第二十章 真実と変わらないもの
返事は、まだ来ない。
あの日、手紙を託してから、どれくらい経ったのだろう。
数日なのか、もっと長いのか。
時間の感覚が、曖昧になっていた。
スマートフォンを何度も確認してしまう。
通知は来ていない。
分かっているのに、画面を開く。
そして、何もないことに、少しだけ肩を落とす。
(……遅いな)
いや、遅いも何もない。
そもそも、届いているかすら分からないのだから。
(……来るとは限らない)
そう思うたびに、胸の奥が少しだけ重くなる。
それでも——
(……待つしかない)
そう自分に言い聞かせていた。
⸻
机の上に、あの写真がある。
何度も見たはずなのに、
気づけば、また手に取っている。
(……ほんとに)
指先で、写真の縁をなぞる。
少し擦れている角。
時間の経過を感じさせる質感。
そこに写っているのは——
満面の笑みの二人。
叔母と、櫻井さん。
こんな顔、知らない。
こんな表情、見たことがない。
病室で見ていた叔母は、
いつも優しくて、穏やかで。
でも、どこか“遠い人”だった。
それに比べて、この写真の中の叔母は——
(……普通の女の人だ)
恋をして。
笑って。
誰かに寄り添って。
当たり前のように、幸せの中にいる。
その事実が、少しだけ胸を締め付ける。
(……なんで)
こんなにも、幸せそうなのに。
どうして、この時間を続けなかったのか。
分かっている。
頭では、理解している。
手帳に書かれていた言葉。
手紙に綴られていた想い。
“守るため”。
“未来のため”。
(……それでも)
簡単に納得できるほど、軽いものじゃない。
この笑顔を見てしまったら、尚更。
(本当は)
一緒にいたかったはずだ。
隣で。
ずっと。
それでも、叔母は選ばなかった。
選べなかった。
(……強いよ)
静かに、そう思う。
そして同時に、
(……寂しい)
そうも思ってしまう。
⸻
「……何見てんの?」
不意に、声がした。
びくっと肩が揺れる。
振り返ると、弟が立っていた。
いつの間にか、部屋に入ってきていたらしい。
「……あ」
言葉が、出ない。
手に持っていた写真が、視界に入る。
(……やばい)
咄嗟に隠そうとした。
でも、その動きの方が不自然で。
弟の視線が、すっと写真に向かう。
「あ、それ」
軽く言いながら、手を伸ばす。
止める間もなく、写真が奪われる。
「……ちょ、待っ」
言い終わる前に、弟は写真を見ていた。
沈黙。
ほんの数秒。
でも、その時間がやけに長く感じる。
(……どうしよう)
頭の中が、真っ白になる。
言い訳も、説明も、何も浮かばない。
ただ、心臓の音だけが大きくなる。
弟は、じっと写真を見ている。
その表情は、読めない。
「……これ」
ぽつりと、声が落ちる。
「誰?」
その一言で、逃げ場がなくなる。
(……隠せない)
もう無理だ。
ここで誤魔化しても、意味がない。
むしろ、余計に歪む。
私は、ゆっくりと息を吸った。
覚悟を決める。
「……霞叔母さん」
まず、それだけを言う。
弟の視線が、わずかに動く。
「……と」
一瞬、言葉が詰まる。
でも、止まらない。
「……霞叔母さんの恋人みたい…」
静かな声。
でも、自分でも分かるくらい、震えている。
弟は何も言わない。
ただ、写真を見たまま。
その沈黙が、怖い。
(……どう思ってる?)
怒る?
戸惑う?
それとも——
「……へぇ」
軽い声が返ってきた。
拍子抜けするくらい、あっさりと。
「めっちゃ笑ってるじゃん」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
弟は、写真を見ながら、少しだけ笑っていた。
「こんな顔すんだな、霞叔母さん」
その言い方が、あまりにも自然で。
私の胸が、じわりと揺れる。
(……あれ)
もっと、重くなると思っていた。
もっと、何かが壊れると思っていた。
でも、違う。
弟は、いつも通りだった。
「……それで?」
写真から視線を外さずに、続ける。
「なんでそんなもん持ってんの?」
核心に触れる問い。
逃げられない。
私は、唇を噛む。
(……言うしかない)
ここまで来たら、全部。
隠し事は、できない。
したくない。
「……蓮」
名前を呼ぶ。
その声が、少しだけ掠れる。
「……本当のこと、話すね」
私は、ちらっとこちらを見る。
でも、特に驚いた様子もなく、
「うん」
とだけ返す。
その落ち着きが、逆に怖い。
私は、ゆっくりと話し始めた。
手紙のこと。
手帳のこと。
母子手帳とエコー写真。
そして——
「……蓮は」
一度、言葉を止める。
息を吸う。
「霞叔母さんの、子どもなの」
静寂。
部屋の空気が、止まる。
自分の鼓動だけが、やけに響く。
(……どうなる)
次の言葉を、待つ。
でも、弟はすぐには何も言わなかった。
写真を見たまま、少しだけ目を細める。
考えている。
その沈黙が、長く感じる。
(……やっぱり)
当然だ。
突然こんなことを言われて、
すぐに受け入れられるわけがない。
何か言わなきゃ。
フォローしなきゃ。
そう思ったとき——
「……そっか」
弟が、ぽつりと言った。
あまりにも、静かに。
あまりにも、自然に。
「……え?」
思わず、声が漏れる。
弟は、ようやくこちらを見た。
そして——
笑った。
あの、見慣れた笑顔。
でも、その一瞬。
(……似てる)
胸が、強く打つ。
櫻井さんに。
あの写真の笑顔に。
同じ、まっすぐな笑顔。
「それでもさ」
弟は、肩をすくめるように言う。
「俺の親は、今の親だろ?」
迷いがない。
はっきりとした言葉。
「育ててくれたしさ」
当たり前のように続ける。
「それに」
少しだけ、目を細める。
「姉ちゃんも姉ちゃんだろ?」
その一言で、息が止まる。
「ずっと一緒に過ごしてきたんだぜ?」
笑いながら言う。
「何も変わらないよ」
あっけないくらい、まっすぐに。
その言葉が、胸に突き刺さる。
(……なんで)
こんなに、迷いがないのか。
こんなに、強いのか。
私の視界が、じわりと滲む。
(……泣くな)
そう思っても、止められない。
「……この人に会いたい?」
震える声で、問いかける。
自分でも分からない。
何を期待しているのか。
私は、少しだけ考える素振りを見せてから、
「別に」
と、軽く言った。
「会わなくていいよ」
その言葉に、胸が揺れる。
でも、続く言葉が、すべてを決める。
「会う必要もないかな」
きっぱりと。
でも、冷たくはない。
「ここが俺の居場所で、家族だから」
静かな、でも揺るがない言葉。
それが、すべてだった。
私は、もう耐えきれなかった。
視界がぼやける。
涙が、こぼれる。
(……よかった)
そう思った。
壊れなかった。
何も。
全部、ちゃんとそこにあった。
「……何泣いてんの」
弟が、少し呆れたように笑う。
でも、その声は優しい。
「大げさだなー」
軽く言いながら、
ぽん、と頭に手を置く。
その仕草が、あまりにもいつも通りで。
私は、余計に涙が止まらなくなる。
「……バカ」
小さく、そう呟く。
でも、その声はどこか安堵していた。
変わらないものが、ここにある。
血じゃなくて。
過去じゃなくて。
今まで積み重ねてきた時間。
それが、ちゃんと“家族”だった。
窓の外では、桜が舞っている。
変わっていくものと、
変わらないもの。
その両方を抱えながら、
二人は、同じ時間の中に立っていた。




