第十七章 本の匂いがするあの場所で
あの人に会う。
そう決めたはずなのに、私の足は、まだそこへ向かってはいなかった。
胸の奥に、引っかかるものがあった。
(……どうして)
あの手紙。
あの人が書き続けていた手紙が、どうして叔母の元に届いていたのか。
「書店で」
そう書かれていた言葉。
けれど、それは本来なら、ただの宛先のない手紙だ。
届く保証なんて、どこにもない。
むしろ——
(捨てられていても、おかしくない)
そう思う方が、自然だった。
それなのに、あの手紙は残っている。
叔母の元に、確かに届いていた。
(……誰かが)
そこに関わっている。
そう考えるのが、一番しっくりきた。
そして、同時に浮かんだ場所。
叔母が働いていた、書店。
私はスマートフォンを手に取る。
連絡先を開く。
少しだけ、ためらう。
けれど、指は止まらなかった。
未帆さんの名前を押す。
コール音が、やけに長く感じる。
数回の呼び出しのあと、繋がる。
「……もしもし?」
聞き慣れた声に、ほんの少しだけ緊張が緩む。
「あの……ちょっと聞きたいことがあって」
自分でも分かるくらい、声が固い。
未帆さんは少しだけ間を置いてから、
「……うん、なに?」
と、優しく返してくれた。
「霞叔母さんが働いてた書店って……どこか分かる?」
沈黙。
ほんの一瞬。
でも、その一瞬に、いろんな感情が含まれている気がした。
「……どうして?」
当然の問い。
私は、少しだけ言葉を選ぶ。
「……ちゃんと、知りたくて」
それだけ言うと、未帆さんはそれ以上は聞かなかった。
「分かった。送るね」
その一言が、やけにありがたかった。
通話が切れる。
すぐに、住所が送られてくる。
画面を見つめながら、私は小さく息を吐いた。
(……ここからだ)
⸻
数日後。
その書店の前に、私は立っていた。
外観は、思っていたよりも普通だった。
どこにでもありそうな、街の本屋。
大きすぎず、小さすぎず。
でも——
(ここにいたんだ)
叔母が。
あの時間を。
あの人と出会った場所。
胸の奥が、少しだけざわつく。
扉の前で、足が止まる。
入るだけなのに、妙に勇気がいる。
(……大丈夫)
小さく、自分に言い聞かせる。
そして、ドアを押した。
軽い鈴の音が鳴る。
店内に入った瞬間、紙とインクの匂いがふわりと広がる。
懐かしいような、落ち着く匂い。
思わず、少しだけ肩の力が抜ける。
本棚が並ぶ。
静かな空間。
数人の客が、それぞれ本を手に取っている。
日常の中にある、普通の光景。
それなのに、私にとっては特別な場所だった。
(……ここで)
二人は出会った。
何度も会って。
言葉を交わして。
少しずつ距離を縮めていった。
そんな時間が、この空間にあった。
ゆっくりと歩く。
本棚をなぞるように。
何かを探しているわけでもないのに、
どこか、足が自然に進んでいく。
そのとき。
「……霞ちゃん?」
不意に、声がした。
柔らかくて、どこか懐かしさを含んだ声。
私の足が止まる。
心臓が、一瞬だけ強く跳ねる。
(……今)
確かに、そう呼ばれた。
振り向く。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
叔母より、少し上くらいの年齢。
落ち着いた雰囲気。
優しい目元。
どこか、この空間に馴染みすぎている人。
女性は、じっと私を見つめている。
驚きと、懐かしさと、少しの戸惑い。
そのすべてが混ざったような表情。
「……あ、ごめんなさい」
すぐに、少し困ったように笑う。
「知っている人に似ていたから……つい…。
…霞ちゃんの知り合い…、かしら?」
その一言で、胸が少しだけ締め付けられる。
(……やっぱり)
ここには、叔母の記憶が残っている。
私は、小さく頭を下げる。
「……姪です」
そう言うと、女性の目がわずかに見開かれた。
「……そう」
静かに、納得するように頷く。
そして、ほんの少しだけ、表情が柔らかくなる。
「やっぱりね。どこか面影があると思った」
その言葉が、優しく胸に落ちる。
女性は少しだけ近づいてきて、穏やかな声で続ける。
「…ここには、何しに?」
一拍。
そして、視線が、少しだけ深くなる。
「もしかして——手紙のこと?」
私の呼吸が、止まる。
(……やっぱり)
ここだ。
間違いない。
私は、小さく頷く。
女性は、ふっと柔らかく笑った。
「立ち話もなんだから、少し奥で話しましょうか」
その自然な流れに、私はただ従うしかなかった。
⸻
店の奥。
小さなスペース。
椅子に座ると、少しだけ現実感が戻ってくる。
女性は向かいに座り、ゆっくりと口を開いた。
「私は宮野友紀。この店の店長をしてるの」
穏やかな自己紹介。
でも、その目はどこか遠くを見ている。
きっと、過去を思い出している。
「……あの子には、随分お世話になったのよ」
“あの子”。
その呼び方に、親しさが滲む。
私は、自然と背筋を伸ばす。
「……手紙のこと、ですよね」
小さく切り出す。
宮野は、ゆっくりと頷いた。
「ええ」
そして、一度だけ、目を伏せる。
ほんの少しの間。
言葉を選ぶように。
「……あの人、よく来てたの」
“あの人”。
名前を出さなくても分かる。
「常連さんでね。最初は普通のお客さんだったんだけど」
少しだけ、口元が緩む。
「ある時から、必死になってた」
私の胸が、わずかにざわつく。
「霞ちゃんを、探してたの」
その言葉は、思っていたよりもまっすぐで。
飾りがなくて。
だからこそ、強く響いた。
「最初はね、偶然会えると思ってたみたい」
「でも、来ても来ても会えなくて」
「それでも、来るのをやめなかった」
淡々と語られるその事実が、
あの人の時間を、そのまま映しているようだった。
「手紙を書いてきたのは、その頃ね」
宮野は、少しだけ苦笑する。
「最初は、どうするつもりなのかと思ったわ」
「宛先もなくて、ただ“ここに置いておいてほしい”って」
私の指が、無意識に握られる。
「でもね」
宮野の声が、少しだけ柔らかくなる。
「本気だったのよ、あの人」
その一言に、迷いはなかった。
「人気が出て、忙しくなって」
「それでも、ずっと、ずっと探してた」
少しだけ、目を伏せる。
「あんなに一途な人、なかなかいないわ」
静かな言葉。
でも、その中にある重みは大きい。
「だからね」
宮野は、ゆっくりと私を見る。
「協力したくなっちゃったのよ」
ほんの少しだけ、いたずらっぽく笑う。
「内緒でね、届けてたの」
私の呼吸が、わずかに揺れる。
「……でも」
宮野の声が、少しだけ低くなる。
「霞ちゃんとの約束もあったから」
その言葉に、私は目を見開く。
「……約束?」
宮野は、ゆっくりと頷く。
「“もしあの人が来ても、何も伝えないでほしい”って」
静かな、でもはっきりとした言葉。
(……やっぱり)
胸の奥が、じわりと痛む。
「だからね」
宮野は、少しだけ困ったように笑う。
「これは、私なりの“せめてもの罪滅ぼし”」
その言葉は、軽くはない。
でも、どこか優しさがあった。
「約束は守りたかった」
「でも、あの人の想いも、無かったことにはできなかった」
その狭間で選んだ行動。
誰も責められない。
誰も正しくて、誰も苦しい。
私は、言葉を失っていた。
ただ、胸の奥にある感情が、ゆっくりと形を持っていく。
(……ちゃんと、想われてた)
叔母は。
確かに。
そして、同時に——
(……それでも、離れた)
その意味が、より深く、重くなる。
私は、静かに息を吸った。
もう、迷いはなかった。
(……会いに行こう)
すべてを知ったうえで。
あの人に。




