第八章 違和感の正体
夜は、ずいぶん深くなっていた。
テーブルの上には、読み終えた手紙の束が広がっている。
封筒。
便箋。
霞へ、霞へ、と繰り返し書かれた名前。
私はしばらく動けずにいた。
胸の奥が、静かに重い。
二十年分の手紙。
探していた人。
ずっと。
返事のないまま。
それでも、書き続けていた。
私はゆっくり息を吐いた。
そして、視線をテーブルの端へ向ける。
そこに置いてあるもの。
写真。
桜の下の写真。
叔母と、櫻井さん
私はそっと手に取った。
さっきまでとは違う気持ちで、もう一度見る。
叔母の笑顔。
そして、その隣の男性。
柔らかく笑っている。
私はその顔を、じっと見つめた。
さっきから、胸の奥で何かが引っかかっている。
それは、葬儀のときから感じていた違和感だった。
(……似てる)
その言葉が、頭の中で浮かぶ。
私は、写真を少し顔に近づけた。
目元。
眉の形。
鼻筋。
そして、笑ったときの口元。
心臓が、少しだけ強く鳴る。
(……やっぱり)
私の頭の中に、ある顔が浮かぶ。
弟。
蓮。
私の弟。
私とよく似ているけれど、少しだけ目元が違う。
笑うと、目尻が柔らかく下がる。
そして。
その顔が、写真の男性と――
どこか似ている。
私は思わず首を振った。
(まさか)
そんなこと、あるわけがない。
でも。
目が離せない。
もう一度見る。
写真。
櫻井さん
そして、頭の中の弟の顔。
並べる。
比べる。
胸の奥が、ざわざわする。
(……似てる)
偶然だろうか。
有名俳優。
そして、弟。
関係があるなんて、考える方がおかしい。
それでも。
私の胸の奥に、小さな疑問が生まれていた。
(もし……)
もし、仮に。
本当に。
私はそこで思考を止めた。
心臓が少し早くなる。
写真をテーブルに置く。
両手を顔に当てる。
深く息を吸う。
そして、思う。
(確かめないと)
このままでは、きっと眠れない。
翌日。
市役所の建物の前で、私は立ち止まっていた。
空は曇っている。
春なのに、風が少し冷たい。
人が行き交う。
普通の場所。
でも、私の心臓は少し速く打っていた。
(私、何してるんだろう)
自分でも分かっている。
戸籍を見るなんて。
普通は、そんな理由では来ない。
でも。
写真の顔。
弟の顔。
櫻井さん。
叔母。
すべてが、頭の中で繋がろうとしていた。
私は深く息を吸い、建物の中に入った。
役所特有の、乾いた空気。
番号札を取る。
椅子に座る。
人の声が遠くに聞こえる。
でも、私の耳にはほとんど入らない。
ただ、自分の心臓の音だけが響いている。
番号が呼ばれた。
私は立ち上がる。
窓口へ行き、書類を書く。
手が少し震えている。
戸籍。
家族の記録。
軽い気持ちで見るものではない。
それでも、私は提出した。
少し待つ。
数分のはずなのに、時間が長く感じる。
やがて、職員が戻ってきた。
「こちらになります」
差し出された紙。
私は受け取る。
紙は軽い。
でも、手の中で妙に重い。
私はゆっくり視線を落とした。
名前。
父。
母。
そして――
蓮。
弟の名前。
私の視線が、その行で止まる。
そこに書かれている文字。
養子。
私の思考が止まった。
もう一度読む。
養子縁組。
日付。
その日付は――
蓮が生まれた年。
胸の奥で何かが崩れる音がした。
(……嘘)
でも、文字は消えない。
私はゆっくり紙を折りたたんだ。
外へ出る。
冷たい空気が頬に触れる。
頭の中がざわつく。
蓮は。
弟は。
養子だった。
つまり――
誰かの子ども。
そして、私の頭の中に浮かぶ。
叔母。
櫻井さん。
あの写真。
似ている顔。
すべてが、一本の線になろうとしている。
私は思う。
(聞くしかない)
その夜。
リビングにはテレビの音が流れていた。
父はソファに座っている。
母はキッチンに立っている。
いつもの光景。
でも、私の胸は静かに緊張していた。
私はテーブルの上に紙を置いた。
戸籍のコピー。
母の目が、それを見る。
一瞬で顔色が変わった。
沈黙。
父がゆっくり息を吐く。
私は静かに言った。
「蓮って」
声は落ち着いていた。
でも胸の奥は震えている。
「養子なの?」
誰もすぐには答えない。
時計の秒針の音だけが響く。
やがて、母が椅子に座った。
手をぎゅっと握りしめている。
そして、小さく言った。
「…霞ちゃんの子よ」
私の心臓が強く鳴った。
母は続ける。
「霞ちゃんね」
少し言葉を探す。
「妊娠したの」
私は黙って聞く。
母の声は静かだった。
「でも、その時」
「病気が見つかった」
私の胸が締め付けられる。
「重い病気だった」
父が低く言った。
「すぐに治療しないと危ないって言われた」
母は小さく頷く。
「でも霞ちゃんは」
少しだけ目を閉じる。
「子どもを産むって言った」
私の胸が痛む。
母は続ける。
「何を言っても」
「絶対に諦めなかった」
その時の叔母の顔を思い出しているのか、母の声は少し震えていた。
「すごく……強い目をしてた」
父が言う。
「だから、俺たちは決めた」
私は父を見る。
父は静かに続けた。
「協力するって」
母が言った。
「出産してすぐ、治療を始めた」
私の胸が締め付けられる。
「抗がん剤」
母の声は小さい。
「だから……」
「子どもは育てられなかった」
私の視線が戸籍に落ちる。
母は続けた。
「だから」
「蓮は、私たちの子として育てたの」
私の胸の奥で、静かに何かが揺れる。
叔母。
櫻井さん。
蓮。
すべてが繋がる。
私は小さく聞いた。
「本当の父親は……?」
父と母が顔を見合わせる。
そして父が言った。
「知らない」
私は顔を上げる。
父は続ける。
「霞ちゃんは、何も言わなかった」
母も静かに言った。
「誰にも」
私の胸が痛む。
二十年分の手紙。
ずっと探していた人。
それでも。
叔母は、何も伝えなかった。
私は思う。
(どうして)
どうして。
その人に。
子どもが生まれたことを言わなかったのだろう。
そして。
私の頭に、もう一つの光景が浮かぶ。
葬儀の日。
静かに立っていた男性。
櫻井さん。
もし。
もし――
私の胸が強く鳴る。
(知らないんだ)
自分に子どもがいるかもしれないことを…




