第十六章 叔母の本音
手紙を閉じたあとも、私の指はしばらく動かなかった。
膝の上に置かれた紙の重みが、そのまま胸にのしかかっているようだった。
(……終わりにしましょう)
その一文が、何度も頭の中で繰り返される。
あまりにも整いすぎた別れ。
優しすぎるほどの決断。
けれど——
(これは、本音じゃない)
なぜか、そう思った。
あの人が、本当にこれだけで終われるとは思えなかった。
あんなに、静かに、深く想っていたのに。
それを、こんな綺麗な言葉だけで閉じるなんて。
私はゆっくりと視線を落とす。
手紙の横に置かれた、古い手帳。
さっきまでとは違う意味を持って見える。
(……こっちだ)
そう直感する。
言えなかった言葉は、きっとここにある。
そっと手帳を開く。
ページをめくる。
日付が進む。
そして——
あるページで、指が止まった。
そこだけ、文字の密度が違う。
いつもより少し強い筆圧。
整っているのに、どこか感情が滲んでいる。
私は、息を整えてから、目で追った。
⸻
——ホントは、貴方と一緒にいたい。
—
その一行で、胸が強く締め付けられる。
さっきの手紙とは、まるで違う言葉。
—
——傍で、夢を叶える貴方を見ていたい。
—
震えている。
言葉が。
抑えきれない感情が、そのまま文字になっている。
—
——貴方の一番のファンでありたい。
—
私の視界が、わずかに揺れる。
—
——でも、これは自己満足な気持ち。
—
そのあとに続く言葉が、あまりにも静かで。
—
——貴方に伝えたくなかった。
—
手帳の上に、ぽつりと落ちたような一文。
—
——貴方は、人の想いをちゃんと受け止めて、考える人だから。
—
そこで、私の手が止まる。
(……ああ)
分かってしまう。
この人は、知っていた。
自分が何かを言えば、あの人は止まるかもしれないと。
迷うかもしれないと。
だから、言わなかった。
言えなかった、じゃない。
“言わなかった”。
—
——だから、言わない。
—
短い一文。
でも、その中にある決意は、あまりにも重い。
—
私は、息を吐くことすら忘れていた。
胸の奥が、じわじわと熱くなる。
(……そんなの)
優しすぎる。
優しすぎて、苦しい。
ページをめくる。
そこには、少し日付が空いて、また文字が続いていた。
—
——貴方からは、素敵な贈り物をたくさん貰いました。
—
少しだけ、字が柔らかくなる。
思い出しているときの、穏やかな表情が浮かぶような文字。
—
——初めての誕生日には、ネックレスを。
—
指先で、私は無意識に自分の首元に触れる。
そこには、何もない。
けれど、その重みが想像できてしまう。
—
——初めての二人の記念日には、指輪を。
—
(……指輪)
胸の奥で、何かが引っかかる。
約束。
未来。
そんな意味を持つもの。
—
——そして、最後には。
—
そこで、一瞬だけ言葉が途切れている。
—
——最高の贈り物をもらいました。
—
私の呼吸が、浅くなる。
—
——子どもを授かったことです。
—
時間が、止まる。
音が、消える。
その一文だけが、やけに鮮明に浮かび上がる。
(……子ども)
指先が、震える。
ページをめくることができない。
でも、目が離せない。
—
——それだけで、十分な幸せをありがとう。
—
その言葉は、あまりにも静かで。
でも、すべてを包み込むような強さがあった。
—
私の中で、点と点が、急激に繋がっていく。
母子手帳。
エコー写真。
叔母の字。
そして——
(……弟)
胸の奥が、大きく揺れる。
(……蓮)
あの子の顔が浮かぶ。
笑っている顔。
何も知らずに、当たり前のように家族として過ごしてきた時間。
(……まさか)
呼吸が乱れる。
手帳を持つ手が、わずかに強くなる。
(……じゃあ)
その先の答えが、浮かびそうになる。
でも、まだ、認めたくない。
認めてしまったら、すべてが変わる気がして。
(……でも)
もう、分かっている。
分かってしまった。
(あの人が)
葬儀場で見た、あの人。
手帳に書かれていた名前。
(H・S)
ゆっくりと、その名前が形を持つ。
(……実父)
言葉にした瞬間、胸の奥が強く締め付けられる。
現実が、急に重くなる。
私は、手帳を胸に引き寄せた。
ぎゅっと抱きしめるように。
(……霞叔母さんは)
守ろうとしたんだ。
全部を。
あの人の未来も。
そして——
この子の命も。
(自分の命よりも)
その事実が、あまりにもはっきりと伝わってくる。
涙が、自然と溢れる。
止めようとしなくても、止まらない。
(……こんな)
一人で、全部抱えて。
誰にも言わずに。
それでも、最後まで優しくて。
(……ずるいよ)
小さく、心の中で呟く。
どうしてそんな選び方ができるのか。
どうして、そこまで誰かを思えるのか。
理解したいのに、追いつかない。
でも——
(……知りたい)
もっと。
ちゃんと。
この人が、どんな人生を生きたのか。
私は、ゆっくりと顔を上げる。
涙で滲む視界の中で、
机の上にあるものたちが、少し違って見えた。
それはもう、ただの「遺品」じゃない。
叔母が生きた証そのもの。
(……会わなきゃ)
あの人に。
櫻井さんに。
この想いを、知らないままにしていいはずがない。
私は、そっと手帳を閉じた。
その動作は、とても静かで。
でも、その中には確かな決意があった。
叔母が守り続けたものを、
今度は、自分が受け取る番だと——
はっきりと分かっていた。




