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第二十九章 繋がった想い

櫻井さんの言葉を聞いたあとも、


しばらく、何も言えなかった。


静かな空気が、テーブルの上に落ちている。


でも、不思議と苦しくはなかった。


さっきまで感じていた緊張や、


胸の奥に張りついていた不安が、


少しずつほどけていく。


(……終わったのかな)


ふと、そんなことを思う。


ここに来るまで、


ずっと何かに追われていた気がする。


知らなきゃいけない。


伝えなきゃいけない。


ちゃんと届けなきゃいけない。


その一つひとつが、


今、ようやく終わった気がした。


でも——


まだ、少しだけ迷いが残っていた。


(……どうしよう)


指先が、無意識にカップの縁をなぞる。


この人と、


もう関わることはないのかもしれない。


それが自然だと思う。


むしろ、その方がいいのかもしれない。


でも——


(……それで、いいのかな)


心のどこかが、引っかかる。


叔母と、この人を繋ぐものは、


もう私しかいない。


その事実が、


少しだけ重くて、


少しだけ大切に思えた。


(……でも)


相手は、有名人だ。


簡単に連絡なんて取れる相手じゃない。


踏み込んでいい距離なのかも分からない。


聞いてしまっていいのか、


それすらも迷う。


言葉が、喉の奥で止まる。


何度か、口を開きかけて、


やめる。


その繰り返し。


(……やっぱり)


諦めようとした、その時。


「……何かあったら」


不意に、櫻井さんが口を開いた。


少しだけ驚いて顔を上げる。


「連絡、取れるようにしとく?」


その言葉に、


一瞬、思考が止まる。


(……え)


まさか、


向こうから言われるとは思っていなかった。


驚きと同時に、


胸の奥が、じんわりと温かくなる。


櫻井さんは、少しだけ柔らかい表情で続ける。


「プラベと仕事用で分けてるから」


さらりとした言い方。


でも、その内容は特別だ。


「プラベの方に連絡してくれるかな?」


ほんの少しだけ、


間を置く。


「さっきの約束を、させてくれるならだけど」


あの言葉。


“節目の時に、写真をもらえたら”


その約束。


それを、ちゃんと覚えていてくれている。


(……ああ)


胸の奥が、少しだけ熱くなる。


この人は、


ちゃんと“繋がる形”を選んでくれたんだ。


無理のない距離で。


壊さない形で。


「……はい」


自然と、頷いていた。


迷いは、もうなかった。


差し出されたスマートフォン。


そこに、自分の連絡先を打ち込む。


指先が、少しだけ震えている。


でも、それは不安じゃない。


どちらかといえば、


安心に近いものだった。


(……この人は、大丈夫だ)


俳優としての櫻井じゃない。


今、目の前にいるのは、


どこか親戚の叔父のような、


静かで、優しい人。


その存在に、


少しだけ救われる。


連絡先を交換し終えて、


お互いに、自然と立ち上がる。


特別な言葉は、なかった。


「じゃあ」


「はい」


それだけ。


でも、それで十分だった。


店を出て、


少しだけ歩いて、


それぞれの方向に進む。


振り返らなかった。


振り返らなくても、


ちゃんと分かっていたから。


(……もう、会わないかもしれないな)


ふと、そんなことを思う。


連絡先はある。


でも、


きっと頻繁に連絡を取る関係ではない。


節目の時に、


写真を送るくらい。


それくらいの距離。


でも——


(……それでいい)


そう思えた。


無理に繋がらなくてもいい。


無理に近づかなくてもいい。


ちゃんと、


繋がるべき形で繋がったから。


空を見上げる。


やわらかい光が、広がっている。


(……終わった)


いや、


終わったというより——


(……届いた)


時間をかけて、


遠回りして、


やっと。


叔母の想いが、


あの人に届いた。


その事実が、


胸の奥に、静かに残る。


(……よかった)


本当に、


そう思えた。


叔母の人生は、


私が見ていたものだけじゃなかった。


病院の中だけじゃなかった。


本を読んでくれる、


優しい人だけじゃなかった。


ちゃんと、


恋をしていた。


誰かを愛して、


愛されていた。


その時間が、


確かにあった。


(……それだけで)


十分だった。


あの辛い闘病生活の中で、


支えになっていたものがあったのだと思う。


だから、あんな風に笑えたのかもしれない。


だから、最後まで強くいられたのかもしれない。


私は、ゆっくりと息を吸う。


胸の奥が、


少しだけ軽い。


今まで感じていた重さが、


嘘みたいに消えている。


空に向かって、


小さく呟く。


「……霞叔母ちゃんみたいに」


風が、少しだけ吹く。


優しく、頬を撫でる。


「強い人になりたいな」


あの人みたいに、


誰かを想って、


守れる人に。


「……愛し合える人、見つけたい」


自分でも、


少し照れくさい言葉。


でも、今は素直に言えた。


悲しみだけじゃない。


ちゃんと、


あたたかいものが残っている。


それが、


何よりの証だった。


空は、どこまでも広くて、


どこか、あの人の笑顔に似ている気がした。

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