第六章 恋の相手とは?
公園には、柔らかな夕方の光が落ちていた。
昼の明るさとは違う、少しだけ静かな色の光。
桜の花びらは、昼間よりゆっくりと落ちている気がした。
私は、膝の上に置いた写真をじっと見ていた。
叔母。
そして、その隣に立つ男性。
背の高い人だった。
少しだけ肩をすくめるように笑っている。
優しそうな目をしている。
写真の中の二人は、桜の下に立っていた。
光が柔らかくて、まるで時間が止まっているようだった。
未帆さんは、その写真を横から静かに見ていた。
そして、ふっと小さく息を吐く。
「懐かしいな」
その声は、遠い時間を撫でているようだった。
私は写真から目を離さないまま聞いた。
「この人が……」
言葉を探す。
「Sさん、ですか?」
未帆さんは頷いた。
「うん、櫻井さん」
私は写真をもう一度よく見る。
整った顔立ちだった。
でも、派手な感じではない。
むしろ穏やかで、静かな人に見える。
どこか優しそうで。
……どこか、見覚えがある気もする。
(……あれ?)
私は眉を寄せる。
写真を少し顔に近づける。
もう一度見る。
横顔。
笑い方。
目元。
胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。
(どこかで……)
見たことがあるような。
でも、思い出せない。
未帆さんはその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。
「…気づいたかな?」
私は顔を上げる。
「え?」
未帆さんは肩をすくめる。
「まあ、無理ないか」
そう言って、空を見上げる。
桜の枝が、夕方の風に揺れている。
未帆さんは、少し考えるようにしてから言った。
「櫻井さんね」
私はまた写真を見る。
未帆さんは続けた。
「…俳優だったの。」
その言葉は、さらりと落ちた。
私の思考が、一瞬止まる。
「……俳優?」
未帆さんは頷く。
「うん」
私はもう一度写真を見る。
俳優。
そう言われて見ると――
確かに、顔立ちは整っている。
でも。
私の頭の中には、テレビで見る俳優の姿が浮かぶ。
もっと華やかで、もっと遠い存在。
写真の中の人は、どちらかというと普通に見える。
「でもね」
未帆さんは言う。
「霞と出会った頃は、まだそこまで有名じゃなかった」
私は少しほっとする。
「そうなんですか」
「うん」
未帆さんは頷く。
「人気出始めた頃」
私は写真を見つめ続ける。
【櫻井さん】
その名前を、心の中で繰り返す。
(櫻井….景光……)
その時だった。
私の頭の中で、何かが引っかかった。
(……あれ?)
その名前。
聞いたことがある。
どこで?
テレビ?
映画?
私の眉が少し寄る。
未帆さんはそれに気づいていた。
「思い出した?」
私はゆっくり首を振る。
「でも……」
写真をもう一度見る。
目元。
笑い方。
そして、少しだけ首を傾けた。
(待って)
私はスマートフォンを取り出す。
指が少しだけ迷う。
そして、検索画面に打ち込む。
「櫻井 景光」
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
画面に表示された写真を見て――
私の目が大きく見開かれた。
「え……」
思わず声が漏れる。
未帆さんは少し笑っている。
私はスマートフォンの画面と、手元の写真を見比べる。
何度も。
何度も。
画面には、映画のポスター。
ドラマの場面写真。
インタビュー記事。
そこに写っている人は――
同じ人だった。
私の口が少し開く。
「……え」
声が震える。
「この人……」
未帆さんは静かに言った。
「うん」
私は画面を見つめる。
その名前の横には、たくさんの記事が並んでいた。
“日本映画界を代表する俳優”
“長年第一線で活躍”
“ベテラン俳優”
私は、もう一度写真を見る。
叔母と並んで笑っている人。
その人が。
(え……?)
胸の奥がざわつく。
「この人……」
声が小さくなる。
「こんなに有名な人……?」
未帆さんは少し笑った。
「今はね」
私はまだ画面を見ている。
若い頃の写真もある。
今の写真もある。
年齢を重ねた顔。
でも、目は変わらない。
あの写真の目と同じだった。
私の心臓が少し早くなる。
(そんな人が……)
叔母と。
本屋で。
本を落として。
出会って。
私の頭の中で、さっき聞いた話がぐるぐる回る。
静かな書店。
雪崩のように落ちる本。
慌てる俳優。
それを手伝う叔母。
なんだか、現実味がない。
未帆さんは私の様子を見て、少し優しく笑った。
「霞ね」
「最初、俳優だって知らなかった」
私は顔を上げる。
「やっぱり……」
未帆さんは頷く。
「本屋の人、って呼んでた」
私は思わず笑ってしまう。
「本屋の人」
「うん」
未帆さんも笑う。
「櫻井さん、よく本持ってたから」
私はまた写真を見る。
叔母は、柔らかく笑っていた。
あまり見たことのない笑顔だった。
私は思う。
(霞おばさん……)
こんな顔、してたんだ。
未帆さんは静かに言った。
「二人ね」
「楽しそうだった」
私は黙って写真を見ている。
未帆さんは続ける。
「でも」
少しだけ言葉を選ぶ。
「途中から」
未帆さんはそこで止まった。
私は顔を上げる。
未帆さんは空を見ている。
桜の枝が揺れている。
少しだけ、長い沈黙。
私は小さく聞いた。
「どうして……」
声が弱い。
「別れたんですか?」
未帆さんは少しだけ笑った。
でも、その笑顔は少し曖昧だった。
「それはね」
肩をすくめる。
「私も知らない」
私は黙る。
未帆さんは写真を見る。
叔母と櫻井さん
桜の下の二人。
未帆さんは静かに言った。
「でもね」
私を見る。
「なんとなく」
少し遠い目をする。
「分かる気はする」
私の胸が強く鳴る。
未帆さんはそれ以上言わなかった。
ただ、小さく笑った。
「霞ね」
「ちゃんと恋愛してたんだよ」
その言葉は、優しく、確信に満ちていた。
私は写真を見つめる。
叔母の隣の人。
ベテラン俳優。
そして――
葬儀の日。
遠くで立っていた人。
私の胸の奥で、ひとつの疑問が静かに生まれていた。
(どうして)
どうして。
その人は、あの日――
あんなに静かな顔で、叔母の葬儀に来ていたのだろう。




