第十八章 手紙に託す想い
宮野さんの話を聞き終えたあとも、私はすぐには立ち上がれなかった。
椅子に座ったまま、ただ視線を落としている。
机の木目を、意味もなくなぞる。
頭の中では、同じ言葉が何度も繰り返されていた。
(……ずっと、探してた)
あの人は。
櫻井さんは。
二十年もの間。
たった一人の人を。
それが、どれほどの時間なのか。
どれほどの想いなのか。
想像しようとしても、追いつかない。
でも、確かにそこにあった。
宮野さんの言葉が、それを証明していた。
(……なのに)
会えなかった。
会わせなかった。
叔母は、自分の意思でそれを選んだ。
守るために。
何かを守るために。
(……全部、繋がってる)
手帳。
手紙。
母子手帳。
エコー写真。
そして——蓮。
胸の奥で、重い何かが形になる。
(……伝えるべき?)
その問いが、ゆっくりと浮かぶ。
でも同時に、別の声もある。
(……壊れるかもしれない)
叔母が守り続けたもの。
言わなかった理由。
隠し通した想い。
それを、自分が暴いてしまっていいのか。
それは、本当に“正しい”ことなのか。
私は、ぎゅっと手を握る。
爪が食い込む。
痛みで、少しだけ現実に引き戻される。
(……でも)
それでも。
(私は、知ってしまった)
もう、知らなかった頃には戻れない。
このまま何もせずにいることの方が、
どこか“逃げ”のように感じてしまう。
(あの人は)
櫻井さんは。
何も知らないまま、ここまで来た。
探し続けて。
届かない手紙を書き続けて。
(……それって)
あまりにも、一方的だ。
知らないまま終わるには、重すぎる。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
でも——
すぐに現実が追いついてくる。
(……どうやって)
会えるのか。
相手は、有名人。
簡単に会えるような存在じゃない。
名前を出せば、通してもらえるわけでもない。
むしろ、怪しまれる可能性の方が高い。
(……ファンって言えば)
一瞬、考える。
手紙を書く。
ファンレターとして送る。
それなら、届く可能性はある。
でも——
(……それは、違う)
すぐに否定する。
それは嘘だ。
騙すことになる。
もしバレたら。
もし、意図が違う形で伝わったら。
(叔母さんの……)
守ってきたものが、壊れる。
その想像だけで、胸が苦しくなる。
私は、目を閉じる。
どうしたらいいのか、分からない。
進みたいのに、進めない。
そんな中で——
「……あの人に、渡しましょうか?」
不意に、声が落ちてきた。
ゆっくりと目を開ける。
宮野さんが、こちらを見ていた。
その表情は、変わらず穏やかで。
でも、どこか覚悟を含んでいる。
「貴方の想いが綴られた手紙を」
私の心臓が、大きく鳴る。
(……今、なんて)
思考が追いつかない。
ただ、その言葉だけが、強く残る。
宮野さんは、少しだけ肩をすくめて笑う。
「渡すことは可能よ?」
軽く言っているようで、その実、簡単なことじゃないのは分かる。
「でも、会えるかどうかは分からない」
現実的な言葉。
希望と、不確定が同時にある。
「それでもいいなら、渡すわ」
その一言で、空気が変わる。
選択肢が、“現実”になる。
私は、言葉を失った。
(……渡せる)
あの人に。
櫻井さんに。
自分の言葉を。
でも——
(……それで、いいの?)
問いが、また浮かぶ。
これは、賭けだ。
届くかどうかも分からない。
会えるかどうかも分からない。
それでも、動くか。
それとも、ここで止まるか。
私は、ゆっくりと息を吸う。
胸の奥で、何かが決まっていく。
(……私だけが知ってるのは)
ずるい。
その感覚が、はっきりと形になる。
叔母の想いも。
櫻井さんの想いも。
そして——
蓮のことも。
全部を、自分だけが抱えている。
それは、どこか歪んでいる気がした。
(……ちゃんと、繋げたい)
誰かのためじゃなく。
自分のためでもなく。
ただ、“あるべき形”にしたい。
そう思った。
私は、静かに頷いた。
「……お願いします」
声は小さい。
でも、揺れていない。
宮野さんは、優しく微笑んだ。
「分かった」
それだけで、十分だった。
⸻
店を出る前に、紙とペンを借りる。
白い便箋。
何も書かれていない、まっさらな紙。
その前で、少しだけ手が止まる。
(……何を書けばいい)
言いたいことは、たくさんある。
でも、うまくまとまらない。
全部を書いてしまったら、
逆に伝わらない気がする。
私は、ゆっくりとペンを持つ。
一度、目を閉じる。
浮かぶのは、叔母の顔。
そして、櫻井さんの姿。
あの葬儀場で見た、静かな背中。
(……この人に)
伝えたい。
それだけでいい。
ペン先が、紙に触れる。
迷いながら、でも確かに言葉を綴る。
—
『貴方に、伝えたい真実があります。』
—
一度、手が止まる。
呼吸を整える。
そして、最後に書く。
—
『木之本霞の姪より』
—
それだけ。
多くは語らない。
でも、それで十分だと思った。
この一文だけで、
あの人は、きっと気づく。
私は、そっとペンを置く。
紙を見つめる。
これが、自分の選んだ一歩。
宮野さんに手紙を渡すとき、
ほんの少しだけ、指が離れなかった。
それでも、手放す。
「……お願いします」
もう一度、そう言う。
宮野さんは静かに受け取り、頷いた。
⸻
店を出る。
外の空気が、少し冷たい。
深く息を吸う。
さっきまでの空間とは違う、現実の空気。
(……あとは)
待つしかない。
それが、少しだけ怖い。
でも、やれることはやった。
そう思うしかない。
歩き出す。
その途中で、ふと立ち止まる。
(……蓮)
頭に浮かぶのは、弟の顔。
何も知らないまま、いつも通りに過ごしている。
笑って。
当たり前のように。
(……どうする)
伝えるべきか。
それとも——
知らないままでいいのか。
胸の奥が、また揺れる。
あの子の人生。
居場所。
全部に関わること。
(……まだ)
今じゃない。
そう思った。
今はまだ、何も決まっていない。
櫻井さんに会えるかも分からない。
真実をどう受け止めるかも分からない。
その状態で、蓮に伝えるのは——
(違う)
私は、小さく首を振る。
(ちゃんと、向き合ってから)
全部がはっきりしてから。
そのときに、自分の言葉で伝えたい。
逃げずに。
ちゃんと。
私は、再び歩き出す。
空は、少しだけ曇っていた。
それでも、どこかで光が差している。
まだ見えない未来に向かって、
静かに、一歩を踏み出していた。




