第七章 3つの鍵
未帆さんと別れたあと、私はしばらくその場から動けなかった。
ベンチの横に立ったまま、手の中の袋を見つめている。
薄い紙袋。
中には、今日受け取ったものが入っている。
麻里さんから渡された古い手帳。
遥さんから渡されたジュエリーボックス。
そして未帆さんから預かった、たくさんの手紙と写真の束。
どれも軽いはずなのに、妙に重く感じた。
風が吹く。
桜の花びらが、肩に落ちる。
私はゆっくり息を吐いた。
(帰ろう)
心のどこかで、分かっていた。
今日、ここから先に進むには、
この袋の中身と向き合わなければならない。
⸻
夜。
家の中は静かだった。
両親はまだ帰っていない。
リビングの明かりだけがついている。
私はテーブルの上に袋を置いた。
少しの間、手を伸ばせない。
ただ、袋を見ている。
(霞叔母さん)
あまり多くを語らなかった人。
穏やかで、静かで。
どこか、少し遠い人。
でも。
その人が、誰かを深く愛していた。
それだけは、もう分かっていた。
私は、ゆっくり袋を開けた。
最初に取り出したのは、手帳だった。
麻里さんが渡してくれたもの。
表紙は濃い茶色で、角が少し擦り切れている。
何度も開かれてきた跡。
私はそっとページを開く。
中には、びっしりと文字が書かれていた。
予定。
講義。
アルバイト。
買う本のメモ。
時々、短い日記のようなものもある。
そして、ところどころに。
名前があった。
“櫻井さん”
“ヒロさん”
最初は苗字だけだった。
ページが進むにつれて、名前が変わる。
距離が少しずつ近くなっているのが分かる。
私の胸が少し温かくなる。
(本当に……)
恋をしていたんだ。
そのことが、文字の隙間から伝わってくる。
でも、今日は手帳ではない。
私はそれを閉じた。
次に取り出す。
小さな箱。
ジュエリーボックス。
遥さんが渡してくれたもの。
蓋は深い紺色のベルベット。
少し色が褪せている。
私はゆっくり蓋を開けた。
中には、ネックレスと。
そして――
指輪。
小さくて、シンプルなデザインだった。
細い銀のリング。
派手ではない。
でも、綺麗だった。
私はそれを手に取る。
冷たい。
長い時間、誰の指にも触れなかった冷たさ。
(これ……)
遥さんは言っていた。
「多分、恋人からもらった指輪だと思う」
その言葉が頭に浮かぶ。
私はしばらく指輪を見つめていた。
そして、そっと元に戻す。
ジュエリーボックスを閉じる。
残ったのは、最後の束だった。
未帆さんが渡してくれたもの。
手紙。
封筒の束。
紐でまとめられている。
かなりの量だった。
私は、それをそっとほどく。
紙の匂いがする。
少し古い、インクと紙の匂い。
封筒には、すべて同じ名前が書かれている。
霞
差出人。
櫻井景光
私の心臓が少し早くなる。
(こんなに……)
ざっと見ただけでも、数十通はある。
いや、それ以上かもしれない。
私は一番上の封筒を手に取る。
日付を見る。
二十年前。
叔母と櫻井さんが付き合っていた頃。
私はゆっくり封を開けた。
中には、便箋が一枚。
少し癖のある字。
でも、丁寧な字だった。
私は息を整えて、読み始める。
⸻
霞へ
この前貸してくれた本、読み終わりました。
正直に言うと、最初は難しかったです。
でも、最後まで読んだら少し分かった気がしました。
霞が好きそうな話だなって思いました。
今度会ったとき、感想聞いてください。
あと、この前の映画も面白かった。
霞が途中で泣いてたの、ばれてました。
⸻
私は思わず笑った。
その文章は、とても自然だった。
俳優が書いた手紙というより。
ただの、恋人への手紙。
私は次の手紙を見る。
少し日付が進んでいる。
二人が付き合い始めて、少し経った頃
手紙の内容は、どれも日常だった。
本。
映画。
食事。
散歩。
些細なこと。
でも、その言葉の端々に、霞への想いが見える。
私は何通も読み続けた。
時間を忘れて。
ページをめくる。
封筒を開く。
読み続ける。
そして。
あるところで、手が止まった。
封筒の日付。
十七年前。
それは。
多分、二人が別れた頃の時期だと思われる…
私の胸が少し強く鳴る。
封を開ける。
中には、便箋が二枚入っていた。
私はゆっくり読む。
⸻
霞へ
最近、全然会えないですね。
忙しいのかな。
もし時間があったら、本屋で待ってます。
前に会ったあの書店。
また、本落とすかもしれないけど。
⸻
私は、思わず息を止めた。
(……え?)
次の手紙を開く。
日付は、少し後。
⸻
霞へ
書店に行きました。
でも会えませんでした。
仕事、忙しいのかな。
また行きます。
⸻
私の指が少し震える。
さらに次の手紙。
⸻
霞へ
今日も書店に行きました。
いませんでした。
少し心配しています。
⸻
私の胸の奥が、きゅっと痛くなる。
さらに次。
さらに次。
手紙は続いていた。
内容は少しずつ変わっていく。
⸻
霞へ
最近、連絡が取れません。
何かあったんでしょうか。
もし僕が何かしたなら、教えてください。
⸻
さらに時間が進む。
⸻
霞へ
探しています。
大学にも行きました。
でも、いませんでした。
どうしても一度会いたいです。
⸻
私の目が熱くなる。
さらに進む。
手紙は、まだ続いていた。
年が変わっている。
それでも、同じ宛先。
霞へ
⸻
霞へ
書店に手紙を置かせてもらっています。
もし読んでいたら、返事をください。
⸻
私は、そこで理解した。
未帆さんが言っていたこと。
出会った書店に手紙を書いていた。
櫻井さんは、叔母を探していた。
ずっと。
でも、会えなかった。
私は次の封筒を見る。
日付。
十年前。
まだ、手紙は続いている。
私は震える手で開けた。
⸻
霞へ
元気ですか。
僕はまだ俳優を続けています。
最近、少し忙しいです。
でも、書店にはたまに行きます。
あの場所に行くと、あなたを思い出します。
⸻
私の視界が少し滲む。
ページの端がぼやける。
そして。
一番最後の手紙。
日付。
三年前。
私はゆっくり開ける。
そこには、短い文章が書かれていた。
⸻
霞へ
もしこの手紙が届くことがあるなら。
一度だけ、会えませんか。
理由は聞きません。
ただ、元気な顔が見たいです。
それだけでいい。
⸻
私の手が止まった。
部屋の中は静かだった。
時計の音だけが聞こえる。
私は、封筒の山を見る。
これだけの手紙。
二十年分。
叔母は、一度も返事を書いていない。
私は、そっと手紙を胸の前に置いた。
胸の奥が、静かに痛む。
そして、思う。
(どうして)
どうして、叔母は返事を書かなかったのだろう。
どうして。
この人を。
ずっと探していた人を。
会わずにいたのだろう。
私の視線は、テーブルの上にある写真に落ちた。
桜の下。
叔母と櫻井さんが笑っている。
その笑顔は、あまりにも幸せそうだった。
私は小さく呟く。
「……会いたかったんじゃないの?」
答える人はいない。
ただ、窓の外で、夜の風が静かに桜を揺らしていた。




