フェンリルの覚醒と封鎖世界の崩壊
『精霊の道』を通って三十分ほど。
本来であればS級の魔物でも容易に近づけない、【闇の森】の中央部にわだかまる巨大な白い蓋のような『喪神の負の遺産』を前にして、稀人侯爵を筆頭とした一同は足踏みをしていた。
「――なんだ、これは?!」
夜明け間際の払暁の時刻。薄明を浴びて浮かび上がった白魔のドーム。だが見飽きるほど見慣れたそれが、かつて見たこともない姿に変貌しているのを目の当たりにして、半精霊のアンナリーナを肩に乗せた稀人侯爵が驚愕の声を放った。
「相変わらずけったくそ悪い壁だね。なおさら見苦しくなっているじゃないかい」
マーヤに跨ったままのレジーナが盛大に顔をしかめて吐き捨てる。
「ぐーるぐる、ぐ~るぐるぐる♪」
そう歌うように目前の光景を少ない語彙で表現するアンナリーナ。
実際、そう言い表すのが適当としか言えない姿に『喪神の負の遺産』は変貌していた。
本来であれば真っ白な霧がお椀の蓋のような形でこの場にあって、どこまでも均一なドームの表面が視界の隅々まで広がっているはずであった。だがいまはそれが不規則に波打ち、さらにはゴッホの絵のように無数のカルマン渦を巻いて蠢いている。
「バカな……百五十年観察していたが、こんな異常事態は初めてだ。可及的速やかに超帝国本国へ報告しなければ――!」
「落ち着かれよ、侯爵殿。偉大にして聡明なる姫様と円卓の魔将殿らが、この大事を見逃すわけがない。しかして静観を選んでいるということはとりもなおさず、そこに我々にはあずかり知れぬ深慮遠謀があるはず。もしくは侯爵殿で十分に対処可能と判断しているのであろう。ゆえに古来より〝一片の氷心玉壷に在り”と申すように、周囲が浮足立っている時こそ、将たるもの率先して意気自如、春風駘蕩たる姿勢を示すべきではござらぬか?」
動揺する稀人侯爵を精神論で諫めるバルトロメイ。
なお、ルーク、セラヴィ、エレンの三人は目の前にそびえる山脈のような『喪神の負の遺産』の圧倒的なスケールを前に絶句して、取り乱すよりも先に茫然自失となっているだけであった(そもそも普段との違いがわからないので、異常事態だという認識がない)。
「……しかし、ただここで手をこまねいて眺めているだけでは話になるまい。せめて多少なりとも内部の状態を確認できれば――」
ちらりと視線を向けられたアンナリーナは、足をバタバタとさせて一言――。
「ム~~リ~~。フツーだったら、ちょっとガンバレば奥まで行けるけど、いま入ったらぐちゃぐちゃになるよー」
半分は精霊――それも『喪神の負の遺産』内部で生まれた――であるアンナリーナは、唯一『喪神の負の遺産』内部と外部を行き来できる存在である。もっとも自由自在とはいかず、荒い海の中を素潜りで進むような労力と制限が存在するようで、よほど凪いだ状態の時でもなければ進んで行きたいものではないらしい。
時化どころか見るからに超大型台風でも襲来しているようなこの状況で突入するなど、自殺行為も同然ということになるだろう。
「……打つ手なしか……」
断腸の思いで稀人侯爵がそう絞り出すと、その言葉で我に返ったらしいセラヴィ、エレンが色めき立って詰め寄る。
「どういうことだ、ジルの安否確認もできないということか!?」
「ここで指をくわえて見てるだけ!? それじゃあ、あたしたち何のために来たかわからないじゃないの!」
「心慌意乱であるな。しかしながらこの場で無駄な議論に時間を費やすよりも、勇往邁進してこそ、浮かぶ瀬もあるのではないかな? かの男子のように」
そうバルトロメイが指し示す先では――。
「――この中にジルが閉じ込められているのですね?」
ルークは座して待つ時間など寸毫も惜しいとばかり、『喪神の負の遺産』を前にして、伝家の宝刀・聖剣メルギトゥルを構えていた。
帝族であり、レジーナの子孫でもあるルークの潜在魔力量は並みの魔術師を大きく凌駕する(少なくともセラヴィの数倍はある)。特段魔術の訓練を積んでいなかったため、いままではそれを効率的に行使することができなかったが、このジルから譲り受けた(ルークはあくまで借りているつもりだが)聖剣によって、その魔力を効果的に放出する蛇口を得たルークは、己の全魔力と精神力を上乗せして、光り輝く魔力の刃をかつてないほどの威力で解き放った。
上段に構えた光の刃が茜色に染まる上空の雲を切り裂く。
「ほう、やるものであるな」
「これはなかなか……竜種でもまとめて一刀両断できそうだな」
「ふん! 色ボケの火事場の馬鹿力だね。けど、まだまだ収束が甘い。未熟もいいとこさ」
下手をすれば成層圏まで到達しているかもしれない聖剣メルギトゥルの刃を前にして、感心するバルトロメイと稀人侯爵。対照的に苦虫を噛み潰したような顔でダメ出しをしたのは身内のレジーナである。
祈るような気持ちでエレンがルークの背中を見詰め、セラヴィが品定めでもするような目つきで『喪神の負の遺産』と見比べる前で、
「――でやーーーーっ!!!」
渾身の気合とともにルークが聖剣メルギトゥルの刃を『喪神の負の遺産』目掛けて一文字に斬り落とした。
一瞬だけ波打つドーム表面がたわみ、刹那、肉食魚がひしめく川面に肉の一切れを放り込んだかのように、莫大な――かと思われた――聖剣メルギトゥルの光刃があっさりと飲み込まれる。
「……くっ……」
心身ともに消耗してがっくりと膝を落とすルーク。
「ルーカス公子様!」
「山火事に松明で対抗しようとしたようなもんだ。総合的なエネルギー量が比較にならないな」
血相を変えてルークに駆け寄るエレンと、鼻白んだ表情でそう結果を評するセラヴィ。
「なんの。〝愚公山を移す”と申して、いかに無駄に見えようとも、努力の積み重ねで人は山をも崩すことができるのである。努力を嘲笑うことなどゆめゆめあってはならぬ」
そんなセラヴィをバルトロメイが窘めるのだった。
『どうしたものか……』
バルトロメイの長口上を聞き流しながら、ほぼ全員が途方に暮れたその瞬間――、
「うおぉんっっっ(マスター)!!!」
エレンに抱えられたまま、ぐったりしていたフィーアが、突如として悲痛な咆哮を放った。
「「「――ジルッ?!?」」」
その切迫した響きから、その場にいた全員の胸に途轍もない不安が閃光のように奔り、ルーク、セラヴィ、エレンが同時に口走る。
「みゃおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
それを肯定するかのようにレジーナの使い魔である〈黒暴猫〉マーヤが全身の毛を逆立て、『喪神の負の遺産』へと遠吠えを放った。
「――ちぃ、いまバカ弟子が死にかけている。魔術経路を通じて駄犬が感知したようだね」
マーヤの叫びを通訳したレジーナが焦りにも似た表情で、渦巻く『喪神の負の遺産』を見据える。
「「「「っっっ!?!」」」」
「待て待て、短慮軽率な行動は事態を悪化させるだけであるぞっ!」
ルーク、セラヴィ、エレン、そして稀人侯爵が顔色を変え、無策で『喪神の負の遺産』へ飛び込もうと走りかけた機先を制する形で、鉄板のような巨大な斧槍の刃が、その進行方向上を塞ぐ形で地面に突き刺さった。
と、物理的にも足止めされたエレンの腕の中からフィーアが飛び出し、『喪神の負の遺産』に向かって走り出す。
「あっ、待ってフィーアちゃん!?」
エレンの制止も振り切って疾走しながら仔犬大だったフィーアが牡牛大の〈天狼〉と化し、さらには家ほどもある〈神滅狼〉へと姿を変える。
「ウォオオオオオオオオンンンッッ!!!!」
そのまま躊躇いなく『喪神の負の遺産』へと頭から突き進むフィーア。
途端、白い渦がフィーアの体を吸収・分解しようと紫電を放ちながら覆いかぶさる。それに対して、限界まで大きく開かれたフィーアの口顎に轟々と音を立てて白い霧が流れ込み始めた。
本来ならば『喪神の負の遺産』を形成する、この一見してただの霧のように見える【場】であるが、その実態は途轍もない超高密度エネルギーの集合体であり、ボソン(ボース粒子)、フェルミオン(フェルミ粒子)などの素粒子としての形態を持ちながら、同時に観測上質量(実体)を持たない幽霊のような存在でもある(そのため惑星の運行や気象に影響を与えない)。
ある意味、この世界にありながら別な小世界を形成している、これに干渉するのはほぼ不可能な【場】に対して、『神を喰らう者』『天を喰らう者』との異名を持つ〈神滅狼〉が喰らいついたのだ。
さしもの『喪神の負の遺産』も抗い切れずにフィーアの体内に取り込まれる。だが、それも全体のエネルギー量に比較すれば微々たる欠損でしかなかった。即座に圧倒的なエネルギー量でフィーアに襲い掛かる。
「グルルルルッ!!!」
その瞬間、首輪――三重の安全装置が仕掛けられた封印具であり、かの〈黄金龍王〉ですら、第二の封印までしか解けないとされる――の第一の封印が霊的に弾け飛び、フィーアの全身が黄金色に輝いた。
惑星すら呑み込む勢いで、負けじとフィーアが『喪神の負の遺産』を貪り喰らう。
だが、それでも一個の宇宙にも匹敵するエネルギー量を内包した『喪神の負の遺産』には遥かに及ばない。
フィーアの息が上がり、全身が砕けそうな激痛が走る。
飽和するエネルギー量に対して吸収がまったく追いつかない。
同時に、微かに繋がったままの魔術経路を通じて、ジルの命がさらさらと風に吹かれる砂のようにこぼれ落ちていく様子が、手に取るように感じられて、再度フィーアは気力を振り絞って雄叫びを放った。
刹那、第二の封印が解き放たれ、フィーアの三対六翼が一回り大きく神々しく広がる。
「ルォルルルルルッ(マスター……)!」
太陽ごと島宇宙すら呑み込む力を得たフィーアと『喪神の負の遺産』とのせめぎ合い。
フィーアの視界が限界を超えた激痛と喪失の痛みに震え霞む。
「ガールルル、ガルーッ(フィーアはマスターのことが大好きなの)」
生まれて初めて目にしたのはジルの笑顔だった。
ぎゅっと抱きしめられて嬉しかった。
「ウォオオオオオ~~~ン(マスターは世界の誰よりも優しくて温かだから)!」
一時的な均衡を保っていたフィーアの吸収と『喪神の負の遺産』だが、ならばとばかり莫大なエネルギーを圧縮化させ、物質化させ結晶に似た姿と化してフィーアに襲い掛かる。
噛み砕き咀嚼するフィーアだが、結果、吸収が追いつかなくなり、押し寄せる結晶によって全身に傷を負う。
「ウオォオオオオオオオーン! ルオおオオオオオーーーーッッッ(フィーアが我儘を言っても、悪戯をしてもマスターは笑って許してくれたこと、フィーアは忘れない)!!」
ぐらりと大きく体勢を崩すフィーア。それでもギリギリのところで倒れずにその場に踏ん張り、結晶をなぎ倒す。
「……ガル……ガルルルルル……ウォ~~~~ン(マスターが突然いなくなって寂しくて死んじゃいそうになったけど、きっと帰ってきてくれると信じていたから、フィーアは待っていられたんだよ)!」
突然、ジルが消えて戸惑いと哀しみから自分の殻に閉じこもるように眠り続けた一年間を思い出した。
そしてかつてのように温かな魔力を感じて涙が出るほど嬉しかったことを。
使い魔は仕えるべき主人が居なくなったら、新しい主人を探すか自然に帰るかが普通だと、マーヤは言ったがそんなことはできないとフィーアは思った。
『あなたの名前は〝フィーア”。私とレジーナ、マーヤの四番目の家族よ』
その言葉通りジルはいつでも傍にいて、大切にしてくれた。さながら姉のように、母のように。そんな自分にとっても何よりも大切な家族!
マスターはこの世でたったひとりであり、その存在がすべてなのだと悟ったのだ。
「ウオーーン(マスター! マスターっ!! マスターーーッッッ)!!!」
どんどんと希薄になってくるジルの命と自分の存在。
圧倒的なエネルギー量で押しつぶそうとする『喪神の負の遺産』に閉じ込められながら、歪む視界の中でフィーアは涙を流した。
「ルオォーーーン(どうかフィーアを置いていなくならないで)!」
消し飛ばされそうになりながらも、ただただそれだけを想ってフィーアは最後の咆哮を放った。
「ルルルル……ウォ~~ン(ずっといつまでもフィーアと一緒にいて! フィーアを傍にいさせて)!!」
ジルの意識が泡のように消えようとする寸前。
「オオ~~~ン(マスターッ)!!!」
フィーアの全身全霊の祈りが【闇の森】全体に木霊し、その瞬間、決して解けるはずのなかった第三の封印が弾け、目もくらむような白金色に輝いたフィーアは、事もなげに『喪神の負の遺産』を――すなわちひとつの宇宙。ひとつの『世界』を――呑み込んだのだった。
本来、フィーアの前身である〈神滅狼〉は蒼神が対真紅帝国用に準備した、単体で真紅帝国の万を超えるSS級、US級魔物を超越した最終兵器でした(未完成で未熟な状況で投入されたため斃されましたが)。
それを卵の状態から制限付きで再生してみたのがフィーアで、せいぜい天狼の状態(未進化)でとどまるはずが、ジルとの相性が良すぎて〈神滅狼〉と化し、さらには試験的な従魔なので、本家のディグレード版かモンキーモデルかと思っていたら、まったく能力的に遜色がなくて、現在真紅帝国では慌てふためいている状態だったりします。
 




