偽りの理想郷と浅葱色の聖母
茫漠たる空間の中、ふと、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がしました。
火が付いたような激しい泣き声。
自分がここにいるということを、全身を使って訴えかけているような嬰児の啼泣。
いつまでもどこまでも続く赤ん坊の泣き声に急き立てられるかのように、私は先を急ぎ――ふと気が付くと、どこまで続くかわからない真っ白い螺旋階段が上っていました。
階段は二重の螺旋構造になっていて、遥か彼方のあちら側を誰かわからないですが、シルエットで女性とわかる曖昧とした影が、私と鏡合わせになるように必死に階段を上っています。
いつまでもどこまでも交わらずにずっと続いている階段。
上から眺めた様子を想像してみれば、まるでコイルの内側のようなものでしょう。
「――いえ、違うわね。これはまるで遺伝子構造のような……」
そう閃いて口に出した瞬間、目の前に急に観音開きの門が現れ、私は反射的にその門に両手をかけて内側へと開いていました。
◇ ◆ ◇ ◆
ざわざわとした喧騒が目の前に広がっています。
一見したところどこかの街中。それもかなりの都会の街並みです。
道行く人たちの服装も、ちょっとデザインは古い感じですが清潔で、生活魔術か洗濯かはわかりませんが、きちんと洗われ……特に目を引くのは足元で、いまだ田舎の街では木靴や草履、子供など裸足で歩いているのも珍しくないというのに、ここでは子供も老人も皆きちんとした靴を履いていました。
帝都でもここまで徹底的に貧富の差がないのは見受けられません。
「――!?」
そこではっと気が付いて、いま自分が出てきた扉を確認するために背後を振り返って見ましたが、半ば予想していたようにそこには扉などなく、白い石壁といつもの仔犬大の姿になったフィーアが、ちょこんと腰を下ろしてお座りしているだけでした。
「わんっ!」
「――フィーア。ここにあった扉を知らない?」
そう尋ねると、フィーアは尻尾をフリフリ。
「わう、わわん! わんっ(知らなーい。マスターを追いかけていたらここにいたの)」
フィーアの念話から感じられるイメージも私とほぼ同様で、森の中にあった塔の入り口に飛び込んだ途端、真っ白な螺旋階段を無我夢中で走る私を必死に追いかけてきた――階段の外に出ようとしても、飛ぶこともできなかったようですわね――その記憶だけです。
唯一違いがあるとすれば、向こう側を上っていた人物について、私よりも詳細が見えていたようで、細身の体形の女性でおくるみのようなものを大事そうに抱えていたそうですので、もしかすると夢うつつに聞いた赤ん坊の泣き声は、彼女が抱いていたおくるみの中身だったのかも知れません。
「おや? その髪の色彩は、もしや『ユニス法教会』の《天人》でおらせられるか?」
考え込んでいた私へ向かって話しかけてくる方がいらっしゃいました。
見れば二十代半ば程の白銀の鎧兜を纏った、見るからに生真面目そうな騎士が、怪訝な表情で私の方を眺めて誰何しています。
「――?」
「――ふむ。これは奇遇であるな。彼の内部結社は、偉大なる我らが神がお隠れになられた際に、ともに滅んだと思っていたが……」
値踏みする感じで私とその足元で威嚇の唸りを上げているフィーアとを交互に見比べ、ひとりごちる青年。
同時に私も相手の力量を測って慄然としました。
この方、本当に人間かしら?
なにしろ魔力波動で感じ取れる魔力の量・質ともに桁外れ。少なくとも、これまで私が遭遇した魔術師・巫女・魔族と比べても、完全に頭一つ飛び抜けた凄まじさですもの。
それはもちろん神人である緋雪様やメイ理事長は別枠ですが(そもそもあのお二人は魔力波動というものを欠片たりとも放っていませんので、どのくらい差があるとかどこが限界だとかの見当もつきません)、少なくとも人間としてはほとんど頂点に位置する最高レベルでしょう。
比較するのもどうかと思いますが、魔力の質では精霊王である『天空の雪』様に準じるほどであり、魔力量では全盛期のイライザさんに匹敵……もしくは凌駕するほどです。
ミスリル製らしい鎧兜に腰に差している十字型の剣も飾りではないでしょうから、この若さで《始原的人間》並みの魔力に、一流以上の剣技を備えた魔法戦士ということになります。
私でも正面から戦って勝てるかどうか、ちょっと自信がありませんわね。
とりあえず敵対の意思はなさそうですので、
「え、ええ……と。すみません、ここってどこでしょうか?」
そういえばヴァルファングⅦ世陛下も私のことを「『ユニス法教会』の《天人》か?」と誤認してたなぁと思いながら、思い切って最前からの疑問を彼にぶつけてみました。
「? おかしなことを聞かれる。ここは旧イーオン聖王国聖都ファクシミレ。そしていまは『封都インキュナブラ』と呼ばれる街で、私はこの都を守護する聖騎士ロベルト・カーサスという者ですが」
旧イーオン聖王国⁉
その名を耳にして胸がドキリとしました。
その名はヴァルファングⅦ世陛下が口の端に乗せられた、抹消された先代の神――悪神を奉じていた国の名前です。
いまは存在しない筈のその国の後裔を名乗るこの地と、〈聖騎士〉を自称するロベルト・カーサスという青年。
この場所も先ほどの森とヴァルファングⅦ世陛下同様に、かつて存在したものの模造品なのでしょうか?
それにしては随分と生々しいわね。そう思いながら、私はなるべく相手を刺激しないように、よく事情の分からないお上りさんか、箱入り娘のような天真爛漫な口調で小首を傾げて、韜晦しました。
「ははぁ、聖騎士様でしたか。私はユニスにおいては巫女姫を襲名しております、ジルと申します。この子は私の使い魔のフィーアですわ」
嘘は言っていません。
「――ふむ? やはりユニス法教会にゆかりの方でしたか。彼の組織の関係者が生き延びていたとは……いずれにしても百四十年ぶりの慶事でございますな。これは〈聖母〉様にご報告せねばなるまい」
腑に落ちた様子で何度か頷くロベルトさん。
「〈聖母〉様……ですの?」
聞きなれない言葉に、思わず聞き返すと、
「左様。我らが神がお隠れになられた後、〈神子〉様と共にを百四十年以上に渡って、この地と民を導きし〈聖母〉様でございます」
そう口に出して、聖女教団の聖印とは似て非なる形で、胸の前で右手で印を切るロベルトさん。どうやらこの世界での祈りの対象に対する恭順の証のようですが、私としては次から次へと発せられる言葉の意味を理解するのでいっぱいいっぱいです。
「――えーと。あのこの街……封都インキュナブラでは、百四十年以上前に〈神魔聖戦〉――異変があったことは、皆さん承知されているのですか?」
「ああ。我らが偉大なる蒼き神が地上からお隠れになられ、その恩寵が消えたことで世界が滅んだ〈滅亡の刻〉のことでありましょう? いままで貴女がどこにおられたのは不明ですが、どうやら状況をご存じない様子ですので僭越ながら説明いたしますが、〈聖母〉様が残された神の御力を使って、敬虔なる信者たちが集うこの地を封じることで、辛うじて滅びを避けることができた――それがこの地がいまもある理由でございます」
なるほどそういう解釈なわけですの。
「そして、〈聖母〉様から聖誕なされた神の寵児である〈神子〉様の御力で、この地には飢えもなければ病気や天災、諍いも起きない理想郷と化しました。まこと偉大なる恩寵。未来永劫繁栄が続く約束の地に住まう我らは、お二方を伏して崇め奉っております」
「――? 争いもない理想郷? ロベルト様は『この都を守護する聖騎士』だと名乗られたようですが?」
何から都を守っているのでしょうか?
「ああ。恥ずべきことに、民の中には安寧とした生活に毒され、『大食』、『肉欲』、『貪欲』、『憤怒』、『怠惰』、『傲慢』、『嫉妬』などの邪心に憑りつかれる者も稀にだが存在いたします。そうして、邪心に囚われた者は心ばかりか姿形まで魔物に変ずるのです。我らはそれを『堕天』と呼んでいるのですが、そうした者どもを折伏することが我ら聖騎士の役目でありますれば」
「……魔物に変わった人をあやめるのですか?」
思わず非難を込めて尋ね返すと、ロベルト様は快活な笑みで一笑に付しました。
「まさか! たとえ姿が変じてももとは我らの同胞。あくまで捕らえて、その業が消えるまで〈神子〉様と〈聖母〉様の御座所たる〈聖域〉の地下にある『魂の浄室』に封じるのみです」
その言葉に私がほっと吐息を漏らしたところで、ロベルト様は踵を返されました。
「さて、いつまでも立ち話をしているのも失礼というもの。とりあえず〈聖域〉へ報告がてらご案内しますのでこちらへ」
そう告げて歩き出されたロベルト様。
思わず顔を見合わせた私とフィーアですが、ここでグズグズしていても仕方がないのは事実です。
「――〝虎穴に入らずんば虎子を得ず”ですわね」
「わんっ!」
覚悟を決めてフィーアとともに、その後に続いて歩き出しました。
そうして歩き出して程なく、ここ『封都インキュナブラ』の異様な静けさと清潔さに、思わず戸惑う私がいました。
なんというか……それなりに人はいるのですが、全員が穏やかな笑みを浮かべて軽く挨拶をするだけで、余計な無駄口は叩いていません。
そして通りはすべて石と……なんと土瀝青で舗装されていますし、建物は石と混凝土で作られています。
私の(正確には緋雪様のコピーですが)記憶にある地球世界の十九世紀から二十世紀にかけての近代都市風の景観がそこには広がっていました。
唖然とする私の様子を、都会に驚いた田舎娘を見るような微笑まし気な目で見ていたロベルト様ですが、ふととある建物のショーウィンドウ(全面ガラスです!)に飾られていた宗教画のような絵を指さし、
「御覧なさい。あれが我らが奉じる〈聖母〉様の似姿になります」
そう畏敬の念を込めて口に出されました。
言われてそれを見れば、
「――妖精族⁉」
金糸のような金髪に森の緑のような瞳。そして特徴的な長い耳を持った二十歳ほどにしか見えない、浅黄色のドレスを着た妖精族の女性が、キャンパスの中で艶やかに笑っています。
そんな私の一言に対して、ロベルト様は小さく首を横に振られて、
「少し違いますね。〈聖女〉アチャコ様は神にも匹敵する《神聖エルフ》。この世で最も神に近い神の寵姫であらせられます」
そう答えるのでした。
『リビティウム皇国のブタクサ姫』(第6巻)、いよいよ明日9月13日(木)発売です。




