第十九章 あの場所に Sside
葬儀が終わってから、時間の感覚が曖昧になっていた。
何日経ったのか、何週間なのか。
気づけば、季節が少しだけ進んでいる。
それでも、俺の中の時間は、あの日で止まったままだった。
仕事は、こなしている。
台詞も覚えられるし、現場にも遅れない。
求められれば、役にも入る。
周囲から見れば、何も変わっていない。
むしろ、いつも通りだと思われているかもしれない。
でも——
(……空っぽだ)
ふとした瞬間に、自分の内側が何もないことに気づく。
感情が、どこか遠い。
笑っても、それが本当に自分のものなのか分からない。
泣くことすら、うまくできない。
ただ、淡々と時間だけが過ぎていく。
(……終わったんだな)
何度も、そう思う。
頭では理解している。
もう会えない。
もう、どこにもいない。
それなのに。
(どこかで)
まだ、生きているんじゃないかと。
そんな馬鹿げた考えが、消えない。
街を歩けば、似た背中を探してしまう。
人混みの中で、ふと足を止める。
(……いない)
分かっているのに。
それでも、探してしまう。
それがもう、習慣のようになっていた。
探すことが、自分の中で“生きている理由”の一つだったから。
それが、急に消えた。
空白だけが残った。
どう埋めればいいのか、分からない。
⸻
その日も、仕事の合間だった。
気づけば、足が向いていた。
考えたわけじゃない。
ただ、自然と。
あの書店へ。
扉の前で、少しだけ立ち止まる。
(……来る意味、あるのか)
自嘲気味に、そう思う。
もう、誰もいないのに。
それでも——
手が、ドアを押していた。
鈴の音。
懐かしい、音。
店内に入ると、あの頃と変わらない空気が広がっている。
紙の匂い。
静かな時間。
何も変わっていないはずなのに。
(……いない)
それだけで、すべてが違って見える。
ゆっくりと店内を歩く。
無意識に、あの頃よく立っていた場所へ。
棚の前。
ふと、本を手に取る。
開く。
文字が目に入る。
でも、頭には入ってこない。
(……何してるんだろうな)
自分でも分かっている。
意味なんてない。
それでも、ここに来てしまう。
どこかに、残っている気がして。
彼女の気配が。
面影が。
(……馬鹿だな)
小さく、息を吐く。
そのとき。
「……お久しぶりです」
声が、落ちてきた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、あの店長だった。
変わらない、穏やかな表情。
あの頃と同じように、ただそこにいる人。
「もう来ないかと思っていました」
柔らかい声。
責めるでもなく、ただ事実を言っているだけの響き。
俺は、少しだけ眉を寄せる。
(……どうして)
その言葉に、引っかかる。
「……どうして、そう思われたんですか?」
自然と、口から出ていた。
店長は、ほんの少しだけ視線を落とす。
そして、静かに言葉を選ぶ。
「……あの子の知り合いから、亡くなったことを聞きました」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
何度聞いても、慣れることはない。
「そのときに……貴方のことを見たと、話されていたものですから」
(……見られていた)
あの場にいたことを。
あの瞬間を。
知らない誰かに。
「……その知り合いって」
問いかける。
少しだけ、前のめりになる。
何かが繋がる気がした。
店長は、その問いにすぐには答えなかった。
代わりに、カウンターの奥から一通の封筒を取り出す。
白い、何の変哲もない封筒。
それを、静かに差し出す。
「これを託されたので、お渡しします」
俺の動きが、止まる。
(……手紙?)
一瞬、過去がよぎる。
自分が書き続けていた手紙。
届くはずのなかった手紙。
でも、これは違う。
差し出されているのは、“自分宛て”のもの。
ゆっくりと受け取る。
指先に、重みが伝わる。
紙のはずなのに。
妙に、重い。
「私は託されただけです」
店長は、それ以上何も言わない。
ただ、まっすぐにこちらを見る。
「……あとは、貴方が決めることです」
その言葉だけを残して、
静かに、その場を離れていった。
引き止めることもできたはずなのに。
俺は、何も言えなかった。
ただ、手の中の封筒を見つめる。
(……なんだ、これ)
鼓動が、少しだけ早くなる。
理由は分からない。
でも、ただの手紙じゃないと、本能的に分かる。
開けるべきか。
一瞬、迷う。
でも——
(……ここじゃない)
この場で読むのは、違う気がした。
俺は、封筒をポケットに入れる。
そのまま、店を出た。
⸻
自宅に戻るまでの時間が、やけに長く感じた。
何度も、ポケットの中の存在を確かめる。
そこにあるだけで、意識が引っ張られる。
(……誰からだ)
分かっている。
さっきの会話。
“あの子の知り合い”。
“見られていた”。
点は、繋がっている。
でも、まだ輪郭はぼやけている。
部屋に入る。
ドアを閉める。
静寂。
外の音が、遠くなる。
ポケットから、封筒を取り出す。
手のひらに乗せる。
白い紙。
何も書かれていない表。
裏返す。
封がされている。
そのまま、しばらく見つめる。
(……開けたら)
何かが変わる。
そんな予感があった。
いい方向か、悪い方向かは分からない。
でも、今のままではいられなくなる。
(……それでも)
指が、封にかかる。
ゆっくりと、開ける。
紙の擦れる音が、やけに大きく響く。
中から、一枚の便箋を取り出す。
折り目を開く。
視線を落とす。
そこに書かれていたのは——
たった一行。
—
【貴方に、伝えたい真実があります。
木之本霞の姪より】
—
思考が、止まる。
(……姪?)
その言葉が、理解に時間をかける。
霞の。
姪。
つまり——
(……家族)
胸の奥が、強く打つ。
(……真実?)
その一言が、重くのしかかる。
何のことだ。
何を指している。
知らないはずのことが、まだあるのか。
(二十年も)
何も知らなかった。
何も教えられなかった。
それなのに、まだ“真実”がある?
紙を持つ手が、わずかに震える。
(……なんだよ、それ)
声には出ない。
でも、確かにそう思った。
もう終わったはずだった。
あの日で。
すべては。
それなのに——
(……終わってないのか)
胸の奥で、何かが動く。
止まっていたはずの時間が、わずかに軋む。
怖い。
正直に、そう思う。
これ以上、何を知ればいいのか。
何を受け止めればいいのか。
でも同時に——
(……知りたい)
その感情も、確かにある。
知らずに終わることは、もうできない。
ここまで来てしまったから。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
手紙を見つめたまま。
静かな部屋の中で、
止まっていた時間が、わずかに動き出していた。




