第二十一章 対面
弟にすべてを話した日から、数日が経った。
あの日のことは、夢みたいだった。
あまりにもあっさりと、
あまりにもまっすぐに、
受け止めてしまった弟。
(……強いな)
そう思うたびに、少しだけ救われて、
同時に、少しだけ追い詰められる。
自分も、ちゃんと向き合わなければいけないと。
⸻
スマートフォンが震えたのは、昼下がりだった。
見慣れない番号。
一瞬だけ迷ってから、通話ボタンを押す。
「……はい」
「宮野です」
その声で、背筋が伸びる。
「……あの人、来たわよ」
心臓が、一気に跳ねる。
(……来た)
言葉の意味が、少し遅れて理解される。
「手紙、渡したわ」
「……それで」
呼吸が浅くなる。
「会いたいって」
一瞬、世界の音が消えた。
「日程も、もう決まってる」
告げられる日時、時間、場所。
一つ一つを、頭の中でなぞる。
(……現実だ)
逃げ場は、もうない。
「……分かりました」
声が少しだけ震える。
それでも、言い切る。
通話が終わったあと、
しばらくその場から動けなかった。
(……会うんだ)
あの人に。
叔母が、愛した人に。
当日。
指定されたカフェの前で、足が止まる。
ガラス越しに見える店内。
人の出入り。
いつも通りの、何気ない日常。
でも、自分だけがその中に入れないような感覚。
(……怖い)
正直に、そう思う。
これから話すこと。
その重さ。
相手に与える影響。
全部が、現実として迫ってくる。
(……でも)
逃げる理由にはならない。
私は、小さく息を吐いて、ドアを開けた。
⸻
店内は、穏やかな空気に包まれていた。
コーヒーの香り。
小さな話し声。
日差しが、テーブルに柔らかく落ちている。
視線を巡らせる。
そして——
すぐに分かった。
窓際の席。
メガネとマスク。
帽子を深く被った男性。
顔の大半は隠れているのに、
なぜか一瞬で分かる。
(……この人だ)
心臓が、強く鳴る。
足が、少しだけ重くなる。
それでも、一歩ずつ近づく。
相手も、気づいたのか、
ゆっくりと顔を上げた。
視線が、合う。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬で、
空気が変わる。
「……初めまして、かな?」
落ち着いた声。
でも、その奥に、わずかな緊張が滲んでいる。
「こちらに合わせてくれて、ありがとう」
丁寧な言葉。
距離を保った言い方。
でも、その中に、確かな“待っていた”という感情がある。
私は、椅子の前で一瞬だけ止まり、
小さく頭を下げた。
「……いえ、こちらこそ」
声が、少しだけ掠れる。
「都合をつけていただいて、ありがとうございます」
座る。
テーブル越しの距離。
思っていたより、近い。
でも、遠い。
「……不審な手紙だったのに」
自分でも分かるくらい、言葉が固い。
「信じてもらえただけでも、ありがとうございます」
櫻井さんは、ほんの少しだけ視線を落とした。
そして、静かに言う。
「……ずっと探していたことが分かるだけでも」
一拍。
「俺にとっては、価値のあるものだから」
その言葉は、静かだった。
でも、重かった。
長い時間を、そのまま乗せたような言葉。
私の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(……この人は)
本当に、探していた。
ずっと。
諦めずに。
その事実が、目の前にある。
櫻井さんは、視線を少しだけ窓の外に向ける。
春の光が、横顔に当たる。
マスク越しでも分かる、わずかな影。
(……寂しそう)
その一言で片付けてしまうには、
あまりにも深い何かがあった。
失ったもの。
届かなかったもの。
知ることすらできなかった時間。
全部を抱えたまま、ここにいる。
私の喉が、詰まる。
(……言える?)
これを。
この人に。
さらに、重ねるのか。
真実を。
(……怖い)
確実に、この人を傷つける。
分かっている。
でも——
(……それでも)
言わなければいけない。
この人には、知る権利がある。
そして、それは
(叔母さんが、愛した人だから)
逃げる理由にはならない。
櫻井さんは、ゆっくりと私を見た。
その目は、まっすぐだった。
「……それで」
静かに、問いかける。
「“真実”って、何?」
核心に触れる言葉。
逃げ道は、もうない。
私は、無意識に手を握る。
指先が冷たい。
でも、その冷たさが、逆に現実を教えてくれる。
(……大丈夫)
心の中で、何度も繰り返す。
息を吸う。
吐く。
そして——
顔を上げる。
櫻井さんの目を見る。
逃げないように。
逸らさないように。
「……叔母は」
声が、震える。
でも、止めない。
「貴方のことを、最後まで想っていました」
その一言で、
空気が、わずかに揺れる。
櫻井さんの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「……でも」
続ける。
「一緒にいることは、選びませんでした」
胸の奥が、痛む。
言葉にするたびに、
叔母の決断の重さが、改めてのしかかる。
「それは——」
喉が詰まる。
でも、ここで止まれない。
「守りたかったものが、あったからです」
櫻井さんの呼吸が、わずかに変わる。
何かを察している。
でも、まだ届いていない。
私は、唇を噛む。
(……ここからだ)
一番、重い部分。
一番、伝えなければいけない部分。
手が震える。
でも、視線は逸らさない。
「……叔母は」
ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「子どもを、産みました」
その瞬間。
時間が、止まったように感じた。
櫻井さんの目が、完全に止まる。
呼吸が、消える。
(……届いた)
もう、戻れない。
私は、そのまま続ける。
「……貴方の、子どもです」
静かな声。
でも、その一言は、
すべてを変える重さを持っていた。
沈黙。
音が、消える。
櫻井さんは、何も言わない。
ただ、そこにいる。
でも、その内側では、
何かが崩れているのが分かる。
目の奥が、揺れている。
理解しようとしている。
でも、追いつかない。
(……ごめんなさい)
心の中で、そう思う。
でも、これは必要な痛みだと信じるしかない。
櫻井さんは、ゆっくりと息を吸った。
そして、かすかに声を出す。
「……なんで」
その一言に、
すべての感情が詰まっていた。
知らなかった時間。
奪われた可能性。
それでも消えない想い。
私は、まっすぐに答える。
「……貴方の夢を、守るためです」
その言葉で、
櫻井さんの目が、わずかに揺れた。
理解と、痛みが交差する。
そして——
ようやく、現実が形を持ち始めていた。




