白魔のドームと久遠の約束
目をつぶって開けた瞬間、目の前の光景が一変していました。
「『瞬間移動』ですか? 理論的には可能だとは聞いていましたけれど、こんなにスムーズにできるなんて……」
一瞬だけ膨大な魔力が膨れ上がって、泡が弾けるように施術された――と思った瞬間、まったくと言っていいほど衝撃も違和感も覚えずに、まるでイラストの背景だけをカット&ペーストしたかのように、さきほどまで立っていた場所から、まったく見覚えのない場所へと移動していたのですから驚きですわ。
移動した先であるこの場所もまた、植生や雰囲気からして【闇の森】であるのは間違いないと思います。
それでいて一目でまったくの別物としか思えない場所でした。
まず魔素の濃度が違います。桁外れです。例えるのなら私たちが住んでいる庵のある場所が、アルコール度数二・五度のシャンディ・ガフ(ビールをジンジャーエールで割ったお酒)だとすれば、ここは火をつけたら燃え上がるウォッカ(アルコール度数七十度以上)といったところでしょう。
普通に息をするだけでも魔素が濃すぎて酔いそうです。
そしてなにより、生息する魔物の強さの桁が違います。姿は見えませんが、桁……どころか存在するステージの違う魔物の魔力波動が、四方八方からこれでもかと響いてきます。
普段、私たちがいる【闇の森】の外縁部に近い場所でも、ごくたまにS級(マーヤ級ですわね)の魔物の気配を感じることがありましたけれど、実際に見かけるのはほとんどがA級以下B級C級の魔物ばかりでしたが――それでも、大陸の他の地域に比べて桁外れに強い魔物との遭遇率なのです――なんですか、ここは?!
私の腕の中にいるSS級魔物の天狼であるフィーアが、息を潜めてこちらを窺っている魔物の気配にあてられて、白目を剥いて硬直したまま、全身の穴という穴から体液を際限なく垂れ流しています。とりあえず、濡れないように水分をコントロールして端から蒸発させる私がいました。
――と、それはさておき。それにしたって、ここにいる魔物ってSSS級どころかウルトラ・スーパー・スペシャル・弩級と言っても差し支えないのではないでしょうか? いっそ魔神とか邪神の類と言われても納得できますわ。
いまのところ敵意はないようですが、これ仮に一体でも襲い掛かってきたら、十のうち一つくらいは手足の二三本を犠牲にして逃げられるかしら? 無理よねえ……という感じです。
で、そうした魔物の気配に怯えているのか、森の中だというのに鳥の声一つ、虫の声さえも聞こえません。そして、そんな私の目の前に広がっているのが――。
「これが『喪神の負の遺産』ですの? まるでドーム球場ですわね」
茫漠たる白い紗幕によって包まれているように見える、ざっと差し渡し一キルほどもある巨大な白いドームでした。
「そうだよ。なかなか壮観だろう」
一緒についてきてくれた緋雪様が、軽く肩をすくめられてそう頷かれます。
「いまのところところ変化はなし……か。まあ、念のために二十四時間、私の腹心たちに監視させてはいるんだけれどね」
「腹心……この気配の主は緋雪様の配下の方々ですの?」
「そーだよ。天涯に準じるくらいの力を持った、うちの魔将クラスだね」
ちなみにですが緋雪様ご本人と侯爵は、魔力をコントロールされているのか一見した感じでは、ほとんど魔力は感じませんが、アイドリング状態でも大型車の排気音は原付(私)程度とは一線を画すように、なんとなくその実力の違いは感じ取れるのですが、周りにある気配はそのお二人をもってしても追い付かない、工業用タービン並みの圧倒的な排気量を感じさせるものでした。
なので、つい声を潜めて一言、
「……あのぉ。もしかして、皆さん緋雪様よりもお強いのでは……?」
「そーだよ。タイマンならまず私じゃ勝てないね」
あっさりと首肯される緋雪様。
「……わー。なんだか大変そうですわねー」
絶対に勝てない配下を山ほど従える組織のボスとか、いつ落ちてくるかわからないダモクレスの剣の下で、戦々恐々と指示しなければならないストレスと隣り合わせの日常でしょう。私ならおちおち夜も眠れませんわ。
「たいへんなんだよ~~っ! わかるぅ~~~? わかるんだね? うううううう……」
途端、滂沱と涙を流されて私の両手を掴んで、何度も何度もそれはもう頭の中身がシェィクされるほど頷かれる緋雪様。
なんでしょう。この程度の同意で、なぜこんなにも感激されているのでしょう。いろいろと謎過ぎますわ。
とりあえずハンカチを取り出して、ぐしゃぐしゃになった緋雪様のお顔を拭って差し上げます。
「はいはい。大変なのは心より同情いたしますが、鼻水まで流してお嘆きになるのはどうかと……緋雪様も外見の皮一枚は綺麗なのですから、女子的に慎みは持たれた方がよろしいと思いますわ」
「ぐす……って、君もさり気に毒舌だねぇ。さすがはオリ――レジーナの弟子だけのことはあるわ。前世ではもうちょっと純真無垢な感じだったんだけど……」
前世を引き合いに出されても覚えていないものをどうしろと。
「それで、私一人であのドームの中に入ればよろしいのでしょうか? 服とか脱がないとダメとかの制限はございますの?」
必要であれば脱ぐ用意をしながらそう尋ねると、
「体に身に着けているものとか手に持っているものくらいなら大丈夫――って、躊躇なく脱ごうとするね、君! 温泉でも隠さないタイプなんだろうねぇ」
緋雪様に止められましたけれど、ついでなのでいったん硬直しているフィーアを地面に下ろして、手早く普段着を脱いで、『収納』しておいた私の本気装備――『聖女の羽衣』『星華の宝冠』『光翼の神杖』を――に着替える私。
ふと見れば、侯爵は背中を向ける紳士的対応をしてくれていました。
着替え終えた私は、『光翼の神杖』と一緒にフィーアをもう一度抱え上げて、
「当然ですわ。お風呂は裸の社交場ですもの。恥ずかしがる方が恥ずかしいというものですわ」
「うわ~、裸族だよ……」
失敬な。人を未開の部族のように……。
非常時にいちいち羞恥だとかプライドだとか言っていられないだけですわ。
ちょっとだけカチンときたので、留飲を下げるために――明らかに緋雪様って体型にコンプレックスがおありのようですので――ひとつの提案をいたしました。
「そんなことはございませんわ。というかお師匠様の庵には、結構大きめのお風呂が設置してありますので、これが無事に終わりましたら、ぜひお姉さまも一緒にお風呂に入りませんか?」
「「っっっ!?!」」
途端に、なぜか息を飲まれる緋雪様と侯爵。特に侯爵のほうが動揺が激しく、肩を震わせて一瞬泣いているのかと思えたほどです。
程なく平静を取り戻した風の緋雪様が、
「い、いや。そーいう『これ終わったら〇〇しようぜ』っていうのはフラグだから止めとこう。それはなしで」
微妙に引き攣った笑顔を取り繕って、そう冗談めかしておっしゃいました。
「……ふむ?」その緋雪様たちの反応を前に、私はふと思いついて尋ねます。「もしかして、前世の私が同じような約束をして果たせなかったのでしょうか?」
「「!!!」」
「――ああ、やっぱりそうだったのですね」
単なるあてずっぽうでしたけれど、どうやら間違っていなかったようです。
「そうなると、ますます約束を果たさないわけには参りませんわ。前回のリベンジ……というのも変ですが、中途半端に終わったと聞けば、今度こそ何が何でもですわ。お姉さまぜひご一緒にお風呂に浸かりましょう!」
〈神帝陛下〉にして、聖女教団の信仰の対象である聖女たる緋雪様に対して不敬かも知れませんが、自分でも思いがけなくスラスラとそうしたお願いの言葉が流れ出ていました。
「……っう。君は――」
泣き笑いのような表情を浮かべられた緋雪様に、心配ないと言い聞かせる意味で、私は心からの笑みで応えます。
「私は私。〝ジル”ですわ。前世では無力なお姫様だったかも知れませんが、いまの私は自分で戦う力も意思もございます。それになにより、こんな私を支えて待ってくれている方々がいらっしゃいますもの。絶対に戻って参ります」
なおも煩悶されていた緋雪様ですが、
「……やれやれ。私が虚霧に向かった時も、皆こんな気持ちだったのかねぇ……因果は巡るとはよく言ったものだよ」
それはそれは盛大なため息を放たれました。
「はいはい、わかったよ。まったく……止めるだけ無駄だろうって身につまされてわかるから、もうグダグダ言わないよ。戻ってきたらお風呂でも温泉でも入ってやろうじゃないか!」
「うふふふ。楽しみにしていますわ」
肩の力が抜けた様子でそう言われて、私もあえて軽い調子でそう答えます。
「はいはい。じゃあまあ、私はこれ以上アレに近づけないんで、ここで待っているから、サクッと行って帰っておいで」
「はい、では……えーと、フィーアは抱えて行けるのでしょうか?」
一歩踏み出しかけて、当然のように私の腕の中に納まっているフィーアに視線を落とします。
「いや、無理だと思うよ。私の従魔も弾かれたし……」
「そうですか。では、フィーアにもここで待っていてもらうことに……」
『わんわんおーっ!(やだー、一緒に行く!)』
といっても駄々をこねるフィーア。
「ヤダと言っても自動で弾かれる仕様だよ」
私とフィーアの念話が聞こえるのか、緋雪様がそう言い含められます――が。
『わお~~ん!(ヤダヤダっ!)』
「……ではとりあえず、弾かれる前提で連れて行ってみますわ」
まあ、そもそもぶっつけ本番ですから、私自身が入れない可能性もあるのですよね。
「そうだね。気のすむようにさせてやったほうがいいんじゃないかな」
駄々っ子相手に緋雪様も匙を投げられたのか、そう投げやりに同意されました。
『わお~ん♪(わ~い!)』
散歩に連れているノリで喜んで尻尾をフリフリしているフィーアを抱えたまま、とりあえず入口らしいものが見えないので、目の前にある『喪神の負の遺産』の一番近い外周へと歩みを進めます。
「――おいっ!」
もう数歩進んだドームの壁に到達するというところで、思わず……という声音で、これまでほとんど口を挟まなかった侯爵が声を張り上げました。
「はい……?」
「――いや……気を付けて行け。無事に戻ってこい」
どこか悲痛な……砂を噛むような思いが込められた侯爵の瞳。
仮面越しの彼と見つめ合ったのはほんの僅かな時間でしたが、ふと既視感を覚えて私は問いかけを口に出しました。
「……あの。どこかでお会いしませんでしたか?」
刹那、『喪神の負の遺産』の外壁が泡のように膨らみ、一瞬にして私の視界は真っ白に塗り潰されたのでした。
 




