神子との拝謁と籠鳥の巫女姫
私たちの背後で牌楼の門が重々しい軋みをあげて閉ざされました。
そこからが大和殿の敷地――内裏といったところでしょう。さすがにここは他と違って四方は高い白壁に囲まれ、なんらかの魔術手段がとられているのか、完全に外界と遮断されているのか、外の騒音はおろか空気の対流まで隔てられ、心なしか空の蒼さ(まあ、この世界の空が本物かどうかは不明ですが)まで、ギラギラと眩しい色に変わったような気がします。
《神域》――隔離された世界のさらに隔離された場所。卵の中の卵。
ふと、そんな想像が頭の中をよぎりました。
ともかくも、まるで水中にいるかのような、凄まじいまでの濃度でありながら静謐さを保った魔素と精霊力に満ちた場所です。
確かに『神の御子』が御座すと言われるだけの畏怖と荘厳さを感じさせます。
ただしその静寂は神聖なものというよりも、私には虎視眈々と獲物を狙う、極限まで息を潜めて気配を断っている肉食獣のそれのように、どうにも落ち着かないうなじのあたりがチリチリする気配……のように感じましたが。
フィーアも同じように、ピリピリと全身の毛を逆立てて、私以外の全方位に警戒の唸りをあげています。
さて、私の――というか聖女スノウ様の――知識によれば、中華風の宮殿だと敷地は細長くなるものですが、足を踏み入れたここは微妙に和風というか、日本人が考えた中華風建築……といった感じで、庭は横に長い長方形で中央に川の流れを模したような(これも中華風なら一直線なのですが)、不規則な曲線を描く白大理石の通路があり、道の左右には、相変わらず季節や分布を無視した花々が無数に咲き乱れています。
そんな前庭を通り過ぎ、四方を武装した宮殿騎士に半ば引き立てられるようにして、大門を通って、さらに幾つもの門を越えて歩かされる私とフィーア。
どうでもいいですが、これいつまで歩かされるのでしょう? 牌楼を通ってから、かれこれ五百メルトは歩いたと思うのですが、どうにも気づまりな雰囲気とずっと誰かに観察されているような――特に門を通るたびに強く感じます。ついでに言うと、門を通るたびにまるで入国管理で金属探知機を潜り抜けたり、研究所で滅菌処理されたりするような、執拗な処理を受けているような微かな違和感も――視線にげんなりする私。
「お疲れでしょうが、もうすぐですよ」
そんな私の気分を斟酌してくれてか、カーサス卿が口を開いて、目の前に聳え立つ、大和殿の最奥、ひときわ巨大な建物を指さしました。
「こちらは我らが《神子》様が居られる『双神高楼』です」
ピリピリとした雰囲気で一言も口を開かない宮殿騎士たちと違って、ひとりだけ礼を失わないカーサス卿が、あくまで貴人に対する態度で、私にそう説明をしてくださりました。
この場にエリカ嬢がいれば、またなにか言われそうですが、幸いにして〈堕天使〉の襲撃を受けた女官たちは、大事を取って別の場所で治療と安静を与えるということでこの場にはいません。
藍と金とで飾られた宮殿を見上げれば、『双神高楼』と彫られた大看板と、左右に白い鳳凰(?)と青い翼の生えた龍(?)のレリーフが並んでいました。
「――?」
この地で信仰されている神獣の類でしょうか。気のせいか、どちらもどこかで見たことがあるような気がします。
どこだったかしら……? そう思った矢先、足を踏み入れた『双神高楼』の内部に待っていたのは、目の覚めるような青い甲冑を纏った騎士たちと、海青居士服を身に着けた道士と女冠たちの列でした。
いったい何十……いえ、何百人いるのでしょう。入口から、回廊の左右にずらりと並び、遥か彼方の階段の上まで続いています。
騎士たちは剣を胸のところで垂直に立てて身動ぎもせず、道士と女冠(つまりは魔術師ですわね)たちは、魔術師の第二の心臓ともいわれる左手を胸に置き、腰を曲げて敬礼していました。
昔だったら狼狽していたかも知れませんが、〈巫女姫〉になってからは、この手の対応にも慣れたので気押されるということはありませんが、ちょっと意外でした。
「――あら、まあ……てっきり招かざる客かと思っていたのですが」
もっと邪険にされるかと思っていたので、見るからに最上級のお出迎えを目にして、偽らざる本音を漏らしてしまいました。
「ははは、そんなわけはありませんよ。久しくなかった客人。それも『ユニス法教会』の《天人》とあらば、最大限の敬意をもって迎えるのも当然です。エリカ――いえ、少々、取り乱した者もいるようですが、それが総意だと思わないでいただければ幸いです」
苦笑したカーサス卿の案内で、しずしずと回廊を進み、階段を上って銀張りの小部屋のようなところに案内されました。
四十歳前後の女冠の案内で、私とカーサス卿(ついでにフィーア)の三人と一匹だけがその小部屋に入ります。
「ここは?」
「神子様のおわします最上階の玉座まで直通で行ける昇降機です。尊き御方のみ使用を許されます」
私の疑問に女冠――確認したところ女冠長だそうです――のかたが説明してくださいました。
「私もこの直通の昇降機に乗ったのは初めてですね」
カーサス卿も微妙に弾んだ声で、一言言い添えます。
『これほど歓待してくれているのですから、悪いようにはなりませんよ』
そう言葉の端々に私をいたわる気遣いが感じられました。
能力だけでなく〈聖騎士〉を名乗るのに相応しい、高潔な人格を持っているのでしょう。
自動的に小部屋の扉が閉じたかと思うと、音もなく昇降機が上がっていきます。
僅かな揺れも音も感じない、気持ち悪いほどのスムーズな動きで、一般人なら動いていることすら気が付かないかも知れません。
私も魔力波動の流動と風の精霊力の圧力で、どうにか感知できたほどです。
「……なるほど、風の空気圧を使って上下に動くのですわね」
「!! ――さすがですこと。こんな一瞬で仕掛けを見破るとは、〝外”の術者というのは、皆さんこれほどの能力を持っていらっしゃるのですか?」
思わずそうつぶやくと、女冠長が心底感心した口調でそう口にしました。
「いえ、魔術と精霊、ついでに治癒の力を併せ持つのは、私の知る限り他にはいないと思います。もっとも私のあくまで狭い世界での話ですが……」
まあ、現実に私ができる以上、案外誰でも訓練すればできるかも知れませんが。
「なるほど。……奥ゆかしい方なのですね、貴女様は」
「エリカとは対極的だな」
淑やかに微笑む女冠長のお世辞に、珍しくカーサス卿が皮肉っぽい口調で愚痴を挟みます。
「あらあら、いけませんわよロベルト様。殿方が本人のいないところで、婚約者の陰口など」
「っ! も、申し訳ございません。配慮に欠けておりました!」
窘める女冠長に慌てて頭を下げるカーサス卿。
「カーサス卿は婚約者のエリカ様とは、古くからのお付き合いなのですか?」
ふと気になって尋ねると、口をひらきかけたカーサス卿よりも先に、女冠長がコロコロと笑いながら説明してくださいました(こういうところは所や身分は変われど、おばちゃんの特徴ですわね)。
「ええ、勿論! お二人は生まれた時から最高の相性であると、聖母様が保証されたペアですから。将来のためにもご一緒になることが祝福されたふたりですのよ」
そう子供の自慢をするように胸を張る女冠長の言葉に、一瞬だけカーサス卿の表情に陰りのようなものが過ぎった気がしました。
むう、貴族や身分ある者の常で結婚相手が決められているのはよくある話ですが、もしかしてカーサス卿のほうはあまり乗り気ではないのでしょうか?
エリカ嬢に関しては、あくまで私の印象ですが、多くの貴族のご令嬢と同じで、カーサス卿というブランドと聖母様の保証という名誉と優越感を欲しているのであって、ロベルト・カーサス様個人を本当に見ているのかしら? という疑問が残ります。
そうこうしているうちに昇降機は最上階へと到着し、再び開いた扉の向こうには、多彩な刺繍が施された青い絨毯が広がっていました。
「さ、こちらへどうぞ」
再び女冠長の先導でどこかへ案内される私たち。
また、長々と歩かされるのかしら、と内心でため息をつきましたが、思いのほか早く目的の場所に着きました。
紫禁城の玉座ですら、コレの前では犬小屋に思えるほど派手派手しくも巨大な玉座の間。
おそらくは神子様とやらがいるのでしょう。目にも艶やかな黄金の御簾が玉座本体を隠しているため、ぼんやりとしたシルエットしか見えませんが、凄まじい存在感に圧倒されそうになりました。
カーサス卿の魔力波動の強さにも驚いたものですが、この相手はそんなものとは桁が違っています。
カーサス卿が蛍で、私が電燈だとすれば、この相手は太陽に匹敵するでしょう。
これは……人間ではないですわね……。
自分めがけて核ミサイルの照準がピタリとされているような、そんな絶望的な気分のまま、戦慄く足腰に力を入れて先へ進みます。
「ようやく来たか。乃公は待ちくたびれたぞ」
その気配に集中していたせいでしょうか、そうイラついた声で呼びかけられて、私は初めて御簾の手前に人がいたのに気づきました。
長袍に似た衣装に金糸銀糸でゴテゴテと刺繍や紋様を施した、かなり悪趣味――いえ、目立つ格好をして笏を構えた、一見して老獪そうな二十歳とも、若作りの四十歳といわれても納得できそうな、どこか年齢不詳の白髪の青年です。
「遅参、申し訳ございません、ベナーク公」
即座に左掌右拳による抱拳礼をするカーサス卿と女冠長。
ベナーク公ということは、この人物が他国でいう宰相にあたる侍中ヘルベルト・ヤン・ネポムク・ベナーク公なのでしょう。さらによくよく見れば御簾の両端に美女の侍女が数人、五人囃子のように座って待機しています。
とりあえず私も礼儀としてカーテシーをしておきました。
「ほう、ほほう……」
途端、私のことを興味深げに――いえ、なんというか粘つくような視線を――私の全身に向け、なめるように這わせるベナーク公。
素肌の上を大量の蛞蝓が這っているような不快な視線に、愛想笑いが強張り鳥肌が立ちそうになるのを必死にこらえます。
なんでしょう。見た目はさほど悪くないのに、一目見て生理的嫌悪感が先に来るという、私にとっても珍しい相手です。
「美しい娘であるな。――これは楽しみである」
にちゃりと粘液質の笑みを浮かべるベナーク公の表情に、なぜか背筋に途轍もない怖気が奔ります。
「遠路はるばるとよくきた、歓迎するぞ。乃公は恐れ多くも神子ストラウス様の侍中、ヘルベルト・ヤン・ネポムク・ベナークである」
気取った口調で改めて挨拶をされましたので、私は再度カーテシーをしたのち、自己紹介をしました。
「はじめまして、ベナーク様。お目にかかれて光栄にございます。私はグラウィオール帝国が帝族にして、リビティウム皇……リビティウムの〈巫女姫〉ジュリア・フォルトゥーナ・アーデルハイド・クレールヒェンと申します」
我ながら長い名前ですわね。どんどん付け足されていって、いつの間にやら名前だけでこんなになってしまいました。
「――ふん、グラウィオール……蛮人の田舎国家か。そしてリビティウムの巫女姫か」
小ばかにしたように(実際、しているのでしょう)鼻を鳴らすベナーク公。
やはり、ここ封都インキュナブラでは予想通り、頭の中が《神魔聖戦》以前で止まっているようですわね。
当然、当時はリビディウム皇国などなかったはずですが、もともとユニス法国の首都があった場所が『リビディウム』であり、そこからリビディウム皇国という国名がつけられた……と、レジーナの授業で教えられたことがあったため、試しに口に出してみたところ、どうやら通じた――嘘はついていません――ということになったわけです。
「さて、リビティウムの巫女姫よ。そなたに尋ねたいのだが――」
「待て」
言いかけたベナーク公の言葉を遮って、金色の御簾の向こうから声がかかりました。
予想外に若い――せいぜい十代後半と思える――威圧的な大声でも、驕慢な甲高い声でもない、朗々とした張りのある声です。
「ベナークよ、せっかくの客人だ。余が直々に話をしたい。御簾を上げろ」
一瞬だけ驚いた表情を浮かべたベナーク公ですが、即座に御簾の向こうへ一礼をして、笏を振って侍女たちへ命令を下します。
「はっ、ただいま。――これ、神子様のご命令である。すぐに御簾を上げよ」
「「は、ははっ!」」
ベナーク公の指示に従って、巻き上げ機のような装置で御簾をゆっくりと上げる侍女たち。
それに合わせてカーサス卿と女冠長は、絨毯の敷かれた床に両手を突いて平伏します。
どうしたものかしら、直接眺めているのは失礼になるかも知れないわね、と思った私もとりあえず腰を落として床を向くと、
「ふ、気にすることはない。異邦異国の巫女姫よ。お前の世界においては、お前は比類なき身の上。余の顔を真っ直ぐ見るがよい」
神子の玲瓏とした声と、含み笑いが私へ向かって投げかけられました。
「これ、リビティウムの巫女姫よ。忝くも、神子様は汝に竜顔を拝し、直接言葉を交わす栄誉を授けるのとの仰せである。顔を上げるがよい」
笏を口の前に持ってきたベナーク公が、同じことを繰り返し、それを受けて私は失礼にならないように顔を上げました。
ちなみに『竜顔』というのは、天子の顔を指します。
まず目に入ったのは布靴ではなく何かの皮をなめした、ピカピカに輝く革製の靴でした。そしてこの宮殿全体の象徴でもある青い長袍。傲然と足を組んで金色の玉座に座ったその体は、しなやかでさらに逞しく、服の上からもまるで美術品のような完成度が見て取れます。
そしてその上、雪のように白い肌をした中性的な美貌は蠱惑的であり、気品と気迫に漲ったまさに王者の風格を漂わせた美青年、いえ、見たところ十六、十七歳の美少年でした。
整い過ぎた顔は空恐ろしいほどで、さしものルークも仮に並んだら地味に思えでしょう。
ただ明らかに普通の人間と違うのは、空のように青く腰まで届く髪と、一対二本の角が耳の後ろあたりから、ドラゴンの翼に酷似した蒼い鱗の翼が背中に生えているところです。
(これって、まさか……!?)
「竜人族、と思ったのであろう?」
目を見張った私の心を読んだかのように、神子ストラウスが快活に言い放ちました。
「だが違う。余はそのようなトカゲもどきとはまったくの別次元の存在である。大いなる蒼き神と聖母との間に生まれし唯一の神の子にして、次代の神、〈神帝〉を標榜する偽りの神を斃す神殺しの勇者、神子ストラウスであるぞ!」
その言霊と一緒に襲い来る強力過ぎる魔力波動に打ちのめされそうになる私。
例えるなら、細波が大波によって跡形もなく薙ぎ払われるような感じで、言霊だけで私という存在自体の心魂を揺さぶられているのです。
「わん! わんわんっ!!」
ふらふらになって倒れ掛かる私を励ますかのように、あるいは神子ストラウスから守るかのように、フィーアが小さな四肢を張って、力一杯周囲に向かって吠えました。
「――ち、この下賤な畜生が! カーサス、さっさとこれを始末してしまえ。……いや、玉座を畜生の血で汚すのはまずいな。社稷壇にでも連れて行って首を刎ねてこい!」
苛立たし気なベナーク公の命令に、一拍置いてから、
「……はっ」
頷いたカーサス卿が、直接、神子の顔を見ないように俯いたまま、吠えまくるフィーアを無理やり抱え上げ、噛まれるのも構わずにこの場を後にしました。
「――フィ……ア……!」
慌てて追いすがろうとしたのですが、
「ならん!」
途端、ひと際強烈な、ハンマーで頭を割られるような魔力波動を受けて、私の意識は成すすべなく暗転したのでした。
意識が落ちる寸前、神子の容姿について、そういえば爬虫類じみた瞳孔の竜人族と違って、目の形が人と同じで、さらに耳の形が妖精族と同じだという、どうでもいい枝葉末節に気が付きました。




