ローゼンバーグ王国 視察7日目 ⑥
そのざわめきは、先ほどのハルト達のものとは違っていた。
重い空気ではない。
不安と疲労は混じっている。
だが、そこにはかすかな安堵もあった。
孤児院の門の外に、数台の荷車が止まる。
荷台には、布で包まれた者達が座っていた。
痩せた老人。
顔色の悪い女。
母親に抱かれた幼い子供。
皆、まだ弱っている。
だが、死にかけているような暗さはない。
手当を受け、清潔な布をかけられ、湯気の立つ器を大事そうに抱えている者もいる。
その先頭から、小柄な白髪の少女が駆け込んできた。
リンだった。
白い髪を揺らし、薬箱を肩にかけ、薄汚れた外套をまとっている。
疲れているはずなのに、その足取りは早い。
リンは庭の中にエミリアの姿を見つけた瞬間、ぱっと顔を輝かせた。
「エミリア様!」
エミリアは眉を動かした。
「今日はエミィよ」
「……エミィ様!」
リンは即座に言い直した。
早かった。
迷いがない。
エミリアは満足げに頷く。
「よろしい」
リンは胸を張った。
「命じられた村の支配、完了しました!」
セリアは、その言葉に反応する。
支配。
また、その言葉だ。
だが、リンの背後には、弱った村人達がいる。
病人。
子供。
老人。
彼らは怯えているようには見えない。
むしろ、王都に辿り着いたことで、ようやく息をついた者達のようだった。
リンは早口で報告を続ける。
「重症者はこっちに連れてきました。村に残すと再発の危険があります。水場は確認済み。簡易浄水器は設置しました。煮沸と手洗いも教えてあります。食料と石鹸は置いてきました。経過観察が必要な人は、王都で管理します」
「そう」
エミリアは当然のように頷いた。
「悪くないわ」
リンの表情が、ぱあっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
褒められた犬のようだった。
いや、セリアにはそう見えた。
リンはエミリアの言葉ひとつで、疲労を忘れたように笑っている。
その時だった。
荷車の方から、小さな足音が近づいてきた。
「リン先生」
か細い声。
リンが振り返る。
そこにいたのは、一人の少年だった。
まだ幼い。
痩せている。
頬はこけ、腕は細い。
だが、立っていた。
自分の足で。
母親らしき女性に支えられながらも、確かに歩いていた。
少年はリンのそばまで来ると、両手をぎゅっと握った。
「ありがとう」
リンは少しだけ目を丸くする。
そして、すぐに首を振った。
「ボクじゃないよ」
「え?」
「君をここまで連れてくるって決めたのは、エミリア様」
リンはエミリアを指した。
「ボクは、エミリア様の命令を実行しただけ」
少年はエミリアを見る。
黒衣の女王。
いや、今日の彼女は謎の悪女エミィだった。
少年は少しだけ緊張したように背筋を伸ばし、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます、エミィ様」
エミリアは、わずかに顎を上げた。
「勘違いしないことね」
その声は、いつものように不遜だった。
「私は、私の国の下僕が勝手に朽ちるのを許さないだけよ」
少年は意味が分からなかったらしく、首を傾げた。
けれど、すぐに笑った。
「うん。ありがとうございます」
エミリアは、なぜか少しだけ不満そうにした。
「……まあ、いいわ」
そのやり取りを見ていたセリアは、呼吸を忘れていた。
少年の顔。
青白かった頬。
細い腕。
力なく開かれていた目。
母親に抱かれていた、小さな身体。
見覚えがあった。
忘れられるはずがなかった。
あの村で。
セリアが癒しの奇跡を使った子供。
呼吸を少し楽にすることはできた。
苦痛を和らげることはできた。
顔色を、ほんのわずかに戻すこともできた。
けれど、完全には戻せなかった。
癒しても、癒しても、身体の奥から命がこぼれていくようだった。
病の根に届かない。
奇跡が届かない。
そう思った。
だから、セリアは次の巡礼先へ向かった。
神殿から与えられた使命を優先した。
あの子を、置いていった。
「……あなた」
セリアの声が震えた。
少年が振り向く。
セリアを見て、少しだけ目を丸くした。
「聖女様……?」
その呼び名が、セリアの胸を刺した。
聖女。
救えなかった自分を、少年はまだそう呼ぶ。
「どうして……」
セリアはリンへ視線を向ける。
「どうして、その子が立っているのですか」
リンの表情が、少しだけ硬くなった。
セリアは続ける。
「その子は、私の癒しでも完全には戻せなかった。呼吸を楽にすることしかできなかった。苦痛を和らげることしかできなかった」
声が強くなる。
「完全に癒せない病だったはずです。どうやって治したのですか」
リンの目が細くなる。
セリアがエミリアに暴言を吐いたことを、リンは忘れていない。
だからだろう。
その声には、わずかに棘があった。
「エミリア様を悪く言った人に、説明する義理はないと思うけど」
「リン」
エミリアが短く呼んだ。
それだけだった。
リンはすぐに姿勢を正す。
「はい、エミリア様」
「説明なさい」
「はい」
リンは不満を飲み込むように息を吐き、セリアへ向き直った。
「簡単なことです」
簡単。
その言葉に、セリアの胸がまた痛んだ。
リンは少年を見る。
「この子の身体は、病だけで弱っていたわけじゃありません」
「……どういう意味ですか」
「水です」
セリアは眉を寄せる。
「水?」
「村の水が汚れていました」
リンは淡々と言った。
「その水を飲む。腹を壊す。下す。吐く。水分が抜ける。塩も抜ける。食べても身体に残らない。体力が戻らない。弱る。さらに同じ水を飲む」
リンは小さく首を振る。
「その繰り返しです」
セリアは言葉を失った。
「病そのものは、もう抑えました」
リンは続ける。
「でも、原因はこの子の身体の中だけにあるわけじゃありません。村の水と、衛生環境です」
「……」
「だから、身体だけ整えても駄目です。また同じ水を飲めば、同じことになります」
少年の母親が、少年の肩を抱く。
リンはそちらへ優しく視線を向け、それからまたセリアを見た。
「汚れた水を止める。煮沸する。湯冷ましを飲ませる。塩と糖を少し入れた水を、匙で少しずつ飲ませる。粥やスープを少しずつ食べさせる。汚物を水場から離す。手を洗う」
リンは指折り数えるように言った。
「それをしないと、戻ります」
セリアは唇を震わせた。
それは、奇跡ではない。
神聖魔法でもない。
祈りでもない。
だが、リンの言葉は、少年がなぜ弱り続けたのかを説明していた。
セリアの奇跡が、なぜ完全には届かなかったのかを。
「……私の癒しは」
セリアは、ようやく声を出した。
「無意味だったのですか」
リンは、少しだけ目を伏せた。
そして、首を横に振った。
「無意味じゃありません」
セリアは顔を上げる。
リンは、先ほどより少しだけ柔らかい声で言った。
「あなたの癒しで、この子は命を繋いでいました。呼吸が楽になった。痛みが減った。身体も少し持ち直していた」
「なら……」
「でも、原因が残っていた」
リンの声は静かだった。
「奇跡が足りなかったんじゃないです。見ていた場所が違ったんです」
その言葉は、セリアの胸の奥を真っ直ぐに貫いた。
奇跡が足りなかったのではない。
見ていた場所が違った。
セリアは、少年を見る。
救えなかったはずの子。
自分が置いてきた子。
その子が今、立っている。
リンに懐き、エミリアへ礼を言い、母親の腕の中で小さく笑っている。
セリアは胸元の聖印を握った。
だが、そこから返ってくるのは、冷たい硬さだけだった。
エミリアが、ゆっくりと口を開く。
「病人を運ばせたのは正解ね」
リンはすぐに頷いた。
「はい。村に置いたままだと再発します」
「当然よ」
エミリアは少年を見た。
それから、連れてこられた村人達を見る。
「病を癒やすだけでは足りない」
その声は、静かだった。
「病が戻らない場所へ移す」
セリアは、エミリアを見る。
エミリアは続けた。
「腐った水を止める」
「腹を壊す原因を潰す」
「食べられるものを与える」
「清潔を覚えさせる」
「死なせない仕組みを作る」
彼女は、そこでセリアを見た。
紫の瞳が、真っ直ぐにセリアを射抜く。
「それが支配の基本よ」
救う、とは言わなかった。
助ける、とも言わなかった。
エミリアは、どこまでも悪の女王として語っている。
けれど。
その言葉の先に、少年は立っていた。
セリアが救えなかった命が。
エミリアの命令で動いたリンによって、今ここにいた。
セリアの中で、何かが崩れた。
オショ達に利用された怒り。
太陽神教の神官達が犯した悪事。
孤児院で笑う子供達。
エミリアの周りで前を向き始める民。
邪神を信仰しているのではなく、神すら利用しているように見える女王。
そして、自分が救えなかった少年。
すべてが一つに重なっていく。
「……どうして」
セリアは、かすれた声で言った。
「どうして、あなたは」
言葉が続かない。
問いは、いくつもあった。
なぜ、悪を名乗るのか。
なぜ、救済と呼ばないのか。
なぜ、支配と言いながら人を立たせるのか。
なぜ、自分にはできなかったことを、当然のようにやってしまうのか。
セリアは震える手で聖印を握りしめる。
信仰が、完全に揺らいでいた。
太陽神インティへの敬意が消えたわけではない。
神父への感謝が消えたわけでもない。
自分の祈りを否定したいわけでもない。
だが。
目の前の現実は、もう否定できなかった。
悪の女王は、世界を救わない。
そう名乗りながら。
セリアが救えなかった子供を、死なせなかった。
セリアは、エミリアを見た。
その問いは、ようやく形になった。
「あなたは……一体、何なのですか」
セリアの問いに、庭の空気が止まった。
孤児院の子供達の声も。
村から運ばれてきた者達の息遣いも。
縄で縛られた神官達の震えも。
すべてが、一瞬だけ遠くなったように感じられた。
エミリアは、すぐには答えなかった。
黒衣の外套をまとった謎の悪女。
エミィ。
そう名乗っていたはずの少女は、しばらくセリアを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「その問いに答えるには、ここは少し騒がしすぎるわね」
「……え?」
セリアが顔を上げる。
エミリアは周囲を見渡した。
子供達。
村人達。
リン。
ハルト。
セバス。
院長。
そして、縄で縛られたオショ、クージ、ケン。
「ハルト」
「はい」
「そのゴミを連れて行きなさい。子供達の前に長く置いておくものではないわ」
「了解しました」
ハルトが短く答え、騎士達へ指示を飛ばす。
縛られた三人が引き立てられていく。
オショは何かを言いかけたが、騎士に肩を押さえられ、言葉を飲み込んだ。
クージはまだ信じられないという顔をしていた。
ケンは、エミリアと目が合うことを恐れるように、うつむいたまま震えている。
エミリアは次にリンを見た。
「リン」
「はい、エミリア様」
「村人達を診なさい。弱っている者から順に。水と粥も用意させること」
「はい!」
リンはすぐに動き出した。
先ほどまでエミリアに褒められたことで輝いていた顔が、医師のものへ変わる。
村人達の顔色を見て、呼吸を見て、手足の冷えを確かめ、必要な者を孤児院の中へ運ばせていく。
「院長」
「はい、エミィ様」
老女院長が、穏やかに頭を下げた。
「子供達を中へ。食事の続きをさせなさい。悪の幹部見習いに空腹は禁物よ」
「承知いたしました」
「えー!」
「まだ見たい!」
「エミィさん、悪い人やっつけないの?」
「いいから行きなさい」
エミリアは子供達へ指を向ける。
「命令を聞けない悪の幹部など、三流よ」
「三流はやだ!」
「行く!」
「手洗いしたら、また黒薔薇ソーセージ食べていい?」
「石鹸を使った者から許可するわ」
「やったー!」
子供達は一斉に孤児院の中へ駆けていく。
その後ろを、院長と手伝いの者達が慌てて追いかけた。
混乱していた庭が、エミリアの一言で整理されていく。
誰が何をするべきか。
何を先に片付けるべきか。
どこに誰を置くべきか。
すべてが、当然のように決められていく。
セリアは、それを呆然と見ていた。
この少女は、悪を名乗る。
支配と言う。
下僕と言う。
救うとは、言わない。
それなのに。
彼女が命じると、人が動く。
子供達は守られ、病人は運ばれ、騎士は罪人を連れていき、リンは治療を始める。
祈りではなかった。
奇跡でもなかった。
だが、確かにそこには、人を死なせないための秩序があった。
エミリアは外套を翻す。
「来なさい、セリア」
「どこへ……」
「この孤児院の奥に、仮設の礼拝堂があるわ」
「礼拝堂……?」
「ええ」
エミリアは薄く笑った。
「あなたが知りたいというなら、そこで聞かせてあげる」
一拍置いて、彼女は言った。
「私が何者なのかを」
セリアは、無意識に胸元の聖印を握った。
太陽神インティの印。
自分を導いてきた光。
けれど、その指先は、わずかに震えていた。
セリアは何も言わず、エミリアの後を追った。
孤児院の奥。
そこに、仮設の礼拝堂はあった。
まだ正式な神殿ではない。
壁は新しく、木の香りが残っている。
祭壇も簡素なものだった。
高価な装飾はない。
黒と白の布。
月を象った小さな紋章。
その周囲に、控えめな花が飾られているだけ。
けれど、そこには確かに、外の庭とは違う静けさがあった。
セリアは入口で足を止めた。
ルミナ神殿。
月と死と転生を司る女神。
太陽神教において邪神と呼ばれてきた存在。
その女神の礼拝堂に、自分は今、足を踏み入れようとしている。
胸の奥がざわついた。
それでも、足は止まらなかった。
セリアは、ゆっくりと中へ入る。
エミリアは祭壇の前まで進むと、そこで振り返った。
「さて」
その声に、セリアは身構える。
いよいよ。
この悪の女王が、自分の正体を語るのだと思った。
エミリアは外套を軽く翻し、どこか得意げに胸を張る。
「ここには、他に聞いている者もいないわね」
「……はい」
「ならば、特別に真実を明かしてあげる」
セリアは息を呑んだ。
エミリアの紫の瞳が、静かに細められる。
「実は私は――」
「……」
「謎の悪女エミィではなく、ローゼンバーグ王国女王、エミリアなのよ!」
仮設礼拝堂に、沈黙が落ちた。
セリアは、しばらく何も言えなかった。
やがて、かろうじて口を開く。
「……存じておりました」
「なっ……」
今度は、エミリアが固まった。
紫の瞳が、わずかに見開かれる。
「なぜ……」
「え?」
「なぜ、この完璧な変装を見破れたの……?」
セリアは、返答に困った。
髪型。
眼鏡。
外套。
名前。
確かに、普段とは少し違う。
けれど。
どこからどう見ても、エミリアだった。
「その……」
セリアは言葉を選ぶ。
「雰囲気が、とても……エミリア様でしたので」
「雰囲気……」
エミリアは口元に手を当て、真剣に考え込んだ。
まるで、国家の命運を左右する難題に直面したかのような顔だった。
「まさか、そこまで見抜くとは」
「……はい?」
エミリアは、ゆっくりとセリアを見る。
その瞳には、妙な感心が宿っていた。
「さすがね、セリア」
「え?」
「太陽神教から遣わされた視察官。しかも異端を見極める者。やはり、観察眼は侮れないということね」
「いえ、あの」
「普通の民ならば、謎の悪女エミィの正体には気づけないはず」
「……」
「けれど、あなたは見抜いた」
エミリアは満足げに頷いた。
「認めましょう。あなたは優秀だわ」
セリアは、何も言えなかった。
おそらく。
いや、ほぼ間違いなく。
王都の民も気づいている。
孤児院の子供達も気づいている。
セバスも、ハルトも、リンも、院長も、全員気づいている。
だが、目の前の女王だけが、本気で気づかれていないと思っている。
「……光栄、です」
セリアは、かろうじてそう答えた。
本当に光栄なのかどうかは、分からなかった。
エミリアは満足げに頷く。
「では、茶番は終わりよ」
その一言で、空気が変わった。
先ほどまでの妙な軽さが、すっと消える。
エミリアは祭壇の前に立ち、セリアを真正面から見据えた。
「あなたは私に問うたわね」
――あなたは、一体、何なのですか。
セリアは、無意識に胸元の聖印を握りしめる。
エミリアの声は、静かだった。
「なら、答えてあげる」
エミリアは、祭壇の前でまっすぐに立つ。
月の紋章を背に。
邪神と呼ばれる女神の仮設礼拝堂で。
しかし、その口から出た言葉は、信仰の言葉ではなかった。
「私は、世界を救う者ではない」
セリアは息を呑む。
「神の使徒でもない」
エミリアの瞳は揺れない。
「正義の味方でもない」
黒い外套の裾が、わずかに揺れる。
「ただ、この国を私の望む形に作り替える者よ」
「望む形……」
セリアは、かすれた声で繰り返した。
「ええ」
エミリアは頷く。
「私は、私の好きなようにやっているだけ」
「好きなように……?」
「そうよ」
エミリアは当然のように言った。
「美しいものを増やす。醜いものを潰す。役に立つ者を拾う。腐った仕組みを壊す。私の下僕達が、最高の働きをできるように整える」
それは、神の慈悲ではない。
王の責務と言うにも、あまりにも傲慢だった。
「清潔な水を用意するのも」
エミリアは続ける。
「腹を満たす食料を回すのも」
「病人を運ばせるのも」
「職人に仕事を与えるのも」
「子供に手洗いを教えるのも」
「全部、私がそうしたいからしているだけよ」
「そんな……」
セリアは思わず声を漏らす。
「それでは、あまりにも……」
「身勝手?」
エミリアが先に言った。
セリアは答えられなかった。
「そうね。身勝手よ」
エミリアは微笑んだ。
「私は悪の女王だもの」
セリアの指が、聖印を強く握る。
何度も聞いた言葉。
悪の女王。
けれど、その悪の女王は、村人を死なせず、子供達を飢えさせず、セリアが救えなかった少年を立たせた。
エミリアは、少しだけ首を傾げる。
「では、今度は私が聞くわ」
「……何を」
「あなたは、何がしたかったの?」
その問いは、鋭くも静かだった。
怒鳴られたわけではない。
責められたわけでもない。
だが、セリアの胸の奥に、まっすぐ届いた。
「私は……」
セリアは言葉を探す。
何がしたかったのか。
太陽神に仕えること。
神殿の使命を果たすこと。
異端を見極めること。
邪神に染まった国を調べること。
それらは、今の自分に与えられた役目だった。
けれど。
本当にやりたかったことは。
セリアの脳裏に、古い孤児院の光景が浮かんだ。
冷たい床。
薄い毛布。
分け合った黒パン。
夜中に熱を出した子供のそばで、眠らずに祈っていた神父。
食事が足りない日は、自分の分を子供達に分けていた手。
泣いている子供の背を、何度も何度も撫でてくれた手。
「セリア」
そう呼ぶ、優しい声。
「お前はきっと、多くの人を救える」
それが、始まりだった。
太陽神の教義ではない。
神殿の階位でもない。
偉い神官の言葉でもない。
セリアが憧れたのは。
あの人のように、泣いている誰かのそばに立つことだった。
「私は……」
セリアの声が震える。
「神父様のように、なりたかった」
エミリアは何も言わない。
ただ、セリアを見ている。
「私みたいに、家族を失って泣く子供を減らしたかった」
言葉が溢れる。
止まらなかった。
「病で、飢えで、貧しさで、大切な人を奪われる人をなくしたかった」
胸の奥に閉じ込めていたものが、こぼれていく。
「救いたかったんです」
セリアの声は、かすれていた。
「誰かを」
「私のように、不幸になる人を」
「家族を失い、泣くしかない人を」
「私は……助けたかったんです」
静寂が落ちる。
ルミナの仮設礼拝堂。
太陽神の聖女。
悪の女王。
その二人だけが、向かい合っていた。
エミリアは、静かに口を開いた。
「なら、やればいいじゃない」
その一言は、あまりにも簡単だった。
だからこそ、セリアの胸に刺さった。
「できなかったのです……!」
思わず、声が強くなる。
「神殿には神殿の決まりがあります」
「癒しには限界があります」
「物資にも、人手にも、権限にも限りがあります」
「あの子だって……」
セリアの脳裏に、少年の顔が浮かぶ。
青白い顔。
細い腕。
自分の癒しでも完全には戻せなかった命。
「私は、あの子すら救えなかった」
「違うわ」
エミリアは即座に言った。
セリアは顔を上げる。
エミリアの声は冷たくはなかった。
けれど、容赦はなかった。
「あなたは、できない理由を与えられ続けただけよ」
「できない、理由……?」
「神殿の決まり」
エミリアは指を一本立てる。
「癒しの限界」
二本目。
「物資の不足」
三本目。
「人手の不足」
四本目。
「権限の不足」
五本目。
「そして、正しい順番」
セリアは何も言えなかった。
「あなたには足りなかった」
エミリアは言う。
「知識が」
その言葉に、セリアの肩が震えた。
「仕組みが」
「物資が」
「権限が」
「そして、それを自分の願いのために使う覚悟が」
「覚悟……」
「ええ」
エミリアは頷く。
「あなたの癒しは無意味ではなかった。リンもそう言っていたでしょう」
セリアは少年の姿を思い出す。
立っていた。
笑っていた。
自分が救えなかったはずの子が。
「でも、奇跡だけでは足りないことがある」
エミリアの声は淡々としていた。
「水が腐っているなら、水を変える」
「腹を壊すなら、原因を止める」
「食べても戻らないなら、食べられる環境を作る」
「村に置けば再発するなら、村から運ぶ」
「知らないなら、学べばいい」
「足りないなら、集めればいい」
「邪魔なら、どかせばいい」
セリアは唇を震わせる。
それは、神官の言葉ではなかった。
聖女の慈悲でもなかった。
けれど、どうしようもなく現実的だった。
「勘違いしないことね」
エミリアは静かに言った。
「太陽神の教えそのものを、頭ごなしに否定するつもりはないわ」
セリアは顔を上げる。
「……え?」
「私には虫酸が走る教えだけれどね。正しさだの、光だの、秩序だの。聞いているだけで退屈だわ」
エミリアは薄く笑った。
「でも、それを信じること自体が間違いだとは言わない」
セリアは言葉を失った。
エミリアは、太陽神の教えをすべて踏みにじると思っていた。
邪神を国教とする悪の女王なら、当然そうするのだと思っていた。
けれど、違った。
「問題は、その先よ」
エミリアの声が冷える。
「宗教に、人の意志が入り込むと、それは別物になる」
「人の……意志……?」
「ええ」
エミリアは、セリアの胸元にある聖印を見る。
「神の名を使って、自分の都合を通す者がいる」
「神の教えを使って、誰かを縛る者がいる」
「神の権威を使って、己の地位を守る者がいる」
「そして、それに従うことを信仰だと思い込む者がいる」
セリアの指が、聖印を強く握った。
「あなたはどうなの、セリア」
「私……?」
「途中から、あなたの信仰がすり替わっていたことに、自覚はないの?」
息が止まった。
エミリアは一歩近づく。
「あなたが祈ったのは、神?」
「それとも、偉い神官様?」
「神殿の規則?」
「異端審問官としての使命?」
セリアは答えられなかった。
エミリアの紫の瞳が、まっすぐにセリアを射抜く。
「それとも」
一拍。
エミリアの声が、わずかに柔らかくなる。
「あなたを救ってくれた、神父様?」
その言葉に。
セリアの中で、何かが崩れた。
自分は、何を信じていたのか。
太陽神か。
神殿か。
規則か。
使命か。
それとも。
あの寒い孤児院で、自分の手を握ってくれた神父の背中か。
セリアは、答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
エミリアは、そんなセリアを見つめたまま、静かに言った。
「あなたは、神を捨てなくていい」
セリアは顔を上げる。
「祈りを捨てろとも言わない」
「……」
「あなたの神父様を裏切れとも言わないわ」
その言葉に、セリアの瞳が揺れた。
「でも」
エミリアの声が、再び悪女のものへ変わる。
甘く、冷たく、逃げ場を塞ぐ声。
「あなたが本当に裏切っているのは、神ではないわ」
「……では、何を」
「自分の願いよ」
セリアは、息を呑んだ。
エミリアは、ゆっくりと手を広げる。
まるで、目の前に選択肢を並べるように。
「私なら用意できるわ」
「何を……」
「清潔な水」
エミリアは言った。
「食料」
「薬」
「医療書」
「学ぶ場所」
「人を動かす権限」
「神殿の許可を待たず、あなたが助けたいと思った者へ手を伸ばせる立場」
セリアの瞳が揺れる。
欲しかったものだった。
何度も、何度も欲しいと思ったものだった。
あの村で。
あの子の前で。
もっと知識があれば。
もっと薬があれば。
もっと水を調べる術があれば。
もっと人を動かせる力があれば。
もっと、自由に手を伸ばせたなら。
「もちろん、ただで与えるわけではないけれど」
エミリアは、悪女の笑みを浮かべた。
「私の下僕になるなら、ね」
「下僕……」
「ええ」
エミリアは当然のように頷く。
「私の国で、私の命令で、私の仕組みの中で、あなたの力を使いなさい」
「それは……」
「神殿の許可を待たない」
エミリアの声が、礼拝堂に響く。
「偉い神官様の顔色を窺わない」
「正しい順番など知らないと言い切る」
「助けたいと思ったなら、勝手に助ける」
セリアの呼吸が浅くなる。
「それは、あなたの教えでは悪かもしれないわね」
エミリアは、ゆっくりとセリアへ近づいた。
「神の言葉より、自分の願いを優先する」
「正しい順番より、目の前の命を選ぶ」
「祈るだけでは足りないなら、勝手に手を伸ばす」
その声は、誘惑だった。
命令でもあり、挑発でもあった。
セリアの中の何かを、確実に揺さぶっている。
「だから聞くわ、セリア」
エミリアは、セリアの前で足を止めた。
紫の瞳が、真正面からセリアを見据える。
「悪い子になる覚悟はあるのかしら?」
セリアは、答えられなかった。
太陽神に仕える神官として。
異端を見極める視察官として。
聖女と呼ばれた者として。
答えてはいけない問いだった。
けれど。
あの少年が、立っていた。
自分が置いてきた子が。
リンに懐き、エミリアに礼を言い、母親の隣で笑っていた。
孤児院の子供達が、笑っていた。
村人達が、生きようとしていた。
エミリアは救うとは言わない。
支配だと言う。
下僕だと言う。
悪だと言う。
それでも、その手の先には、セリアが救いたかったものがあった。
「私は……」
セリアの唇が震える。
胸元の聖印を握る手に、力がこもる。
神を捨てるわけではない。
祈りを捨てるわけではない。
神父様を裏切るわけでもない。
ただ。
自分の願いを、もう一度選ぶだけ。
セリアは、ゆっくりと顔を上げた。
エミリアが、悪女の笑みを浮かべたまま待っている。
その手は差し出されていない。
選ぶのは、セリア自身だと言うように。
セリアは、答えようと唇を開いた。
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