レジーナの覚醒と援軍の出立
「我は女媧。人の持つ業より生まれた者」
女媧と名乗った蛇女が、エリカさんの声(微妙に複数の声が重なっているかのようなビブラートで聞こえますが)で、名乗りを上げました。
メデューサかと思ったのですが、ちょっと違うみたいですわね。魔物というよりも土着の神と同等の莫大な魔力を内包されているのが見て取れます。
ついでに念入りに魔力探知を行いましたけれど、残念ながらエリカさん本人の魔力波動は完全に飲み込まれて消滅、もしくは同化してしまったようです。
「すなわち憎悪、嫉妬、傲慢、憤怒、侮蔑、狡猾、残忍、淫蕩、怠惰、姑息、背信、強欲、不実、享楽、不義、横暴、不安、焦燥、恐怖、後悔、不信、無念、嫌悪、殺意、邪推、劣等感、懊悩、煩悶、諦観、空虚、失望、羨望、悲観、苦悶、理不尽、疑念、裏切、虚飾、忘恩、敗北、落胆、敵意、孤独、拒絶、悲痛、執念、偏見、そして絶望が我を生んだ」
おどろおどろしい口調で言い放つ女媧。
「……どうでもいいですけど、フィーアの気配はありませんね。魔術経路は繋がったままですので、もしかして最初から場所を間違えていたんでしょうか?」
社稷壇のあった跡。《闇の澱》が抜け出して、すっかり空っぽになった竪穴があるだけの地下を見下ろし、そう私が小首を傾げて真直の関心を口に出したところ、
「聞いているのか、貴様っ!!」
なんか激昂した女媧に怒鳴られました。
「――ええ、聞いていますわよ。ありきたりな恨み言ですわね」
嫌ですわね構ってちゃんは。あと私的には真面目に聞いているつもりなのですが、なぜか往々にして『さっきから聞き流しているんじゃない!』とか『ちゃんと聞いているの!?』とか不本意な評価を得ることが多いのですよね(師匠とかエステルとかから)。
「私って同時に複数の思考を並列して励起できますので、こっちはこっちで真剣に聞いているのですけど……」
体は一つしかないので一番心配なフィーアの行方を探っていただけで。
「あんたって、見た目がボケーーっとしてみえるから、もうちょっとシャキーンとできないものかしら」
げんなりしたオリアーナ皇女様の皮肉に、いちおう反論しておきます。
「だって要約すると『世の中が悪い。人間の悪意が原因だ』と、外部に責任転嫁しているだけですわよ? それは悪い人間もいますし悲惨な境遇には同情しますけど、だからといって加害者側に回って、当然の権利みたいな開き直りをするのはいかがなものでしょうか。それは単なる八つ当たりですわ」
そもそも完全な悪人も完全な善人も等しく存在しませんもの。どんな人間もただただ生きるのに必死なだけで、草木禽獣同様に善とか悪とか意識する余地などないのが普通でしょう。
「それでもふとした瞬間に善と悪とを意識して、恣意的に行動に移すことができる。それが人の美しさと醜さだと私は思います。――まあ、異論もあるでしょうが、いろいろ違いがあるから人間なのでしょう」
私の素直な心情の吐露に、オリアーナ皇女様が鼻で嗤いながら同意しました。
「まあね。世の中善人ばかりだったら、さぞかし息苦しくて鬱陶しいでしょうね」
「ふざけるな! そんなおためごかしの奇麗ごとで我の無念が晴れるかーーーっっっ!!!」
怒りの形相も凄まじく、女媧が大きく広げた口から黒焔を発しました。
「〝水流よ凄烈なる流れもてすべてを阻め”――〝水障壁」
「〝光輪よいと眩しき輝きにて闇を駆逐し光に照らせ”――〝光障壁”」
「〝魔素よ壁となりて我が身を護り給え”――無属性魔術〝障壁”」
すかさず多重詠唱で、属性の違う防御魔術を三重に張り巡らせましたが、ほとんど抵抗らしい抵抗もできずに貫通されたのを、ギリギリのところで跳び退って身を躱すことに成功しました。
同時に――。
「〝炎の種子よ、飛磯となり疾く爆ぜよ”――〝火弾”」
温存していた火+水の複合魔術『火弾』を、雨あられと女媧の全身に放ちますが、女媧が鬱陶しげにとぐろを開放して、勢いよく身を震わせると、『火弾』が線香花火のように弾け飛び、ついでに女媧の巨体が鞭のようにうねった拍子に、周囲の樹や草花、宮殿の一部が玩具のようにバラバラになって宙を舞います。
期せずして煙幕を張ったような状態になったこの瞬間を逃さず、私はポケットから神剛鉄製の虹貨を一枚取り出して構えました。
「“万物よ。疾風を超え、雷光を超え、天の階へと至れ”―—“神威”」
本日二回目となる『神威』。それも金剛鉄を超える強度の神剛鉄による亜光速弾を放った瞬間、その反動で私自身の体が爆発したかのように空中に投げ出され、もんどりうって五十メルトは離れた地面に叩きつけられたのです。
「……さ、さすがに、短時間での連射は無理のようですわね……」
体が雑巾のように絞られたような痛みに咳き込みながら――あら、吐血か喀血かわかりませんけど口から血が出ていますわね――全力で自分に治癒術を施します。
これ、常時『自動治癒』を施術している私じゃなかったら、多分即死していたでしょう。諸刃の剣もいいところですが、さてその結果はといえば……。
「――ふ……んっ」
ガードした尻尾が千切れ、ついでに両手も消し飛んでいた女媧ですが、平然とした表情で欠損部分に目をやると、たちまちのうちに元通りの姿に再生しました。
「コホッ! コホコホッ……やはり、いま使える中級魔術ではこの程度が限界ですわね。虹貨一枚を無駄にして大赤字もいいところですわ」
口に溜まった血だまりを捨て、どうにか完治した体を起こして再度女媧と対峙する私ですが、見た目は同じく無傷でもこの調子で削り合いをすれば、どう考えても私のほうが先に限界が来るでしょう。
「大技は使えませんし、困りましたわね……。え~と、お互いに無益な戦いはやめて、話し合いで解決しませんか?」
ここは平和的な解決を提案してみたのですが、
「なめているのか、貴様あああああああああああっ!!!」
余計に激怒させる結果になってしまいました。
むう……『言葉は通じるけれど、会話はできない』の典型ですわね。
どうしたものかしらと途方に暮れる私を、この瞬間オリアーナ皇女様が何かを決心したような、透徹した瞳で見据えていたことに、迂闊ながら一向に気づきませんでした。
◇
「決まりですな。巫女姫とやらはあと三十七手目で女媧の表面をえぐって、内部に直接浄化術を叩き込むつもりですが、その瞬間、女媧はいわば脱皮をして中枢部分を分離し、身軽になったその姿で逆に巫女姫に噛みついて腐毒を流し込みます。結果、見るも無残な姿で腐り落ちるでしょう」
すでに起きた出来事を語るかのように、何の感慨もなくこの後の展開を語るストラウス。
この封都に暮らす住人の集合知にリンクをして、ラプラスの魔じみた高度演算能力による『予言』の断定である。無論、すべての事象をあまねく計算することはできないが、それでもおよそ九十九%の確率で近い未来の事を予測することが可能であった。
「ふふふ、醜く爛れて最期を迎えるというのね? いいわ、いいわよ。さぞかし甘美な断末魔を奏でてくれるでしょう」
それを聞いたアチャコが蠱惑的な笑みを浮かべて舌なめずりをした。
◇
「喰らえ、必殺ジェットカンチョー!!」
ルークを相手にして剣技での圧倒的な次元の違いを見せ、軽くひねっていた稀人侯爵こと、クロード流開祖であるアシル・クロード・アミティアの背後から、コッペリアの非常に下品な技が放たれた。
馬鹿か……? という顔で余裕で躱す稀人侯爵。
「――なんのォ、分離ッ!!!」
ひょいと避けたその先を追って、ロケットパンチが螺旋軌道を描きながら不規則に飛ぶ。
「ほう……っ!」
意表を突かれたという顔で、それでも余裕をもって剣を振るおうとしたところで、立て続けにセラヴィが護符を投擲した。
乱れ飛ぶ『電撃』と、合わせて地面から槍のように突き出る『土槍』が空中に逃れた稀人侯爵を追う。
「ふふん、即興のコンビネーションとしてはまあまあだ。さては似たような窮地を何度となく潜り抜けてきたとみえる。思いつきやその場しのぎではないな」
称賛しながらもまるで体重がないかのように、高速で向かい来る『土槍』の先端を蹴って、
「――奥義『霞吹雪』」
一瞬にして幾人にも分裂した稀人侯爵が、てんでバラバラの動きでロケットパンチを弾き飛ばし、『電撃』を薙ぎ払いで消し飛ばし、『土槍』を切り飛ばした。
まあこんなものか、と微苦笑を口元に浮かべた稀人侯爵に向かって、じっと傍観していたバルトロメイが警告を放った。
「禽困覆車(※「小鳥でさえも、絶体絶命の場面では、車をもひっくり返す」の意)。油断大敵であるぞ、侯爵殿」
一瞬困惑した稀人侯爵の分身たちであったが、その刹那――。
「はあああああああああああああああああッ!!」
ルークが双剣を手に稀人侯爵を上回る数の分身を見せたのだった。
「おおっ!?」
本来、ルークが習い覚えた“クロード流波瀧剣”には存在しない。生まれ持っての瞬発力と努力の結晶であるこの技――知らずに本家の奥義に踏み込んでいた、その修練と確かに後世に伝えられていた己の技を目にして、稀人侯爵の口元に初めて楽し気な笑みが生まれた。
ひとりの分身に対して双剣で二ないし三人で立ち向かうルークの分身。単純計算で四~六倍の手数で圧しているかに見えるが……。
「筋は悪くない。だが動きが単調で直線的だ。はっきり言えば猿真似レベルだな。――よく見て感じろ! 俺の動きを、体捌きを!」
その言葉通り、まさに霞のようにルークの斬撃をすべて躱した稀人侯爵。さらに追撃の一振りがきたのを、咄嗟に右の剣で受けて左手でカウンターを放とうとしたルークだが、その手元で剣先がまるで曲がったかのようにぐにゃりと変化し、したたかに剣の腹で右左の手首を打ち据えられた。
「くうううぅぅぅ……」
「『浪之霞』――本来は手首の腱や血管を切る技だ」
悔し気に地面に落ちた二振りの剣を見下ろしながら、手首を押さえるルーク(当然分身は解けている)を前にして、格の違いを見せた稀人侯爵が、勝ち誇るでもなく当然という口調で淡々と言い聞かせた。
これでさすがに諦めたろう、と稀人侯爵が踵を返したところで、
「――あ」
アンナリーナが目を丸くして何か言いかけ、思わずその視線を追いかけて背後を振り返ったその瞬間――。
ポコン! と音を立ててモップの柄が稀人侯爵の仮面に当たった。
「ふ、ふふん……どーよ!」
ドサクサ紛れにモップを叩きつけたエレンが、小さな胸を張って言い放つ。
「であるから言ったであろう。油断大敵、禽困覆車と」
嘆息をするバルトロメイ。
無論、非力な少女がモップで殴った程度でダメージを与えられるわけもないが、しばし唖然とする稀人侯爵。
まったくのノーマークだった素人同然の少女に、達人が不意を打たれた格好になったわけで、本人としても、
「ははははははははっ、これは文字通り一本取られたな!」
もはや笑うしかない事態であった。
「で、では、ボクたちもジルのところへ――?!」
愛剣を拾って鞘に収めながら、希望を込めてルークが尋ねる。
「仕方ない。約束だからな。とはいえ連れて行けるのは『喪神の負の遺産』までだ。そこから先はどうやったって無理だからな」
稀人侯爵もまた剣を収めて、素っ気なく答える。
「それで十分だ。それに変化があるっていうなら、良いほうに転ぶ可能性も――」
頷いて同意したセラヴィが言い終えるよりも先に、
「やかましいいいいいいいいーーーーっっっ!!! こんな夜中に人ン家の前で、なにドタバタやってるんだい、けっくそ悪いったらありゃしないよ!!」
庵の玄関が吹き飛ぶような勢いで開け放たれ、しわがれているのに異様によく響く割れ鐘のような声とともに、巨大な黒猫――S級魔獣〈黒暴猫〉――を引き連れた、偏屈そうな黒づくめの老婆が現われた。
この庵の主であり、ジルの魔術の師匠であるレジーナである。
途端にその場にいた全員――バルトロメイや稀人侯爵。果ては〈撒かれた者〉たちまで――背筋を伸ばして姿勢を正した。
彼女の眼光と声には、誰であろうと逆らえない気迫があるのである。
「た、太祖様、お久しぶりでございます」
おずおずと血の繋がりがあるルークが、一同を代表して――身内がなんとかしろとの無言の要請に負けたとも言う――挨拶をする。
その声にのしのしと大股で庵の中から出てきたレジーナが、直立不動の姿勢になっているルークの前まで行くと、頭の先から爪先まで念入りに睨め回し、思いがけずに借金取りにでも出会ったようなしかめっ面で、声高らかにがなり立てた。
「どこのモヤシかと思ったらエイルマーの息子かい。久しぶり……そうさね、何年ぶりだろうね。だというのに、あんたは礼儀知らずにもあたしに挨拶もしないで、どっか行こうとしてたんだからねえ!!」
「そ、そんなことは! 太祖様は瞑想中だとのことで……」
必死に言い訳しようとするルークをギロリと睨みつけるレジーナ。それだけで雷に打たれたかのように口をつぐんで石になるルーク。
「――フン! どいつもこいつも出来損ないばかりさね。まったく金輪際あたしの手を煩わせるんじゃないよ!」
盛大に鼻を鳴らしながら、ルークの前を通り過ぎて稀人侯爵のもとへと一直線に向かうレジーナ。
「オリア……レジーナ様?」
困惑する稀人侯爵を、手にした長杖で叩きそうな勢いで言い放った。
「なにボケっとしてるんだい! さっさと『喪神の負の遺産』まで道を開きな!」
「「「「「「……はァ!?」」」」」」
素っ頓狂な声を張り上げる一同(ルーク、セラヴィ、コッペリア、エレン、稀人侯爵、バルトロメイ)を見回して、もどかし気に吐き捨てるレジーナ。
「どいつもこいつも混ぜ棒にも劣る木偶の坊だね! 急がないとバカ弟子が手遅れになるってのにっ!」
いささか投げやりながらも、悪態の裏に切迫した雰囲気を感じ取った一同が息を呑んだ。




