若き日の思い出 【壱】
――定かではない日、アルフォード王国軍総本部――
どんなに争いが激化しようとも必ず安息の地は存在する。お天道様は空高く上り、暖かな風が心地よく木々を揺らしている。鳥たちは囀り、徹夜で働いている者は、ひとときの休息として夢の世界へと潜り込む。
ノリス・ヒッター中将もその一人であった。彼はアルフォードが誇る特殊戦略部隊、通称“特戦”の司令官を務めている。その姿は常に威風堂々たるものであり、彼の一声は多くの部下を励まし、また勇気を与えてきた。そんな彼の胸には数々の勲章が下げられており、彼が以下に名だたる武人かを示している。まさにノリス・ヒッターは“軍人”としても“人”としても偉大なる人物なのである。
しかし、やはり彼も人の子。最近疲れが溜まっているのだろう、自室の椅子に深く腰掛け、転寝しているではないか。その姿はとても【戦場の稲妻】と敵兵から恐れられた軍人とは思えないほどまったりとしたものであり、老後を高原で過ごす気の優しそうな老人のようである。
「失礼します〜!」
そんな時、一人のまだあどけなさが抜け落ちていない軍服を着た少女がトレイにお茶を載せてヒッターのいる司令室へとやってきた。その少女は最近、ヒロインの座を某副隊長に取られがちだと嘆いているリリスであった。
その声に驚いたのかヒッターはビクッと体を揺らしながら半ばまだ眠り足りない感じで目を覚ました。
「すみません、もしかして寝ていました? 一応頼まれたお茶をお持ちしました」
「ん…、いや気にしなくていい。気持ちはまだ若いときのままなのだがどうにも体がついていけていないようだ。ま、ワシも老いには勝てんということだろう」
リリスが持ってきた茶をすすりながらヒッターはいつもの風格ある声で己を笑って見せた。
「そんなことないですよ。司令はまだまだお若いですよ。私の父なんて司令より若いのにもう退職しているんですよ〜?」
「ふふ、ワシに世辞なんぞ言っても何も出んよ。ところで先ほどの話からして君の父親は軍人だったのかい?」
苦笑しながら訊ねる司令にリリスはにっこりと笑いながら積極的に自分の父親の話を始めた。
「えぇ、そうです。私の父は元軍人です。ただ私の前では絶対に仕事の話をしないのでどんな軍人だったのかは私も分からないんです。一応、訊ねたことはあるんですがそのたびに引きつった笑みで『すまない、昔のことは思い出したくないんだ』といって話してくれないんです」
「おそらく先の大戦でつらい過去を背負う羽目になったのだろう…。まぁ、その大戦に参加しても尚、現役でい続けるワシのようなスキモノもいるがね」
「そういえば前のディーベルクとの戦いで司令は【戦場の稲妻】という二つ名をもらったんですよね? その時の司令はいったいどんな感じだったのですか? やはり現在のような感じだったのですか?」
その何気ない彼女の問いに司令は突如大笑いをしてみせた。いきなりのことにリリスはポカンと目を点にしている。
「カッカッカ! いやすまん。つい昔の自分を思い出しておかしくなってしまったわい。リリス君、午後からはとくに急の用はなかったな。ちょうど良い機会だ、ワシの若かりし頃の思い出話を聞いていかんかね?」
司令の提案にリリスは二度返事をすると高まる気持ちを抑えながら彼の思い出話に耳を傾けた。
「では始めるとしよう。あれはワシがまだ少佐だった頃の話だ……」
――30年前、名もなき荒野の前線――
木々も、草もそこにはほとんど存在しなかった。あるのはゴツゴツとした岩と、大量の薬きょう、そして無残に転がる敗者の屍たち。
時は1270年、アルフォード王国とディーベルク王国はこの当時もお互いの領土をめぐり戦っていた。この戦争は最終的に十年後の1280年に平和条約を結ぶことで終結するわけだがこの頃の彼らにはそのようなことは知るよしもないことである。
血に飢えた狼たちが支配するその荒野にその男は存在した。周囲の岩より平らな岩に腰掛けるその男はうまそうに自前の葉巻を吸っている。
この時点で既にハードボイルドなわけであるが男の格好はさらにすごかった。赤茶けた灰色の軍服の袖を肩からバッサリと切り落とし、見とれるような鋼の筋肉を覆った腕をさらけ出している。その袖なし軍服を男は胸をさらけ出すように着用しているためこれまたたくましき筋肉がシャツの下から自慢げにアピールしている。髪は完璧なまでの角刈りでそのうえから使い古された軍帽を被っている。極めつけのサングラスは男を完璧なまでのハードボイルドに仕立て上げている。(ちなみにこの当時まだバトルスーツは開発されていない。)
これらから分かるように男は真の漢であった。だがよくよく考えると明らかにその格好は軍法会議ものである。だがこの男にそのような常識は通用しない。何故ならば男は“ハードボイルド道”を極めていたからである。まぁ実際のところは彼の部隊には彼より上の階級の者がいないというのが大きいのだが……。
「少佐〜! 大変です、少佐〜!!」
そんな時、一人の青年が慌てた様子で男の下へやってきた。青年はこれまた極端に軍の制服を生真面目に着こなしており、その生真面目さはこれほど熱いにも拘らず襟元をしっかりと止めているほどのものだ。
全力で走ってきた青年は男の下にたどり着くと、息を整える暇を惜しんで必死に言葉を口に出そうとしている。その様子を見た男は依然と葉巻をくわえたまま青年の真面目っぷりに苦笑してみせた。
「ぜぇ、ぜぇ…、ちょっと何笑っているのですかヒッター少佐! 司令部にいないからこちらは必死であなたを探していたのですよ!?」
「はっ、あんなエアコンの効きすぎたところにいられるか! その上禁煙なんてオレ様に出て行けといっているものじゃあねえか! それにしてもアシア、よくそんなクソ熱い格好していられんな〜? ある意味男じゃあねえか!!」
ヒッター少佐と呼ばれた男は青年アシアの正論な不満の声を逆に幼稚な不満であしらってしまう。そうこの奇抜な男こそ後に特戦の司令としてケンたちを引っ張っていくあの偉大な軍人なのである。
「そんなことはどうでもいいんです! それより大変なんですよ少佐〜!! 前線部隊の兵士たちが敵に押されていてこのままじゃ我々も撤退せざる終えないんですよ〜!!」
彼の言い分によると一刻前に出撃した部隊が当初は押していたものの、先ほど急に敵の勢いが増し、形勢逆転になってしまったらしい。その報告を聞いたヒッターはというと先ほどと変わらず葉巻を吹かし、地平線を眺めながらたそがれている。その様子を見てまたアシアが小言を言おうとしたとき、急にヒッターが口を開いた。
「アタフタとしてんじゃねえ! 男だったらドンと構えろ!! 安心しろ、あいつらはそんなにヤワじゃねえ。何せこのオレ様と杯を交わしてんだからな〜!!」
「…そういう問題じゃあないと思うのですが……」
突然口を開いたかと思うと命令を出すわけでもなく、自分の中でしか通用しない根拠を自信満々に語る肌の合わない上司に真面目な部下は半ば強引に呑み込まれてしまう。
「っとまぁ安心しろアシア。別にやつらを見捨てようなんて考えちゃいねえよ。オレ様直々に援軍に出向いてやる! お前は動けるやつを十人ほど呼んで来い。すぐに出陣するぞ!」
「えぇぇ〜!? ちょっと待ってください! 大将が前線に出るなんてどういう頭しているんですか? あなたがここにいなくなったらいったい誰が各部隊に指示を出すんですか!?」
「お前がやればいいだろう?」
あまりにもあっさりと答えてしまうヒッターにアシアは返す言葉が出なかった。一応喉のところまで出かけていた言葉はあったものの、今の少佐に何も言っても無駄たと判断し、腹底に押し返した。
「全く……あなたという人は。分りました、ご命令どおり指揮権はお預かりします」
「すまねえな、アシア。お前との付き合いもかれこれ三年になるか?」
「さぁ〜? あなたといると忙しくてそんなこといちいち覚えていられませんよ」
言葉はきついものの、アシアはこの上司が心の底から嫌いにはなれなかった。最初、ヒッターの下に配属された時、彼はまだ士官学校を卒業したばかりのひよっ子だった。
真面目一筋。それが彼の今までの生き方であり、正義であった。そんな彼にとってこの上司は正に天敵のような存在であった。軍規は平気で破り、書類関係全て自分に押し付け、そのくせ無茶な命令を突き付ける。アシアはすぐにでもヒッターの下から離れたいと心底願っていた。
彼の心に変化が起きたのは配属されてから一か月後のことであった。
ちょうどその頃はディーベルクとの戦争が勃発した当初のことである。彼らの部隊は前線に配属され、日夜続く激戦に疲弊しきっていた。気づけば彼と、数人の兵士はヒッターたちと離れ離れになってしまい、その上手持ちの物資も底を尽きそうになっていた。
彼らは自分たちは部隊から見捨てられたと思い、絶望した。じりじりとではあるがディーベルクの兵士に囲まれていくアシアたち。それでも彼らは何とか生き延びようと必死に抵抗した。しかしそれもしばらくしてついに心身共に擦り切れ、もはや戦う意志すらなくなってしまった。彼らの現状を察したのかディーベルクの部隊はその歩を早め、ついに彼らを囲んでしまう。アシアは自分たちに向けられる銃口を薄れる意識の中、茫然と見つめていた。そして心底、無能な上司のことを呪った。
その時である。突如、敵の一人が断絶魔と共に宙へと吹き飛ばされた。異変に気づいた敵兵はすぐさま断絶魔の聞こえた方向へと振り向く。しかし、近場にいた者は振り向く前にとてつもない衝撃が体を襲ったかと思うと次の瞬間には最初の兵士と同様、宙を舞っていた。
敵兵の兵士、意識が消えかかっている仲間の兵士、そしてアシアは見た。先ほどまで複数の敵兵が立っていたところに、見覚えのある一人の男が立っているのを。
その男は紛れもなく、彼のストレスの原因であり、恨みの対象であり、忌むべき存在あり、絶対的な天敵であり、そして彼の直属の上司に当たる男であった。
「お〜い、生きてるか? 死んでいるやつは手を挙げろ!」
「……死人にどうやって手を挙げろというんですか、あなたは…?」
ヒッターはその返答に対し、豪快に笑いながら「それだけ元気があれば大丈夫だな!!」と述べると単身、彼らを囲む敵兵を次々と蹴散らしていった。
あぁ〜、私にまだ反論するほどの力が残っていたのか…。それがアシアがまず初めに感じたことであった。そして彼は気づいた、この力はつい先ほどまで存在しなかったものであると。 この力は今目の前で敵兵を殴り倒している上司によってもたらされたものであると。彼はその時、ようやく自分の気持ちに気づいた。つまり自分はノリス・ヒッターという男を心の底から嫌いになれないということに。どんなに憎くても、不満を感じても、どこかで自分はこの男を尊敬している。軍人として、一人の“男”として…。
次に彼が目を覚ました時には、彼はキャンプのベッドの上にいた。少佐は彼に何も言わなかったが、話によると少佐は自分たちを見捨てて後退するという指揮官に一人で異議を唱え、指揮官がその考えを変えないと分かると突然彼を思いっきりぶん殴ると一人で自分たちを救出しに飛び出して行ったらしい。
非常に後先を考えない無謀な行為ではあるが、現に自分たちの命がここにあるのはそのような後先を考えない行動に走ったヒッターのおかげである。アシアは半ば呆れながらも命の恩人に心から感謝した。
以後、アシアは何度もヒッターに不満をぶつけたり、意義を唱えたりするが、二人の間には見えない何かが存在した。
「よし、それじゃあオレ達は、前線で苦戦している野郎どもを加勢しに行ってくるから、後のことは頼むぞ!」
数分後、少佐は部下を十人引き連れて、前線へと向かった。その表情はいつものように人をからかったような笑みでとても今から戦場へと向かう人間には見えないものであった。だがその表情はどこか仲間を安心させるものが込められている。
アシアは少佐を見送った後、軽くため息を吐くとクルリと反転しやれやれといった様子で司令部へと歩を進める。しかし、その表情は少佐といる時のような振り回される男の顔ではなく、誇り高き軍人の顔へと変貌していた。