ラナの悩みとシレントからの使者
白くて冷たかった。
故郷の記憶はずいぶんと希薄になっているけれど、最初に浮かんだ思い出はそれである。
ユニス法国に比べてももっと北にあった村は、一年の大半が雪にうずもれていた。
厳冬の冬には暖房のない部屋で眠るのは死と同義で、だからいつも家族が暖炉兼オーブンの上に重なるように寝ていたものである。
家族といっても母――十年近く前に亡くなったその人は、ラナにとってもほんのわずかな面影と、伝聞でしか知らない人だけれど、優しくて線の細い人だった気がする――と、五年前に亡くなった猟師の祖父。そして姉の四人暮らしで、貧しくて慎ましかったけれど、それなりに幸せな家庭だったと思う。
けれど母が病気で亡くなり、祖父が天寿を全うし、いまだ幼いラナと姉のふたり暮らしになってからの暮らしは辛かった。文字通り爪に火を点すようにして少ない燃料で一冬を越し、わずかに残った遺産を切り売りして当座をしのいでいたものの、それもあっという間に行き詰り、物乞いのようにして雪降る中近所の家を渡り歩く毎日――。
ただでさえ貧しい村は身寄りのない子供を庇護し、育てるだけの余裕などあろうはずもなく、大人たちにいいように言いくるめられて、ふたり揃って奴隷商に売られた……とわかったのは、首に奴隷帯を嵌められた後だった。
「泣かないで、いつか必ず迎えに行くから」
別々に売られる日、姉は涙をこらえて泣きじゃくる自分に向かってそう言ってくれた。薄紅色がかった金髪に夏の草のように緑色の瞳をした、自慢のとても綺麗で優しかった姉。いつかこんな風になりたいと憧れたひと。けれど、もうその姿かたちを鮮明に思い出すことはできない。
〈聖王女〉ジュリア・フォルトゥーナ・クレールヒェン・那輝こと、ジルのことは出会った時から鮮烈に覚えているし、いまもよく知っている。
光に透けて見える宝石みたいな薔薇色がかった長い金髪に、エメラルドグリーンの瞳をした、半ば世俗を超越した幻想的な美貌のお姫様。
暗闇に閉ざされた人生を、明るい太陽のような眩しくて温かな愛の手で救ってくれた、もうひとりの姉のようなひと。
いつも柔らかく笑っていて、どんな無理難題も軽々と解決してしまう、完全無欠の存在……という風にしかラナには思えなかった。
あんな風になりたいと夢見ながら、絶対になれないこともまた当然のようにわかってしまう、近くにありながらずっと遠くて素敵な背中……。
思い出すのは、寂しい夜にこっそりと寝室へ呼んでくれて、優しく寝台で抱きしめてくれ、かつて姉がそうしてくれたように、微睡がくるまで色々な話をしてくれた懐かしい温もり。
美味しい食事に清潔な服、なに不自由ない暮らしに気の合った仲間。そして姉のような大事なひと。こんな日がいつまでも続けばいいと願ってしまったのが悪いのだろうか? いつか思い出が色褪せて、姉のことを思い出すのもまばらになった罪だろうか。
いまになって姉の行方がわかるかも知れない。
生きているのか死んでいるのかもわからないけれど、決して平たんな道ではなかったであろう、姉のその後の人生がつまびらかになる。いつしか目を背けていた事実を突きつけられる。
(そうなったら、私は……)
いまが幸福であるからこそ、そのことに言い知れぬ恐怖と自責の念を抱くラナであった。
◇ ◆ ◇
さて、「オーランシュへ行きますわよ!」と、気焔をあげたのはいいですが、「そういうことで、ちょっと出かけてきます」と、簡単に《聖天使城》を留守にできるわけもなく、書類仕事の合間に賢人会などと協議を重ねつつも遅々として話は進まず、本気で出奔しようかとコッペリアやシャトンと脱出計画を練っていた矢先――思いがけないお客様が私に会いにシレントからやって来て、結果的にドミノ倒しのようにあれよあれよという間に事態が推移したのでした。
「〈聖女〉様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」
しゃちほこばった挨拶が不自然にも慇懃無礼にもならないのは、生まれ持った気品と私など及びもつかない場数を踏んでいるからでしょう。シレント央国第三王女にして、私の友人であるリーゼロッテ・セヴェーラ・グリゼルダが、礼儀作法のお手本にしたいような優雅な動作で一礼をしました。
「遠路はるばるよくいらっしゃいました、リーゼロッテ王女。一別以来ですが、こうして再会できたことを心より嬉しく思います」
私も儀礼にのっとって挨拶を交わして、ソファに座るように勧めます。
ソファセットに私とリーゼロッテ王女、そしてオブザーバーとしてリーゼロッテ王女の強い希望もあり、ルークが揃って腰を下ろしたところで、コッペリアが音もなく各自の前へ紅茶を配膳して――立場的にモニカが行うべきなのでしょうが、手際とソツのなさを勘案した人選です――その芳香を満喫して、気分がほぐれたところで、私は口調をいつもの〝お友達モード〟へ改めてリーゼロッテ王女へ話しかけました。
「それにしても急なご訪問でしたわね。学園の新学期も始まっていますでしょうに……」
どうでもいいですが、このままだと私は最終学歴が『リビティウム皇立学園中退』という、不名誉極まりない経歴が残されるのでしょうか?
「学業に専念したいのは山々であるが、問題が山積みで学生の方は開店休業となっているのが、なんとももどかしいところである」
紅茶を口にしながら、疲れたため息をつかれるリーゼロッテ王女。
「それはこの時期に、突然の訪問をされた理由というわけですか?」
ルークの問いかけ……というよりも確認に、躊躇うことなく頷かれました。
「左様。〝焦眉の急〟という事態であるな」
それからどこか値踏みするような目で私とルークとを交互に見据え、珍しく奥歯に衣を着せるような口調で話を切り出しました。
「おふたりはオーランシュ王国について……その、どの程度精通しておられるかな?」
反射的に視線を交わす私とルーク。
ルークにも先日のシャトンからの情報は伝えてあり、ルークの方でも帝国からのルートで情報の収集と裏付けをお願いしていたところでしたので、タイムリーと言えばタイムリーですけれど、ここにきてリーゼロッテ王女が『焦眉の急』とまで形容して、わざわざシレント央国からユニス法国まで単身(無論、百人規模の随員は同伴していますが)で来られた理由がそれであるとするなら、事態は私たちが思っているよりも深刻で急展開を迎えたのかも知れませんから。
「……まあ一般的な知識程度は。それとエウフェーミア姫とは、個人的な友誼を交わしていますけれど?」
他の異母兄弟姉妹や奥方たちとは、ほとんど会ったことも会話を交わしたこともなかったはずです。一方的に嫌味や罵詈雑言を浴びせられたり、廊下を歩いていて足を引っかけられたり、二階からバケツの水をぶちまけられたり……といった行為を、会話や交流というのでしたら別ですが。
「僕は一時期シルティアーナ姫との縁談の話がありましたので、ご当主であるオーランシュ辺境伯とシルティアーナ姫とは、何度か顔合わせをしたことはありますが……もう、何年も前の話です」
とりあえず当たり障りのない答えを返した私とルークから目を逸らせ、言葉を選ぶきっかけを探すかのように視線を彷徨わせるリーゼロッテ王女。
「…………」
「わふ?」
「…………」
その視線が出窓のところに置いてある素朴な植木鉢。その中の土に、お風呂に入るようにして半分埋まりながら、気持ちよさげに光合成かたがたくつろいでいる大根と、物珍し気に傍らに座って尻尾を振り振り観察しているフィーアとが並んでいる光景に目を留められ、一瞬だけ不可解な表情を浮かべたものの、再び私の顔を眺めて――何か悩んでいたのがバカバカしいと言いたげな表情で――妙に肩の力が抜けた微苦笑を浮かべたかと思うと、あっさりと要件を切り出されました。
「民衆には緘口令を敷いているものの、実は先日、オーランシュで政変があったのだが……」
「まあ――⁉」
「……初耳ですね」
寝耳に水の話に思わず目を丸くする私と身を乗り出すルークの反応を確かめて、なぜか安堵の表情を浮かべるリーゼロッテ王女。
先ほどから妙にもどかしいというか、よそよそしい態度に、
「珍しいですわね。リーゼロッテ様が言葉に悩まれるなんて」
軽く瞬きをして、思わず素直な感想を口に出していました。
「言葉に悩むというか、妾の一存でどこまで話して何を聞けばいいのか、判断に悩む……といったところであるな」
つまり個人的な友誼と公人として政治的判断が難しい問題ということでしょう。何事につけても大雑把――いえ、寛容と言われる私と違って、常に生き馬の目を抜く宮廷政治の最前線で、物心ついた時から修羅場を潜り抜けてきたリーゼロッテ王女は、そのあたりの分別と駆け引きを習い性にしているのでしょうが、今回はそれに友人としての信頼と礼儀が加わって、線引きが難しい……といったところでしょう。
そうとなれば無理強いをするわけにもいかず、私とルークはあえて口を噤んで紅茶を口に運びました。
しばしの空白を置いて、リーゼロッテ王女が世間話のように話し始めます。
「現在、病気療養を名目に姿をくらませているコルラード・シモン・ボナヴェントゥーラ・オーランシュ辺境伯には、世継ぎと見なされる六人の男子がおられる」
いずれも私の異母兄ですわね。確か第一夫人であるシモネッタ妃が一男二女をもうけられ。第二夫人のエロイーズ妃が二男三女。第三夫人であるパッツィー妃が男子ばかり三人をもうけられたはずですわ(私の母であるイライザさんは娘ひとりで、なおかつすでに鬼籍に入っているので除外されますが)。
「彼らについては評価が分かれるところではあるが、妾が見たところ長男のドナート・ジーノ殿は賢人なれど、それが逆に枷となって浮世になじめずにいる」
「つまりは何の役にも立たない痛いズッコケ詩人ってことですね」
紅茶のお代わりを給仕しながらコッペリアが、さらりと意訳しましたけれど、リーゼロッテ王女当人が反論しないところをみると図星なのでしょうね。
「次男――妾とは又従兄妹にあたるトンマーゾ・アッボンディオ殿――は、優男で社交的では盛んに浮名を流している」
「節操なしの色狂いの色ボケ」
「正妻であるシモネッタ殿の息子である三男のジェラルド殿は、素直で善良な性質ではあるのだが、少々度が過ぎておる」
「ははぁ、親や周りの言うことに逆らえないウスラトンカチですか」
「トンマーゾ殿と同腹である四男カルリト殿は、頭脳明晰なれど社交性と人間関係の構築に難があり」
「ああ、自分が頭いいと思って、他人を見下すバカの典型ですね」
「五男のウンベルト殿は武勇に優れた勇者と謳われているが、力を誇示する傾向が強く忌避されている」
「察するところ、何事も腕力で解決しようとする蛮族の筋肉ゴリラですかね?」
「そして六男のルーペルト殿は……基本的に兄であるウンベルト殿の腰巾着ときた」
これにはコッペリアも適当な口を挟むこともできなかったようで――あえて言い換えるなら「世渡り上手」ですが、そうなると逆に好意的解釈に過ぎます――無言で下がりました。
「……えーと、つまり、いずれも問題のある兄弟たちが、オーランシュの跡目を狙って相争っているわけですか?」
ずいぶんと救われない話ですけど(主にオーランシュの民が)。
私の確認に頷かれるリーゼロッテ王女。
「うむ。そして先日、オーランシュ辺境伯領の領都クルトゥーラでジェラルド殿が、一方的に次期国王を宣言したわけなのだが――」
「「えっ、それはまた……」」
思わず重なる私とルークの驚きの声。
「おそらくは正妻であるシモネッタ殿の采配であろうな。当然、不服とした他の兄弟――より正確には側妃であるエロイーズ殿とパッツィー殿はこれに強く反発し、央都に滞在中のエロイーズ殿はともかく、パッツィー殿は実家であるビートン伯爵領の力を借りて、軍事的圧力をかけようとしたところ、あっという間に衝突が起きて、ビートン伯爵軍がほぼ壊滅する結果となった」
「壊滅ですか⁉ ビートン伯爵軍といえば車懸かりの戦術を得意とする強兵として、帝国にも音に聞こえるほどですが」
よほど予想外だったのか、声を荒げるルーク。
そんなルークを意味ありげに眺めて、リーゼロッテ王女がため息混じりに付け加えられました。
「動員されたのはジェラルド殿の私兵と、一部の同調者だけであったので、本来ならばあり得ない結果なのであるが……帝国兵七千余りが動員された、となれば話は変わるであろう?」
「はあああああああああああああ!?! そんな馬鹿な! そんな話、僕は聞いていませんよっ!」
愕然とした表情で取り乱すルーク。
しかしリーゼロッテ王女は予想していたのか、泰然たる態度で肩をすくめて反論します。
「事実である。実際、六騎もの飛竜と竜騎士が確認されている。リビティウム皇国には飛竜も竜騎士も存在しないのは、ルーカス殿下もご存じのことかと思われるが?」
「…………」
黙り込んだルークの顔から血の気が引いていました。
と、続いてリーゼロッテ王女の追及の手は私へと向けられたのです。
「そして未確認情報であるが、ジェラルド殿の伏兵が【闇の森】を越えて現れたとの報告がある。ジル殿、これはいかような仕儀でありましょうか?」
「へっ――?!?」
思いがけない話に、私は危うく手にした紅茶のカップを取り落としそうになりました。
ちょっと体調を崩したので、中途半端なところで終わっています。
申し訳ございません。




