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第二十七章 知らなかった時間

言葉にした瞬間、胸の奥が軋んだ。


「…子どもに関しては教えて欲しかった。」


それは、責めるつもりで言った言葉じゃない。


でも、


言わずにはいられなかった。


(……本音だ)


ずっと胸のどこかに引っかかるであろう言葉。


今、ここで出さなければ、


きっと一生、澱のように残る。


「……君の傍にいれる未来でも、俺は良かったんだ」


自分でも驚くくらい、素直に出た。


取り繕う余裕なんて、もうない。


俳優としての言葉じゃない。


ただの、一人の男の言葉。


あの頃の自分を思い出す。


仕事が楽しくて、


評価されることが嬉しくて、


次の現場、次の役、


ただ前だけを見ていた。


(……浮かれてたな)


そう言ってしまえば、それまでだ。


でも、それが嘘じゃなかったのも事実だった。


「……でも」


言葉が、少しだけ途切れる。


「彼女は、それを望まなかった」


静かに、受け入れる。


自分ではなく、


“自分の未来”を選んだ人。


「……あの当時は、人気が出始めて」


自然と、視線が遠くなる。


「仕事も、楽しいと思ってたから」


その時の感情が、鮮明に蘇る。


忙しさの中の充実感。


求められている実感。


(……全部、見えてたんだろうな)


あの人は。


何も言わなくても。


全部。


「それを、見破ってたんだろうね」


小さく、息を吐く。


苦笑にも似た感情が、わずかに混じる。


(……敵わないな)


最後まで。


ほんとうに。



「……れ、弟に会いたいですか?」


その問いが、静かに届く。


一瞬、思考が止まる。


(……会いたいか)


考えるまでもない。


答えは、すぐに出る。


でも——


それをそのまま口にすることは、


違う気がした。


「……会いたくないと言えば、嘘になる」


正直に言う。


それ以外の答えはない。


会ってみたい。


どんな顔をしているのか。


どんな声で話すのか。


何が好きで、


どんな風に笑うのか。


知りたい。


全部。


(……でも)


その先に進もうとした瞬間、


別の感情が、それを止める。


「ただ」


言葉を、慎重に選ぶ。


「それは、俺の自己満足だ」


はっきりと、自分で線を引く。


望むことと、


許されることは、違う。


(……遅すぎたんだ)


自分が関わるべき時間は、


もう終わっている。


知らなかったという事実は、


免罪符にはならない。


「弟くんの決断に、異論はない」


その言葉に、迷いはなかった。


悲しさはある。


でも、それ以上に——


納得している。


(……ちゃんと育ってる)


自分がいなくても。


ちゃんと。


それが、何よりの答えだった。


少しだけ、間を置く。


それでも、どうしても消えないものがある。


「……ただ」


もう一度、口を開く。


「たまに、節目の時に写真がもらえたら」


そこまで言って、言葉を止める。


それ以上は、望まない。


望めない。


「それで、いいかな」


静かに、付け足す。


自分でも分かる。


それが、精一杯の願い。


それ以上は、踏み込んではいけない。


(……知らなかった頃には、戻れない)


それは、もうどうしようもない。


知ってしまった以上、


何もなかったことにはできない。


でも——


「……彼女のように」


ふと、言葉がこぼれる。


あの人の姿が浮かぶ。


遠くから、


何も言わずに、


ただ見守るような在り方。


「見守りたいかな」


それが、


今の自分にできる、唯一の形。


「今更、父親だと名乗る気はないから」


自嘲気味に、少しだけ笑う。


資格がない、とは言わない。


でも、


その役割を奪うつもりもない。


(……もう、いるからな)


その場所には、


ちゃんと誰かがいる。


それでいい。


それがいい。



視線が、テーブルに落ちる。


古い手帳。


そして、弟の写真。


そこにあるのは、


自分が知らなかった時間。


触れられなかった人生。


櫻井さんの手が、ゆっくりと伸びる。


手帳に、そっと触れる。


指先に伝わる、紙の感触。


少しだけ、ざらついた表紙。


(……ここに、全部ある)


あの人の想い。


言えなかった言葉。


選ばなかった未来。


そのすべてが、ここに残っている。


「……これ」


声が、少しだけ低くなる。


「貰ってもいいか?」


確認するように。


でも、その奥には、


確かな“欲しい”という感情がある。


写真にも、視線が移る。


弟の写真。


まだ、ちゃんと見れていなかった。


でも、今は違う。


ゆっくりと、それを手に取る。


視線を落とす。


(……ああ)


一瞬で、分かる。


血の繋がりなんて、


理屈じゃなくて、


もっと直感的なものだと。


(……似てるな)


どこが、と言われても説明できない。


でも、確かに。


自分の中にある何かと、


重なる部分がある。


胸の奥が、静かに揺れる。


(……生きてる)


その事実が、


何よりも大きかった。


指先が、ほんの少しだけ強くなる。


でも、すぐに力を抜く。


壊さないように。


奪わないように。


ただ——


受け取るだけ。


それでいい。


櫻井さんは、ゆっくりと息を吐いた。


胸の中にあるものは、


まだ整理なんてできていない。


これからも、


ずっと続くのかもしれない。


それでも——


(……繋がった)


遅すぎたとしても。


形が歪んでいても。


確かに、


ここで繋がった。


それだけは、


間違いなかった。

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