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第二章 残された写真

夕方の光が、廊下の奥まで細く伸びていた。


家の中は静かだった。

昼間まで親戚や知人が出入りしていたのに、今はその気配だけが残っている。


私は、廊下の突き当たりにある部屋の前に立っていた。

葬儀が終わってから、この扉を開けるのは初めてだった。


父も母も言っていた。


「整理は急がなくていい」


でも、私はなぜか、どうしてもこの部屋に入りたかった。


ここには、叔母の時間が残っている。


そんな気がしていた。


私はゆっくりとドアノブを回した。


小さな音を立てて扉が開く。


叔母の部屋は、静かだった。


窓から差し込む夕方の光が、床の上に細く伸びている。


その光の中で、カーテンがゆっくり揺れていた。


私は部屋の入り口で立ち止まった。



胸の奥に、小さな緊張が生まれる。


私はゆっくりと一歩、部屋の中に入った。


床が小さくきしむ。


その音が、妙に大きく聞こえた。


この部屋には、叔母の時間が残っている。


そんな気がする。


窓際のベッド。

机の上の本。

壁一面の本棚。


どこを見ても、本ばかりだった。


小説、詩集、漫画、童話、エッセイ。


叔母は、よく言っていた。


――本の中には、いろんな世界があるのよ。


私は、本棚の前に立つ。


背表紙を指でなぞる。


懐かしいタイトルが並んでいる。


『星の王子さま』

『銀河鉄道の夜』

そして――


『美女と野獣』


私はその本を手に取った。


ページを開く。


紙の匂いが、ふわりと漂った。


その瞬間、幼い頃の記憶がよみがえる。


叔母のベッドの横に座り、

絵本を読んでもらっていた時間。


――この場面、菫好きでしょう?


ベルが野獣の城の図書室に入る場面。


高い天井まで続く本棚。


壁一面の本。


私は目を輝かせて言った。


――すごい……


叔母は優しく笑っていた。


――本ってね、世界を広げてくれるの。


私は、そっと本を閉じた。


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


そして、少しだけ寂しくなる。


私は机の方へ歩いた。


引き出しを開ける。


ペン。

メモ帳。

付箋。


叔母の文字が残っている。


「この作家好き」

「この文章、綺麗」


私は小さく息を吐いた。


一番下の引き出しを開ける。


そこには、古いアルバムが入っていた。


少し色褪せた表紙。


私はそれを机の上に置いた。


アルバムを開く。


家族写真が並んでいる。


若い頃の父。

母。

親戚。


ページをめくる。


まためくる。


その時だった。


一枚の写真で、手が止まった。


叔母が写っていた。


今よりずっと若い。


長い髪を後ろでまとめて、柔らかく笑っている。


そして、その隣に――


一人の男性が立っていた。


私は、自然と写真に顔を近づけた。


背の高い男性。


穏やかな表情。


叔母の方を見て、少しだけ笑っている。


二人の距離は近かった。


とても自然に。


まるで、ずっと一緒にいる人のように。


私の胸が、わずかにざわついた。


「……誰だろう」


写真の中の男性は、見覚えがあるような気がした。


でも、思い出せない。


私はじっと写真を見つめる。


その時だった。


ふと、頭の奥に浮かんだ光景があった。


白い花。


静かな葬儀場。


祭壇の中央に置かれた、叔母の写真。


そして――


少し離れた場所で、じっとそれを見つめていた男性。


誰とも話さず、ただ静かに立っていた人。


私の胸が、どくんと鳴る。


「……あの人」


写真の男性をもう一度見る。


若い顔。


でも、目元。


横顔。


あの静かな雰囲気。


思い出の中の男性と、重なる。


私はゆっくり息を吸った。


「……同じ人?」


確信はない。


でも、胸の奥がざわつく。


あの人は、誰だったのだろう。


親戚でも、知り合いでもない。


でも、長い時間、叔母の写真を見ていた。


まるで――


何かを思い出すように。


私は、もう一度写真を見つめた。


すると、ふと別の違和感が浮かんできた。


さっきとは違う感覚。


葬儀の男性とは、また別の。


「……あれ?」


私は写真を少し離して見る。


男性の顔。


目元。


口元。


どこか、誰かに似ている。


とても近い誰か。


でも、誰なのか思い出せない。


私は眉をひそめた。


写真を見つめる。


記憶を探る。


けれど、答えは出てこない。


ただ、胸の奥に小さな引っかかりだけが残る。


「……誰だろう」


私は写真を裏返した。


そこには小さな文字が書かれていた。


「Sと、春の日」


私はその文字を指でなぞる。


S。


その一文字が、静かに胸の奥に沈んでいく。


窓の外では、風が吹いていた。


桜の花びらが、夕暮れの空に舞っている。


私は写真をもう一度見つめた。


S。


叔母は、この人とどんな時間を過ごしていたのだろう。


私はまだ知らなかった。


この写真が、

叔母の人生の中で、

誰にも語られなかった物語へと繋がっていることを。


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