかに帝国最大の財閥となっても、その他の財閥や商業ギルドが敵になっては勝ち目がない。ましてや有力貴族を敵に回しては、白でも黒になるのは火を見るよりも明らかであった。
そうならないように、こちらも対抗して門閥貴族などに付け届けを贈ってはいるものの、どうにも芳しくない状況であることを、商人としての勘でベーレンズ伯爵は感じ取っていた。
可能であればこちらも対抗派閥の門閥貴族を味方につけることが一番だが、もともと商会としての歴史が浅く、父親の代で叙爵された新貴族であるベーレンズ伯爵には、それほど強力な中央とのコネがなかった。
それどころか古くからの大貴族からは、やれ成金よ、平民上がりの成り上がり者よと、形骸化しつつある伝統と格式とやらを根拠に下に見られるのが常であった。
「そんなの知ったこっちゃないわ。あたしだって生まれた時から貴族よ! ちょっと家柄が古いってだけで何が偉いのよ! 伝統に胡坐をかいて税金が払えなくなって、いまじゃ町屋敷はもとより領主館どころか、領地まで売り払う伝統貴族が珍しくないっていうのに!」
そのあたりは娘であるエステルにもしわ寄せが行っているのだろう。
パーティや茶会に出席するたびに他の令嬢方からチクチクと嫌味を言われ、腹に据えかねて帰ってきては地団太を踏んで憤慨する姿を見たのは一度や二度ではない。
「あいつらの親なんて、金を融資して欲しいってヘコヘコしているくせに、『今年の小麦の税収が少ないのはそもそもベーレンズ商会が、安価な国外からの小麦を輸入しているせいだ』とかわけわかんない理屈をつけて、返済を渋る二枚舌の貧乏人じゃないの!!」
「……もっとも、エステルの場合は半分以上は自業自得だが」
私は娘の育て方を間違えた、と密かに嘆息をするベーレンズ伯爵。
現状を打破する手段として、通常であれば(名目上の)主家にしてエッダの領主であり、帝室とも縁戚でもあるエッダ子爵に仲立ちを御願いするのが筋であるが、現当主は良くも悪くも非常に凡庸な人物であり、街の自治、運営に関しては自分の頭越しに実質的にベーレンズ伯爵が陣頭指揮を執っている(執らざるを得なかった)ことを、内心で苦々しく思っていることは周知の事実であった。
「だったら年の半分は領主館に滞在して執務を行って欲しいものですな。私は現在二百日間休みなしなのですが、ほぼ帝都に籠ってパーティやらにうつつを抜かし、税金は町へ還元せず無駄な散財に使用し、夏のバカンスシーズンだけ遊びに帰ってくる……義務も責任も履行せずに、特権だけよこせというのはいかがなものですかな」
というのがベーレンズ伯爵の偽らざる本心である。
その気になれば領主の首を挿げ替えることも可能なベーレンズ伯爵であったが、下手に有能な人間よりも怠惰な無能のほうが扱いやすい……との思惑からあえて放置してきたものの、ここに来て状況の変化が劇的過ぎて、良くも悪くも現状維持に留めていた努力が裏目に出てしまった感がある。
これに関してはベーレンズ伯爵も後手に回ったという忸怩たる思いしかなかった。
「……せめてエステルがルーカス殿下の心中をお射止めできれば。いや、せめて周りに認められる和やかな関係を築ければ」
執務机に座ったままのベーレンズ伯爵の口から、我ながら愚にもつかない繰り言がこぼれる。
長女であるエステルは幼少時から帝都コンワルリスにある町屋敷に住まい、実質的なベーレンズ商会の旗店である帝都支店を遊び場としていた。
その関係からエイルマー公爵殿下夫妻と懇意にさせていただき、嫡男であるルーカス殿下との接点を結ぶことに成功した――そう聞いた当時は柄にもなく舞い上がって、思わずその場で嬉しさのあまり宙返りをしたものである。
なにしろグラウィオール帝国は一部の例外を除いて、直系の長男ひとりだけが爵位(称号)と領地、財産を継ぐことができる長子相続、限嗣相続が基本であり、エイルマー公爵は現在は公爵位を名乗っているものの(当時の)皇帝陛下の長嗣孫であるため、将来的には皇帝位を継ぐ第一候補と見られているのだ。
その継嗣の寵愛を受けるとなれば、商会の後ろ盾としては盤石と言ってもよかっただろう。
「それもこれも淑女として、まともなアプローチをかけていれば、だが」
頭を押さえて呻くベーレンズ伯爵。
遅くに生まれた一粒種の娘ということで甘やかし過ぎたのか。はたまた商売人たちに感化されたのか。ともあれ奔放な娘に育ってしまった。
おまけに成り上がり者、魔力を持たない貴族モドキと蔑む周囲に対する反骨精神が、
「ふん。そういう連中は金貨の入った袋で横っ面を叩いとけばいいのよ! この世は金がすべてよ! 金が力であり正義であるわ。金がない奴はクズよ、ひとしく負け犬の遠吠えよっ!」
という微妙に歪な人格形成をなしてしまった……ような気がする。
幸いにしてエイルマー公爵夫妻やルーカス殿下は小娘の戯言に目くじらを立てるほど狭量ではないようだが、当然ながら周りの目は冷ややかなものである。
ほぼルーカス殿下にまといつくお邪魔虫扱いで白眼視され、ルーカス殿下自身も苦笑いをしている状態だと分かった時には、足元から底なしの泥沼に沈むかのような申し訳なさと居たたまれなさで悶死するかと思ったほどであった。
そしてその後、ルーカス殿下の婚約者であるジュリア姫――現二代目聖女――の内示とお披露目があり、ベーレンズ商会の会頭としてパーティに参加したベーレンズ伯爵は、彼女を一目見るなり悟った。
――ああ、これはダメだ。
気品、美貌、魔力、血統。スタイル。あらゆるスペックが文句のつけようがないのはまだしも、いかにも嫋やかで奥床しくも儚げな物腰と、あらゆるものを癒すような包容力に溢れた春の日差しのような笑顔。
いずれも娘であるエステルには決定的に欠けている要素ばかりであった。
その隣で幸せそうな笑顔を常時放っているルーカス殿下の態度には嘘や誤魔化しはなく、本当に心の底から彼女を愛しているということが一目瞭然であった。
ゆえに愛娘の初恋が、いかなる形でも実を結ばないことも理解でき、ベーレンズ商会の会頭という公人としても、ワガママ娘を愛する親馬鹿な父親としての私人としても、己の思惑が外れたことを如実に突きつけられたわけである。
もっとも、そのジュリア姫がエステルと顔見知りとなり、なおかつ何の隔意もなかったお陰で、まさに天から降ってきた硬貨として、ベーレンズ商会が独占して大陸横断航路やユース大公国の港を使用できる特権を得ることができるようになったのだから、つくづく世の中どのように物事が転ぶかわからないものだ。
「とはいえ間近の問題をどう対処するか……」
下手を打てば商会がなくなる危機を前に頭を悩ますベーレンズ伯爵の元へ、信頼する秘書が顔色を変えてノックもせずに執務室へと飛び込んできた。
「失礼いたします、会頭。ただいまルーカス殿下と聖女様がお忍びでお見えになられたのですが――」
「な、な、なんだと!? す、すぐに客室――いや、貴賓室へ通せ! 絶対に外部の者に見とがめられないよう、王侯貴族専用の隠し通路と階段へ案内しろ! くれぐれも粗相のないように!!」
泡を食って椅子から腰を浮かせたベーレンズ伯爵に対して、秘書は息を整えることもせずに、まるでこの世の終わりのような口調で、報告の続きを口にするのだった。
「お見えになられたのですが、即座にどこからともなく現われたエステルお嬢様が『ルウ君に告白することと、こっちのオッパイお化けに言いたいことがあるわ!』とおっしゃって、周囲の制止を押し切って専用昇降機へお二方を押し込んで何処かへ。現在保安部員と信用できる者たちで手分けをして行方を捜しています!」
それを聞いて浮かしかけた腰が抜けて、椅子へへたり込むベーレンズ伯爵。
「あ、あのバカ娘が……!」
粗相どころではない、おおやけになれば帝族と聖女に対する侮辱罪として、軽く死罪とお家断絶に相当する暴挙に頭を抱えながら、
「後生だ。どうか軽はずみな真似をしませんように……」
そう願わずにはいられなかった。
同時に、十中八九無理なことも理解していたベーレンズ伯爵は、お家と商会、従業員たちの生活と愛娘とを天秤にかけて、エステルの絶縁と修道院あたりへ生涯押し込めることを条件に、事の顛末に終止符をつけられないかと、痛む頭と胃を押さえて苦悩するのであった。
結果、手術した腕の傷が痛くて血がにじんでいるので、まだ無理は禁物っぽいです。
8/30 ちょっと修正しました。ベーレンズ伯爵の最後の台詞の言い回しに追加で、
「後生だ。どうか軽はずみな真似をしませんように……」
そう願わずにはいられなかった。
同時に、十中八九無理なことも理解していたベーレンズ伯爵は、お家と商会、従業員たちの生活と愛娘とを天秤にかけて、エステルの絶縁と修道院あたりへ生涯押し込めることを条件に、事の顛末に終止符をつけられないかと、痛む頭と胃を押さえて【煩悶→苦悩】するのであった。
「後生だ」というのは「お願いだから。一生のお願いだから」という意味のことを人に哀願する場合に使われる言い回しです。
だったら「一生のお願い」とか「頼むから」でもいいのでは? というご意見もあろうかと思いますが、より悲痛な心中を表現するのにこちらの方が適正だと判断しました。
 




