第二十六章 想いを綴る
私の言葉が、すべて終わったあと。
空気は、静かに止まっていた。
何かが壊れたわけじゃない。
でも——
確実に、元には戻らない何かがそこにあった。
櫻井さんは、すぐには何も言わなかった。
ただ、私を見ている。
その視線が、さっきまでと違う。
(……揺れてる)
表情は大きく変わっていないのに、
その奥にあるものが、
今にも崩れそうに見えた。
(……大丈夫じゃない)
分かる。
無理をしている。
保っている。
崩れないように、
必死に何かを押さえ込んでいる。
その静けさが、逆に痛い。
私は、何も言えない。
言葉を重ねたら、
きっと壊れてしまう。
そんな予感があった。
櫻井さんの指先が、わずかに動く。
テーブルの上で、
力を入れるでもなく、
ただ、そこにある何かを確かめるように。
「……羨ましい、か」
ぽつり、と落ちた声。
さっきの私の言葉を、なぞるように。
私は、少しだけ息を呑む。
否定するべきか、迷う。
でも——
「……はい」
小さく、でも正直に答える。
嘘はつけない。
ここで濁したくなかった。
櫻井さんは、ほんの少しだけ目を細めた。
怒っているわけじゃない。
悲しんでいるわけでもない。
ただ、何かを受け止めている顔。
「……俺も」
ゆっくりと、言葉を選ぶように。
「同じこと、思ってた」
その一言に、胸が揺れる。
(……同じ?)
思わず、視線が上がる。
櫻井さんは、写真に目を落としていた。
桜の下で笑う、叔母。
「……知らない顔だ」
小さく、呟く。
その声は、
どこか遠くを見るようで、
でも、確かに“そこ”に向けられている。
「こんな風に笑うんだな、って」
指先が、写真の縁をなぞる。
触れないように、
でも離れないように。
「……俺といる時の顔じゃない」
その言葉に、少しだけ驚く。
(……え)
思ってもいなかった言葉。
でも、櫻井さんは続ける。
「いや、違うな」
小さく、首を振る。
「俺といる時も、笑ってた」
当たり前のことを、確かめるように。
「でも——」
一拍、間が空く。
「……全部じゃない」
静かな声。
でも、その中にあるものは、深い。
(……ああ)
分かる。
言葉にしなくても。
私が感じていた“知らない顔”と、
櫻井さんが感じている“知らない顔”は、
同じじゃない。
でも——
(……同じ人を見てる)
同じ“知らなかった部分”に、
触れている。
私は、ゆっくりと口を開く。
「……私も」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「叔母のこと、全部知ってると思ってました」
病室の中の叔母。
本を読んでくれる人。
優しくて、穏やかで。
それが“全部”だと思っていた。
「でも、この写真見た時」
視線を、もう一度写真に落とす。
「……知らない人みたいで」
少しだけ、苦く笑う。
「ちょっと、寂しかったです」
その言葉は、
自然に出てきた。
隠さなくてもいいと思えたから。
櫻井さんは、何も言わない。
でも、その沈黙が、
否定じゃないことは分かる。
むしろ——
受け止めている沈黙。
「……あいつは」
櫻井さんが、ゆっくりと口を開く。
その呼び方に、
少しだけ胸が温かくなる。
「人に見せる顔、選ぶやつだったから」
遠くを見るような声。
でも、どこか懐かしさが滲んでいる。
「……全部、見せることはなかった」
その言葉に、
少しだけ救われる。
(……そっか)
私だけじゃない。
櫻井さんでさえ、
“全部”は知らなかった。
それが、あの人なんだ。
完璧じゃない。
全部を共有するわけでもない。
それでも、
ちゃんと愛して、愛されていた人。
沈黙が、落ちる。
でも、さっきまでの沈黙とは違う。
重くない。
苦しくない。
ただ——
満ちている。
言葉にしなくても、
伝わるものがある。
そんな静けさ。
櫻井さんの肩が、
ほんの少しだけ下がる。
力が、抜けたように。
(……あ)
気づく。
崩れる寸前だったものが、
今、ようやく形を保った。
完全に立ち直ったわけじゃない。
でも、
壊れずに、ここにいる。
その境目。
櫻井さんは、ゆっくりと息を吐く。
長く、深く。
「……ありがとな」
小さな声。
でも、はっきりと届く。
「教えてくれて」
その一言で、
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
私は、何も言えない。
ただ、小さく頷く。
それで十分だと思った。
もう、言葉はいらない。
この沈黙の中で、
私たちは、
同じ人の“知らなかった部分”を持ち寄って、
少しだけ、近づいた。
完全には埋まらない。
埋められない。
それでも——
(……それでいい)
そう思えた。
窓の外では、
桜が、静かに舞っている。
過去も、
想いも、
すべてを包み込むように。
私たちは、
その下で、
同じ人を思いながら、
何も言わずに、
同じ時間を共有していた。




