第三章 面影
私は写真をそっとアルバムに戻した。
「Sと、春の日」
その文字が、まだ指先に残っている気がした。
S。
誰なのだろう。
叔母の人生の中で、
こんなふうに写真を残される人。
けれど、私はその名前を聞いたことがなかった。
親戚でもない。
家族の話題にも出たことがない。
それなのに――
葬儀の時、
叔母の写真をじっと見つめていた、あの人。
私はアルバムを閉じた。
机の引き出しに戻す。
部屋を見渡す。
本棚。
ベッド。
机。
どこを見ても、叔母の気配が残っている。
けれど、そこにいるはずの人はもういない。
私は静かに息を吐いた。
「……帰ろう」
小さく呟き、部屋を出る。
廊下は夕方の色に染まっていた。
窓の外の桜が、薄く揺れている。
私はゆっくり歩き出した。
頭の中には、さっきの写真が残っている。
叔母と、あの男性。
穏やかな笑顔。
そして――
どこかで見たことがあるような顔。
私は足を止めた。
さっき感じた違和感が、また胸の奥で動いた。
誰かに似ている。
でも、誰なのだろう。
記憶を探ろうとしたその時だった。
「姉ちゃん?」
声がした。
顔を上げる。
廊下の向こうから、弟が歩いてきた。
弟の蓮。
制服のシャツの袖をまくりながら、こちらを見ている。
「霞おばちゃんの部屋?」
私は小さく頷いた。
「うん」
弟は軽く息を吐いた。
「整理してたの?」
「少しだけ」
弟は私の前まで来る。
そして、ふと首を傾げた。
「何かあった?」
私は、答えようとして――
言葉を止めた。
その瞬間だった。
弟の顔を見た時。
私の胸の奥で、何かが重なった。
写真の男性。
葬儀場の男性。
そして――
今、目の前にいる弟。
私の心臓が、静かに跳ねた。
(……あ)
似ている。
ほんの少しだけ。
目元。
横顔。
雰囲気。
今まで意識したことはなかった。
でも――
写真の男性の顔を思い出すと、
弟の面影が重なる。
私は、弟をじっと見つめてしまった。
弟は不思議そうに笑う。
「何?」
私は慌てて視線を逸らした。
「……なんでもない」
「変なの」
弟は肩をすくめた。
「夕飯できてるって」
「うん」
弟はそのまま階段の方へ歩いていく。
私は、その背中を見送った。
胸の奥に、さっきの違和感が残っている。
写真の男性。
S。
そして、弟。
私はゆっくりと息を吐いた。
(……気のせいだよね)
そう思おうとする。
でも、胸の奥の小さな引っかかりは消えなかった。
私は階段の手すりに手を置いた。
ふと考える。
この写真の人は誰なのだろう。
叔母にとって、どんな人だったのだろう。
その答えを、両親に聞けば分かるかもしれない。
でも――
私は首を振った。
聞けない。
今の父や母に、そんなことは聞けない。
葬儀が終わったばかりだ。
まだ家の中には、静かな悲しみが残っている。
叔母の話をするだけでも、空気が重くなる。
その中で、
「この人は誰?」
なんて聞くことはできない。
私は階段を降りながら、考えていた。
もし誰にも聞けないのなら――
自分で調べるしかない。
叔母の部屋には、本がたくさんあった。
メモも、アルバムもあった。
きっと、まだ何か残っている。
叔母が生きてきた時間の中に。
私は、ゆっくり息を吸った。
胸の奥に、小さな決意が生まれる。
(……調べてみよう)
叔母の過去。
Sという人。
そして――
あの写真に残された、春の日のことを。
私はまだ知らなかった。
その小さな好奇心が、
叔母の人生の中に隠されていた、
長い物語へと繋がっていくことを。
そしてそれが、
自分自身の運命にも、
静かに触れていくことを。
桜の花びらが、窓の外でひとひら舞った。
物語は、まだ始まったばかりだった。




