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第三十一章 会いたかった君 Sside

部屋の中は、やけに静かだった。


物音ひとつない。


時計の針の音だけが、


やけに大きく響いている。


テーブルの上に置かれたものに、


視線を落とす。


古い手帳。


数枚の写真。


それだけ。


たったそれだけなのに、


妙に重く感じる。


(……ここに、全部ある)


まだ、手を伸ばせずにいた。


触れてしまえば、


戻れなくなる気がして。


知らなかった頃の自分には、


もう戻れない。


でも——


(……もう、戻る気もないか)


小さく息を吐いて、


ようやく手を伸ばす。


まず、写真を一枚。


若い頃の自分と、彼女。


どこかぎこちなくて、


でも確かに笑っている。


(……こんな顔、してたんだな)


少しだけ、口元が緩む。


今よりも、ずっと無防備で、


ずっと真っ直ぐだった頃。


その隣で笑う彼女は、


自分の知っている彼女と同じで、


でも少し違う。


(……この顔は、知ってる)


自分といる時の笑顔。


安心したような、


少しだけ柔らかい表情。


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


でも、それだけじゃない。


次の写真に、手を伸ばす。


病室。


ベッドの上の彼女。


その隣にいる、小さな子どもたち。


姪と——


(……弟くん、か)


視線が、止まる。


その写真の中の彼女は、


少し痩せていて、


でも、笑っていた。


あの時と同じ。


自分が知っている、


あの“明るい顔”。


(……そうか)


ゆっくりと理解が降りてくる。


この時間も、


ちゃんと彼女の人生だった。


自分がいなかった時間。


でも、


確かに存在していた時間。


その中に——


(……いたんだな)


自分の知らない“家族”が。


指先に、少しだけ力が入る。


写真を持つ手が、


ほんのわずかに震える。


(……まさか)


思ってもいなかった。


「……自分に、子どもがいたなんてな」


ぽつりと、言葉がこぼれる。


声にして、


ようやく実感が追いつく。


驚き。


戸惑い。


そして——


ほんの少しの、喪失感。


(……知らなかった)


知るはずもなかった。


でも、


知らなかったという事実が、


静かに胸に刺さる。


あの時の別れ。


あの言葉。


「……だから、か」


ふと、あの日の彼女の表情が浮かぶ。


何かを決めたような目。


揺れない声。


(……全部、分かってたんだな)


自分の未来も、


自分の性格も、


全部。


だから、選んだ。


自分を遠ざけることを。


(……ほんと、敵わない)


小さく、笑う。


苦笑に近い。


でも、嫌な感情じゃない。


むしろ——


どこか誇らしい。


次の写真に手を伸ばす。


最近のもの。


姪と、弟くん。


成長した姿。


何気ない笑顔。


その中に、


確かに“今”がある。


(……ちゃんと、生きてる)


それだけで、


十分だった。


会えない。


関われない。


それでも——


(……それでいい)


自然と、そう思えた。


彼女の子だ。


きっと、


自分で選べる。


自分の人生を。


誰に決められるでもなく、


ちゃんと、自分の足で。


それが分かるから、


無理に踏み込む必要はない。


(……俺は)


写真から、ゆっくりと視線を上げる。


部屋の中は変わらない。


でも、


自分の中は、少しだけ変わっていた。


空っぽだった場所。


どこか欠けていた感覚。


それが、


少しずつ埋まっていく。


完全じゃない。


でも——


確かに、何かが満ちていく。


(……知らなくてよかった、とは思わないな)


むしろ逆だ。


遅くてもいい。


形が歪でもいい。


知れてよかった。


「……ありがとな」


誰に向けた言葉かは、


自分でも分かっていた。


彼女に。


そして——


あの子に。


手帳に、視線を落とす。


まだ、全部は読んでいない。


でも、そこにあるものは分かる。


彼女の本音。


言えなかった想い。


選ばなかった未来。


(……ちゃんと、受け取るよ)


ゆっくりと、手帳を開く。


ページをめくる音が、


静かに部屋に響く。


(……また、頑張れるな)


ふと、そう思う。


仕事も。


これからの時間も。


ただこなすだけじゃない。


意味を持って、進める気がした。


(……見ててくれよ)


心の中で、呟く。


届くかどうかは分からない。


それでもいい。


「……遠くから、見守るのが一番か」


声に出すと、


不思議としっくりきた。


それが、


今の自分にできる、


一番正しい在り方だと思えた。


窓の外に目を向ける。


夜の街。


光が、静かに揺れている。


その中で、


一人、深く息を吐く。


もう、空っぽじゃない。


少しだけ満たされた心で、


俺は、


静かにページをめくり続けた。

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