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第三十章 葉桜の下、はじめての涙

数ヶ月ぶりに来たその場所は、


あの日と同じようで、


少しだけ違って見えた。


空気はやわらかく、


風は静かで、


時間だけが、確かに進んでいた。


(……葉桜だ)


見上げた先にある桜の木は、


もう満開ではなかった。


花びらはほとんど散り、


代わりに、やわらかな緑の葉が揺れている。


あの日は、あんなに咲いていたのに。


(……当たり前か)


小さく、苦く笑う。


どんな気持ちでいても、


季節は、ちゃんと進む。


手に持っていた花を、


ゆっくりと墓前に置く。


叔母が好きだった色。


明るくて、やさしい色。


(……似合う)


そう思えた。


石に触れる。


指先に伝わる冷たさ。


それが、現実を静かに突きつけてくる。


しばらく、何も言えなかった。


ただ、そこに立っているだけ。


でも——


(……来たよ)


心の中で呟いて、


目を閉じる。


そして、ゆっくりと口を開く。


「……あの人に、会ってきたよ」


声は、思ったよりも穏やかだった。


「霞叔母ちゃん」


名前を呼ぶと、


胸の奥が少しだけ揺れる。


「ずっと、会いたかったみたいだよ」


あの人の表情が浮かぶ。


壊れそうで、


でも、ちゃんと立っていた姿。


「……ちゃんと、想ってた」


その事実が、


今も胸の中に残っている。


少し、間が空く。


風が葉を揺らす。


「……あと、ごめんね」


ぽつりと零れる。


「秘密も、伝えたの」


迷ったことも、


怖かったことも、


全部思い出す。


「でも……」


息を吸う。


「知らずにいるのは、寂しすぎると思ったから」


そして、静かに続ける。


「ちゃんと、受け止めてたよ」


あの人は逃げなかった。


だからこそ、


伝えてよかったと、今は思える。


沈黙が落ちる。


私は、少しだけ視線を落とす。


胸の奥に残っていた言葉を、


ゆっくりと外に出す。


「……今更だけど」


「一緒に歩む未来、選んでもよかったんじゃない?」


風が吹く。


葉が揺れる。


「……きっと、この未来よりも」


「幸せな時間、あったんじゃないの?」


問いかけても、


答えは返ってこない。


分かってる。


それでも——


(……聞きたかった)


でも、その直後に浮かぶのは、


病室の光景。


本のページをめくる音。


優しい声。


「……でも」


少しだけ笑う。


「病室の霞叔母ちゃんは、ずっと明るくて」


「優しくて、本が大好きで」


あの時間は、


確かに“幸せ”だった。


「私が知ってる霞叔母ちゃん」


それは、嘘じゃない。


「……あの時間が」


喉の奥が、きゅっと締まる。


「ずっと続いてほしかった」


言葉にした瞬間、


胸の奥が、強く揺れる。


「……あの場所が、恋しいよ」


その一言で——


何かが、崩れた。


(……あ)


自分でも分かった。


今まで、ずっと堰き止めていたもの。


泣けなかった理由。


あの日、


何も感じきれなかった理由。


それはきっと——


(……終わってなかったから)


叔母のことを、


ちゃんと理解できていなかったから。


どこかで、


“まだ続きがある”と思っていたから。


でも——


(……終わったんだ)


ちゃんと、


知った。


ちゃんと、


届けた。


ちゃんと、


繋がった。


その瞬間、


心のどこかで張り詰めていた糸が、


ぷつんと切れる。


視界が、揺れる。


ぼやける。


(……あれ)


頬に、何かが触れる。


温かい。


ゆっくりと、


一筋の涙が落ちる。


「……あ……」


思わず、声が漏れる。


自分でも、信じられなかった。


(……泣いてる)


あの日、


泣けなかった自分が、


今、泣いている。


一度溢れたものは、


もう止まらなかった。


ぽろぽろと、


次々に涙が零れる。


声は出ない。


ただ、


静かに、でも確かに。


ずっと溜め込んでいたものが、


全部、流れていく。


寂しさも、


後悔も、


知らなかった時間への悔しさも、


全部。


涙と一緒に、ほどけていく。


その時、


風が吹いた。


葉桜が、大きく揺れる。


さらさらと、


葉が舞い落ちる。


まるで、


包み込むみたいに。


(……返事、みたい)


そう思った。


“もういいよ”って。


“ちゃんと届いてるよ”って。


そんな風に、


言われた気がした。


私は、涙を拭いながら、


空を見上げる。


ぼやけた視界の向こうに、


やわらかな光。


(……やっと)


胸の奥で、静かに呟く。


(……ちゃんと、泣けた)


それは、


悲しいだけの涙じゃなかった。


ちゃんと、


大切だった証。


ちゃんと、


愛していた証。


私は、もう一度だけ、


墓石に触れる。


さっきよりも、


少しだけあたたかく感じた。


「……また来るね」


涙で少し掠れた声。


でも、


ちゃんと届く気がした。


背を向けて歩き出す。


もう振り返らない。


それでも——


ちゃんと、繋がっていると分かっているから。


風が、やさしく背中を押した。

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