第四章 思い出と友人
数日が過ぎていた。
葬儀の日の慌ただしさは消え、家の中にはいつもの生活の音が戻ってきている。
それでも、どこか空気が薄い。
何か一つ、大きなものがなくなった場所のように。
私は階段の前で立ち止まった。
視線の先には、二階の廊下がある。
その奥にある扉。
叔母の部屋。
あの日、アルバムを見つけてからずっと、胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
あの写真。
「Sと、春の日」
あの一行の文字が、時々ふと頭に浮かぶ。
けれど、その正体はまだ分からない。
私は静かに息を吐いた。
今日は、きちんと整理をしようと思っていた。
遺品整理というほど大げさなものではない。
ただ、部屋を片付けて、本をまとめて、必要なものを分けるだけ。
それでも――
その作業には、少し勇気が必要だった。
私は階段を上る。
一段一段、ゆっくりと。
廊下の窓から春の光が差し込んでいた。
桜の花びらが、風に乗って遠くに舞っているのが見える。
私は扉の前に立った。
そして、そっと開ける。
叔母の部屋は、あの日と変わらず静かだった。
窓のカーテンが揺れている。
本棚。
ベッド。
机。
何も変わっていないのに、そこにいるはずの人だけがいない。
そのことを改めて感じて、私の胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……片付けよう」
小さく呟く。
私は机の前に座った。
引き出しを一つずつ開けていく。
文房具。
メモ帳。
古い切り抜き。
叔母の細い字があちこちに残っている。
私はそれを一枚ずつ眺めながら、静かに仕分けていった。
残すもの。
家族に渡すもの。
処分するもの。
時間はゆっくりと流れていく。
窓の外の光も少しずつ角度を変えていた。
私は机の横に置かれていた小さな箱を見つけた。
木製の箱だった。
少し古い。
私はそれを持ち上げる。
軽い。
蓋を開けた。
中には、何枚もの写真が入っていた。
アルバムではない。
ばらばらの写真。
私は一枚手に取った。
そこには、叔母が写っていた。
若い頃の霞。
髪を下ろして笑っている。
そして、その周りには数人の女性がいた。
皆楽しそうに笑っている。
公園のような場所だろうか。
後ろには桜の木が見える。
私は写真をじっと見つめた。
(……友達かな)
叔母は、あまり自分の話をしない人だった。
本の話はよくしてくれた。
漫画の話も、映画の話も。
でも、自分の若い頃の話は、あまり聞いたことがない。
私は次の写真を取る。
そこにも同じ女性たちが写っていた。
カフェ。
旅行先のような場所。
神社仏閣。
どの写真でも、叔母は同じ人たちと笑っている。
その笑顔は、私が知っている叔母とは少し違っていた。
もっと自由で、もっと無邪気で。
私の胸に、小さな感情が浮かんだ。
(こんな顔もするんだ)
少し驚きながら、少し嬉しくなる。
その時だった。
写真の裏に、文字があることに気づいた。
私はひっくり返す。
そこには名前が書かれていた。
「麻里、遥、未帆と」
私はその文字を指でなぞった。
麻里。
遥。
未帆。
聞いたことがあるような、ないような名前。
私は他の写真も裏返してみた。
「未帆の誕生日」
「遥の家で」
「麻里と霞」
いくつもの写真に、その名前が書かれていた。
私はしばらく写真を見つめていた。
叔母には、こんなふうに一緒に笑う友達がいた。
そのことが、なんだか嬉しかった。
でも同時に、思う。
(私はこの人たちを知らない)
叔母の大切な時間を、一緒に過ごしていた人たち。
それなのに、私はその名前さえ知らなかった。
私は写真を重ねる。
そして、ゆっくり立ち上がった。
やはり、両親に聞くしかない。
一階から夕飯の匂いがしていた。
私は階段を降りる。
リビングでは、母がテーブルを拭いていた。
「菫?どうしたの?」
私は少し迷ってから、写真を差し出した。
「この人たち、誰?」
母は写真を受け取る。
一瞬だけ目を見開いた。
「ああ……」
懐かしそうな声だった。
「霞ちゃんの友達よ」
私は椅子に座る。
「名前、分かる?」
母は写真をよく見た。
そして、一人ずつ指差した。
「この人はわかるでしょ?麻里さん。薫さんの奥さん」
「この人が柏木遥さん」
「それから……今井未帆さん」
私はその名前を頭の中で繰り返す。
麻里。
遥。
未帆。
写真の笑顔が、それぞれの名前と重なった。
「仲良かったの?」
私が聞く。
母は少し笑った。
「すごくね」
「霞ちゃんはあまり外に出る人じゃなかったけど、この人たちとはよく会ってたわ」
私は少し前のめりになった。
「今も連絡取れる?」
母は驚いた顔をした。
「どうして?」
私は少しだけ言葉を選ぶ。
「……霞叔母さんのこと、もっと知りたい」
母は私の顔を見た。
その視線は、少しだけ優しかった。
「そうね」
母は頷く。
「きっと、喜ぶと思う」
そして引き出しからスマートフォンを取り出した。
「麻里さんの連絡先ならあるわ」
私の胸が静かに高鳴る。
叔母の知らない時間。
その中にいた人たち。
もしかしたら――
Sのことも知っているかもしれない。
私は写真を見つめた。
叔母は笑っていた。
友達に囲まれて。
春の光の中で。
その笑顔の奥に、どんな物語があったのか。
私は、まだ知らない。
けれど確実に、その物語へ近づき始めていた。




