↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
39/146

ローゼンバーグ王国 視察7日目 ⑥

そのざわめきは、先ほどのハルト達のものとは違っていた。


重い空気ではない。


不安と疲労は混じっている。


だが、そこにはかすかな安堵もあった。


孤児院の門の外に、数台の荷車が止まる。


荷台には、布で包まれた者達が座っていた。


痩せた老人。


顔色の悪い女。


母親に抱かれた幼い子供。


皆、まだ弱っている。


だが、死にかけているような暗さはない。


手当を受け、清潔な布をかけられ、湯気の立つ器を大事そうに抱えている者もいる。


その先頭から、小柄な白髪の少女が駆け込んできた。


リンだった。


白い髪を揺らし、薬箱を肩にかけ、薄汚れた外套をまとっている。


疲れているはずなのに、その足取りは早い。


リンは庭の中にエミリアの姿を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。


「エミリア様!」


エミリアは眉を動かした。


「今日はエミィよ」


「……エミィ様!」


リンは即座に言い直した。


早かった。


迷いがない。


エミリアは満足げに頷く。


「よろしい」


リンは胸を張った。


「命じられた村の支配、完了しました!」


セリアは、その言葉に反応する。


支配。


また、その言葉だ。


だが、リンの背後には、弱った村人達がいる。


病人。


子供。


老人。


彼らは怯えているようには見えない。


むしろ、王都に辿り着いたことで、ようやく息をついた者達のようだった。


リンは早口で報告を続ける。


「重症者はこっちに連れてきました。村に残すと再発の危険があります。水場は確認済み。簡易浄水器は設置しました。煮沸と手洗いも教えてあります。食料と石鹸は置いてきました。経過観察が必要な人は、王都で管理します」


「そう」


エミリアは当然のように頷いた。


「悪くないわ」


リンの表情が、ぱあっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


褒められた犬のようだった。


いや、セリアにはそう見えた。


リンはエミリアの言葉ひとつで、疲労を忘れたように笑っている。


その時だった。


荷車の方から、小さな足音が近づいてきた。


「リン先生」


か細い声。


リンが振り返る。


そこにいたのは、一人の少年だった。


まだ幼い。


痩せている。


頬はこけ、腕は細い。


だが、立っていた。


自分の足で。


母親らしき女性に支えられながらも、確かに歩いていた。


少年はリンのそばまで来ると、両手をぎゅっと握った。


「ありがとう」


リンは少しだけ目を丸くする。


そして、すぐに首を振った。


「ボクじゃないよ」


「え?」


「君をここまで連れてくるって決めたのは、エミリア様」


リンはエミリアを指した。


「ボクは、エミリア様の命令を実行しただけ」


少年はエミリアを見る。


黒衣の女王。


いや、今日の彼女は謎の悪女エミィだった。


少年は少しだけ緊張したように背筋を伸ばし、それから深く頭を下げた。


「ありがとうございます、エミィ様」


エミリアは、わずかに顎を上げた。


「勘違いしないことね」


その声は、いつものように不遜だった。


「私は、私の国の下僕が勝手に朽ちるのを許さないだけよ」


少年は意味が分からなかったらしく、首を傾げた。


けれど、すぐに笑った。


「うん。ありがとうございます」


エミリアは、なぜか少しだけ不満そうにした。


「……まあ、いいわ」


そのやり取りを見ていたセリアは、呼吸を忘れていた。


少年の顔。


青白かった頬。


細い腕。


力なく開かれていた目。


母親に抱かれていた、小さな身体。


見覚えがあった。


忘れられるはずがなかった。


あの村で。


セリアが癒しの奇跡を使った子供。


呼吸を少し楽にすることはできた。


苦痛を和らげることはできた。


顔色を、ほんのわずかに戻すこともできた。


けれど、完全には戻せなかった。


癒しても、癒しても、身体の奥から命がこぼれていくようだった。


病の根に届かない。


奇跡が届かない。


そう思った。


だから、セリアは次の巡礼先へ向かった。


神殿から与えられた使命を優先した。


あの子を、置いていった。


「……あなた」


セリアの声が震えた。


少年が振り向く。


セリアを見て、少しだけ目を丸くした。


「聖女様……?」


その呼び名が、セリアの胸を刺した。


聖女。


救えなかった自分を、少年はまだそう呼ぶ。


「どうして……」


セリアはリンへ視線を向ける。


「どうして、その子が立っているのですか」


リンの表情が、少しだけ硬くなった。


セリアは続ける。


「その子は、私の癒しでも完全には戻せなかった。呼吸を楽にすることしかできなかった。苦痛を和らげることしかできなかった」


声が強くなる。


「完全に癒せない病だったはずです。どうやって治したのですか」


リンの目が細くなる。


セリアがエミリアに暴言を吐いたことを、リンは忘れていない。


だからだろう。


その声には、わずかに棘があった。


「エミリア様を悪く言った人に、説明する義理はないと思うけど」


「リン」


エミリアが短く呼んだ。


それだけだった。


リンはすぐに姿勢を正す。


「はい、エミリア様」


「説明なさい」


「はい」


リンは不満を飲み込むように息を吐き、セリアへ向き直った。


「簡単なことです」


簡単。


その言葉に、セリアの胸がまた痛んだ。


リンは少年を見る。


「この子の身体は、病だけで弱っていたわけじゃありません」


「……どういう意味ですか」


「水です」


セリアは眉を寄せる。


「水?」


「村の水が汚れていました」


リンは淡々と言った。


「その水を飲む。腹を壊す。下す。吐く。水分が抜ける。塩も抜ける。食べても身体に残らない。体力が戻らない。弱る。さらに同じ水を飲む」


リンは小さく首を振る。


「その繰り返しです」


セリアは言葉を失った。


「病そのものは、もう抑えました」


リンは続ける。


「でも、原因はこの子の身体の中だけにあるわけじゃありません。村の水と、衛生環境です」


「……」


「だから、身体だけ整えても駄目です。また同じ水を飲めば、同じことになります」


少年の母親が、少年の肩を抱く。


リンはそちらへ優しく視線を向け、それからまたセリアを見た。


「汚れた水を止める。煮沸する。湯冷ましを飲ませる。塩と糖を少し入れた水を、匙で少しずつ飲ませる。粥やスープを少しずつ食べさせる。汚物を水場から離す。手を洗う」


リンは指折り数えるように言った。


「それをしないと、戻ります」


セリアは唇を震わせた。


それは、奇跡ではない。


神聖魔法でもない。


祈りでもない。


だが、リンの言葉は、少年がなぜ弱り続けたのかを説明していた。


セリアの奇跡が、なぜ完全には届かなかったのかを。


「……私の癒しは」


セリアは、ようやく声を出した。


「無意味だったのですか」


リンは、少しだけ目を伏せた。


そして、首を横に振った。


「無意味じゃありません」


セリアは顔を上げる。


リンは、先ほどより少しだけ柔らかい声で言った。


「あなたの癒しで、この子は命を繋いでいました。呼吸が楽になった。痛みが減った。身体も少し持ち直していた」


「なら……」


「でも、原因が残っていた」


リンの声は静かだった。


「奇跡が足りなかったんじゃないです。見ていた場所が違ったんです」


その言葉は、セリアの胸の奥を真っ直ぐに貫いた。


奇跡が足りなかったのではない。


見ていた場所が違った。


セリアは、少年を見る。


救えなかったはずの子。


自分が置いてきた子。


その子が今、立っている。


リンに懐き、エミリアへ礼を言い、母親の腕の中で小さく笑っている。


セリアは胸元の聖印を握った。


だが、そこから返ってくるのは、冷たい硬さだけだった。


エミリアが、ゆっくりと口を開く。


「病人を運ばせたのは正解ね」


リンはすぐに頷いた。


「はい。村に置いたままだと再発します」


「当然よ」


エミリアは少年を見た。


それから、連れてこられた村人達を見る。


「病を癒やすだけでは足りない」


その声は、静かだった。


「病が戻らない場所へ移す」


セリアは、エミリアを見る。


エミリアは続けた。


「腐った水を止める」


「腹を壊す原因を潰す」


「食べられるものを与える」


「清潔を覚えさせる」


「死なせない仕組みを作る」


彼女は、そこでセリアを見た。


紫の瞳が、真っ直ぐにセリアを射抜く。


「それが支配の基本よ」


救う、とは言わなかった。


助ける、とも言わなかった。


エミリアは、どこまでも悪の女王として語っている。


けれど。


その言葉の先に、少年は立っていた。


セリアが救えなかった命が。


エミリアの命令で動いたリンによって、今ここにいた。


セリアの中で、何かが崩れた。


オショ達に利用された怒り。


太陽神教の神官達が犯した悪事。


孤児院で笑う子供達。


エミリアの周りで前を向き始める民。


邪神を信仰しているのではなく、神すら利用しているように見える女王。


そして、自分が救えなかった少年。


すべてが一つに重なっていく。


「……どうして」


セリアは、かすれた声で言った。


「どうして、あなたは」


言葉が続かない。


問いは、いくつもあった。


なぜ、悪を名乗るのか。


なぜ、救済と呼ばないのか。


なぜ、支配と言いながら人を立たせるのか。


なぜ、自分にはできなかったことを、当然のようにやってしまうのか。


セリアは震える手で聖印を握りしめる。


信仰が、完全に揺らいでいた。


太陽神インティへの敬意が消えたわけではない。


神父への感謝が消えたわけでもない。


自分の祈りを否定したいわけでもない。


だが。


目の前の現実は、もう否定できなかった。


悪の女王は、世界を救わない。


そう名乗りながら。


セリアが救えなかった子供を、死なせなかった。


セリアは、エミリアを見た。


その問いは、ようやく形になった。


「あなたは……一体、何なのですか」


セリアの問いに、庭の空気が止まった。


孤児院の子供達の声も。


村から運ばれてきた者達の息遣いも。


縄で縛られた神官達の震えも。


すべてが、一瞬だけ遠くなったように感じられた。


エミリアは、すぐには答えなかった。


黒衣の外套をまとった謎の悪女。


エミィ。


そう名乗っていたはずの少女は、しばらくセリアを見つめていた。


やがて、小さく息を吐く。


「その問いに答えるには、ここは少し騒がしすぎるわね」


「……え?」


セリアが顔を上げる。


エミリアは周囲を見渡した。


子供達。


村人達。


リン。


ハルト。


セバス。


院長。


そして、縄で縛られたオショ、クージ、ケン。


「ハルト」


「はい」


「そのゴミを連れて行きなさい。子供達の前に長く置いておくものではないわ」


「了解しました」


ハルトが短く答え、騎士達へ指示を飛ばす。


縛られた三人が引き立てられていく。


オショは何かを言いかけたが、騎士に肩を押さえられ、言葉を飲み込んだ。


クージはまだ信じられないという顔をしていた。


ケンは、エミリアと目が合うことを恐れるように、うつむいたまま震えている。


エミリアは次にリンを見た。


「リン」


「はい、エミリア様」


「村人達を診なさい。弱っている者から順に。水と粥も用意させること」


「はい!」


リンはすぐに動き出した。


先ほどまでエミリアに褒められたことで輝いていた顔が、医師のものへ変わる。


村人達の顔色を見て、呼吸を見て、手足の冷えを確かめ、必要な者を孤児院の中へ運ばせていく。


「院長」


「はい、エミィ様」


老女院長が、穏やかに頭を下げた。


「子供達を中へ。食事の続きをさせなさい。悪の幹部見習いに空腹は禁物よ」


「承知いたしました」


「えー!」


「まだ見たい!」


「エミィさん、悪い人やっつけないの?」


「いいから行きなさい」


エミリアは子供達へ指を向ける。


「命令を聞けない悪の幹部など、三流よ」


「三流はやだ!」


「行く!」


「手洗いしたら、また黒薔薇ソーセージ食べていい?」


「石鹸を使った者から許可するわ」


「やったー!」


子供達は一斉に孤児院の中へ駆けていく。


その後ろを、院長と手伝いの者達が慌てて追いかけた。


混乱していた庭が、エミリアの一言で整理されていく。


誰が何をするべきか。


何を先に片付けるべきか。


どこに誰を置くべきか。


すべてが、当然のように決められていく。


セリアは、それを呆然と見ていた。


この少女は、悪を名乗る。


支配と言う。


下僕と言う。


救うとは、言わない。


それなのに。


彼女が命じると、人が動く。


子供達は守られ、病人は運ばれ、騎士は罪人を連れていき、リンは治療を始める。


祈りではなかった。


奇跡でもなかった。


だが、確かにそこには、人を死なせないための秩序があった。


エミリアは外套を翻す。


「来なさい、セリア」


「どこへ……」


「この孤児院の奥に、仮設の礼拝堂があるわ」


「礼拝堂……?」


「ええ」


エミリアは薄く笑った。


「あなたが知りたいというなら、そこで聞かせてあげる」


一拍置いて、彼女は言った。


「私が何者なのかを」


セリアは、無意識に胸元の聖印を握った。


太陽神インティの印。


自分を導いてきた光。


けれど、その指先は、わずかに震えていた。


セリアは何も言わず、エミリアの後を追った。


孤児院の奥。


そこに、仮設の礼拝堂はあった。


まだ正式な神殿ではない。


壁は新しく、木の香りが残っている。


祭壇も簡素なものだった。


高価な装飾はない。


黒と白の布。


月を象った小さな紋章。


その周囲に、控えめな花が飾られているだけ。


けれど、そこには確かに、外の庭とは違う静けさがあった。


セリアは入口で足を止めた。


ルミナ神殿。


月と死と転生を司る女神。


太陽神教において邪神と呼ばれてきた存在。


その女神の礼拝堂に、自分は今、足を踏み入れようとしている。


胸の奥がざわついた。


それでも、足は止まらなかった。


セリアは、ゆっくりと中へ入る。


エミリアは祭壇の前まで進むと、そこで振り返った。


「さて」


その声に、セリアは身構える。


いよいよ。


この悪の女王が、自分の正体を語るのだと思った。


エミリアは外套を軽く翻し、どこか得意げに胸を張る。


「ここには、他に聞いている者もいないわね」


「……はい」


「ならば、特別に真実を明かしてあげる」


セリアは息を呑んだ。


エミリアの紫の瞳が、静かに細められる。


「実は私は――」


「……」


「謎の悪女エミィではなく、ローゼンバーグ王国女王、エミリアなのよ!」


仮設礼拝堂に、沈黙が落ちた。


セリアは、しばらく何も言えなかった。


やがて、かろうじて口を開く。


「……存じておりました」


「なっ……」


今度は、エミリアが固まった。


紫の瞳が、わずかに見開かれる。


「なぜ……」


「え?」


「なぜ、この完璧な変装を見破れたの……?」


セリアは、返答に困った。


髪型。


眼鏡。


外套。


名前。


確かに、普段とは少し違う。


けれど。


どこからどう見ても、エミリアだった。


「その……」


セリアは言葉を選ぶ。


「雰囲気が、とても……エミリア様でしたので」


「雰囲気……」


エミリアは口元に手を当て、真剣に考え込んだ。


まるで、国家の命運を左右する難題に直面したかのような顔だった。


「まさか、そこまで見抜くとは」


「……はい?」


エミリアは、ゆっくりとセリアを見る。


その瞳には、妙な感心が宿っていた。


「さすがね、セリア」


「え?」


「太陽神教から遣わされた視察官。しかも異端を見極める者。やはり、観察眼は侮れないということね」


「いえ、あの」


「普通の民ならば、謎の悪女エミィの正体には気づけないはず」


「……」


「けれど、あなたは見抜いた」


エミリアは満足げに頷いた。


「認めましょう。あなたは優秀だわ」


セリアは、何も言えなかった。


おそらく。


いや、ほぼ間違いなく。


王都の民も気づいている。


孤児院の子供達も気づいている。


セバスも、ハルトも、リンも、院長も、全員気づいている。


だが、目の前の女王だけが、本気で気づかれていないと思っている。


「……光栄、です」


セリアは、かろうじてそう答えた。


本当に光栄なのかどうかは、分からなかった。


エミリアは満足げに頷く。


「では、茶番は終わりよ」


その一言で、空気が変わった。


先ほどまでの妙な軽さが、すっと消える。


エミリアは祭壇の前に立ち、セリアを真正面から見据えた。


「あなたは私に問うたわね」


――あなたは、一体、何なのですか。


セリアは、無意識に胸元の聖印を握りしめる。


エミリアの声は、静かだった。


「なら、答えてあげる」


エミリアは、祭壇の前でまっすぐに立つ。


月の紋章を背に。


邪神と呼ばれる女神の仮設礼拝堂で。


しかし、その口から出た言葉は、信仰の言葉ではなかった。


「私は、世界を救う者ではない」


セリアは息を呑む。


「神の使徒でもない」


エミリアの瞳は揺れない。


「正義の味方でもない」


黒い外套の裾が、わずかに揺れる。


「ただ、この国を私の望む形に作り替える者よ」


「望む形……」


セリアは、かすれた声で繰り返した。


「ええ」


エミリアは頷く。


「私は、私の好きなようにやっているだけ」


「好きなように……?」


「そうよ」


エミリアは当然のように言った。


「美しいものを増やす。醜いものを潰す。役に立つ者を拾う。腐った仕組みを壊す。私の下僕達が、最高の働きをできるように整える」


それは、神の慈悲ではない。


王の責務と言うにも、あまりにも傲慢だった。


「清潔な水を用意するのも」


エミリアは続ける。


「腹を満たす食料を回すのも」


「病人を運ばせるのも」


「職人に仕事を与えるのも」


「子供に手洗いを教えるのも」


「全部、私がそうしたいからしているだけよ」


「そんな……」


セリアは思わず声を漏らす。


「それでは、あまりにも……」


「身勝手?」


エミリアが先に言った。


セリアは答えられなかった。


「そうね。身勝手よ」


エミリアは微笑んだ。


「私は悪の女王だもの」


セリアの指が、聖印を強く握る。


何度も聞いた言葉。


悪の女王。


けれど、その悪の女王は、村人を死なせず、子供達を飢えさせず、セリアが救えなかった少年を立たせた。


エミリアは、少しだけ首を傾げる。


「では、今度は私が聞くわ」


「……何を」


「あなたは、何がしたかったの?」


その問いは、鋭くも静かだった。


怒鳴られたわけではない。


責められたわけでもない。


だが、セリアの胸の奥に、まっすぐ届いた。


「私は……」


セリアは言葉を探す。


何がしたかったのか。


太陽神に仕えること。


神殿の使命を果たすこと。


異端を見極めること。


邪神に染まった国を調べること。


それらは、今の自分に与えられた役目だった。


けれど。


本当にやりたかったことは。


セリアの脳裏に、古い孤児院の光景が浮かんだ。


冷たい床。


薄い毛布。


分け合った黒パン。


夜中に熱を出した子供のそばで、眠らずに祈っていた神父。


食事が足りない日は、自分の分を子供達に分けていた手。


泣いている子供の背を、何度も何度も撫でてくれた手。


「セリア」


そう呼ぶ、優しい声。


「お前はきっと、多くの人を救える」


それが、始まりだった。


太陽神の教義ではない。


神殿の階位でもない。


偉い神官の言葉でもない。


セリアが憧れたのは。


あの人のように、泣いている誰かのそばに立つことだった。


「私は……」


セリアの声が震える。


「神父様のように、なりたかった」


エミリアは何も言わない。


ただ、セリアを見ている。


「私みたいに、家族を失って泣く子供を減らしたかった」


言葉が溢れる。


止まらなかった。


「病で、飢えで、貧しさで、大切な人を奪われる人をなくしたかった」


胸の奥に閉じ込めていたものが、こぼれていく。


「救いたかったんです」


セリアの声は、かすれていた。


「誰かを」


「私のように、不幸になる人を」


「家族を失い、泣くしかない人を」


「私は……助けたかったんです」


静寂が落ちる。


ルミナの仮設礼拝堂。


太陽神の聖女。


悪の女王。


その二人だけが、向かい合っていた。


エミリアは、静かに口を開いた。


「なら、やればいいじゃない」


その一言は、あまりにも簡単だった。


だからこそ、セリアの胸に刺さった。


「できなかったのです……!」


思わず、声が強くなる。


「神殿には神殿の決まりがあります」


「癒しには限界があります」


「物資にも、人手にも、権限にも限りがあります」


「あの子だって……」


セリアの脳裏に、少年の顔が浮かぶ。


青白い顔。


細い腕。


自分の癒しでも完全には戻せなかった命。


「私は、あの子すら救えなかった」


「違うわ」


エミリアは即座に言った。


セリアは顔を上げる。


エミリアの声は冷たくはなかった。


けれど、容赦はなかった。


「あなたは、できない理由を与えられ続けただけよ」


「できない、理由……?」


「神殿の決まり」


エミリアは指を一本立てる。


「癒しの限界」


二本目。


「物資の不足」


三本目。


「人手の不足」


四本目。


「権限の不足」


五本目。


「そして、正しい順番」


セリアは何も言えなかった。


「あなたには足りなかった」


エミリアは言う。


「知識が」


その言葉に、セリアの肩が震えた。


「仕組みが」


「物資が」


「権限が」


「そして、それを自分の願いのために使う覚悟が」


「覚悟……」


「ええ」


エミリアは頷く。


「あなたの癒しは無意味ではなかった。リンもそう言っていたでしょう」


セリアは少年の姿を思い出す。


立っていた。


笑っていた。


自分が救えなかったはずの子が。


「でも、奇跡だけでは足りないことがある」


エミリアの声は淡々としていた。


「水が腐っているなら、水を変える」


「腹を壊すなら、原因を止める」


「食べても戻らないなら、食べられる環境を作る」


「村に置けば再発するなら、村から運ぶ」


「知らないなら、学べばいい」


「足りないなら、集めればいい」


「邪魔なら、どかせばいい」


セリアは唇を震わせる。


それは、神官の言葉ではなかった。


聖女の慈悲でもなかった。


けれど、どうしようもなく現実的だった。


「勘違いしないことね」


エミリアは静かに言った。


「太陽神の教えそのものを、頭ごなしに否定するつもりはないわ」


セリアは顔を上げる。


「……え?」


「私には虫酸が走る教えだけれどね。正しさだの、光だの、秩序だの。聞いているだけで退屈だわ」


エミリアは薄く笑った。


「でも、それを信じること自体が間違いだとは言わない」


セリアは言葉を失った。


エミリアは、太陽神の教えをすべて踏みにじると思っていた。


邪神を国教とする悪の女王なら、当然そうするのだと思っていた。


けれど、違った。


「問題は、その先よ」


エミリアの声が冷える。


「宗教に、人の意志が入り込むと、それは別物になる」


「人の……意志……?」


「ええ」


エミリアは、セリアの胸元にある聖印を見る。


「神の名を使って、自分の都合を通す者がいる」


「神の教えを使って、誰かを縛る者がいる」


「神の権威を使って、己の地位を守る者がいる」


「そして、それに従うことを信仰だと思い込む者がいる」


セリアの指が、聖印を強く握った。


「あなたはどうなの、セリア」


「私……?」


「途中から、あなたの信仰がすり替わっていたことに、自覚はないの?」


息が止まった。


エミリアは一歩近づく。


「あなたが祈ったのは、神?」


「それとも、偉い神官様?」


「神殿の規則?」


「異端審問官としての使命?」


セリアは答えられなかった。


エミリアの紫の瞳が、まっすぐにセリアを射抜く。


「それとも」


一拍。


エミリアの声が、わずかに柔らかくなる。


「あなたを救ってくれた、神父様?」


その言葉に。


セリアの中で、何かが崩れた。


自分は、何を信じていたのか。


太陽神か。


神殿か。


規則か。


使命か。


それとも。


あの寒い孤児院で、自分の手を握ってくれた神父の背中か。


セリアは、答えられなかった。


答えられないことが、答えだった。


エミリアは、そんなセリアを見つめたまま、静かに言った。


「あなたは、神を捨てなくていい」


セリアは顔を上げる。


「祈りを捨てろとも言わない」


「……」


「あなたの神父様を裏切れとも言わないわ」


その言葉に、セリアの瞳が揺れた。


「でも」


エミリアの声が、再び悪女のものへ変わる。


甘く、冷たく、逃げ場を塞ぐ声。


「あなたが本当に裏切っているのは、神ではないわ」


「……では、何を」


「自分の願いよ」


セリアは、息を呑んだ。


エミリアは、ゆっくりと手を広げる。


まるで、目の前に選択肢を並べるように。


「私なら用意できるわ」


「何を……」


「清潔な水」


エミリアは言った。


「食料」


「薬」


「医療書」


「学ぶ場所」


「人を動かす権限」


「神殿の許可を待たず、あなたが助けたいと思った者へ手を伸ばせる立場」


セリアの瞳が揺れる。


欲しかったものだった。


何度も、何度も欲しいと思ったものだった。


あの村で。


あの子の前で。


もっと知識があれば。


もっと薬があれば。


もっと水を調べる術があれば。


もっと人を動かせる力があれば。


もっと、自由に手を伸ばせたなら。


「もちろん、ただで与えるわけではないけれど」


エミリアは、悪女の笑みを浮かべた。


「私の下僕になるなら、ね」


「下僕……」


「ええ」


エミリアは当然のように頷く。


「私の国で、私の命令で、私の仕組みの中で、あなたの力を使いなさい」


「それは……」


「神殿の許可を待たない」


エミリアの声が、礼拝堂に響く。


「偉い神官様の顔色を窺わない」


「正しい順番など知らないと言い切る」


「助けたいと思ったなら、勝手に助ける」


セリアの呼吸が浅くなる。


「それは、あなたの教えでは悪かもしれないわね」


エミリアは、ゆっくりとセリアへ近づいた。


「神の言葉より、自分の願いを優先する」


「正しい順番より、目の前の命を選ぶ」


「祈るだけでは足りないなら、勝手に手を伸ばす」


その声は、誘惑だった。


命令でもあり、挑発でもあった。


セリアの中の何かを、確実に揺さぶっている。


「だから聞くわ、セリア」


エミリアは、セリアの前で足を止めた。


紫の瞳が、真正面からセリアを見据える。


「悪い子になる覚悟はあるのかしら?」


セリアは、答えられなかった。


太陽神に仕える神官として。


異端を見極める視察官として。


聖女と呼ばれた者として。


答えてはいけない問いだった。


けれど。


あの少年が、立っていた。


自分が置いてきた子が。


リンに懐き、エミリアに礼を言い、母親の隣で笑っていた。


孤児院の子供達が、笑っていた。


村人達が、生きようとしていた。


エミリアは救うとは言わない。


支配だと言う。


下僕だと言う。


悪だと言う。


それでも、その手の先には、セリアが救いたかったものがあった。


「私は……」


セリアの唇が震える。


胸元の聖印を握る手に、力がこもる。


神を捨てるわけではない。


祈りを捨てるわけではない。


神父様を裏切るわけでもない。


ただ。


自分の願いを、もう一度選ぶだけ。


セリアは、ゆっくりと顔を上げた。


エミリアが、悪女の笑みを浮かべたまま待っている。


その手は差し出されていない。


選ぶのは、セリア自身だと言うように。


セリアは、答えようと唇を開いた。


感想いただけると嬉しいです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。