第十三章 叔母の想い
時計の針の音だけが、やけに大きく響いている。
私は机の前に座り、ゆっくりと息を吐いた。
目の前には、古い手帳と、束ねられた手紙。
どちらも、まだ「触れただけ」の存在だった。
知りたいと思いながら、どこかで怖がっていた。
けれど今は、その迷いが少しだけ薄れている。
母子手帳とエコー写真を見たあとでは、もう後戻りはできない気がした。
(……ちゃんと知ろう)
小さく心の中で呟き、手帳に手を伸ばす。
表紙は柔らかく擦れていて、長く使われていたことが分かる。
そっと開く。
最初のページ。
整った字が並んでいる。
日付と、短い言葉。
最初は、何気ない日常の記録だった。
仕事のこと。
読んだ本の感想。
天気のこと。
淡々としていて、どこか穏やかで。
私の知っている叔母、そのままのように見えた。
けれど、ある日を境に、文字の温度が変わる。
「今日は、少しだけ不思議な人に出会った」
私の指が、ぴたりと止まる。
その一行だけで、空気が変わる。
(……これが)
胸の奥が、わずかに高鳴る。
続きを読む。
「本をたくさん抱えていて、全部落としてしまっていた人」
「慌てていて、でもどこか落ち着いていなくて、少し可笑しかった」
思わず、純恋の口元が緩む。
想像できる。
静かな書店で、本が雪崩のように崩れる光景。
その中心にいる人。
そして、それを見ている叔母。
「手伝ったら、とても丁寧にお礼を言われた」
「少し話をした」
「本の話をした」
そこから、文字が少しずつ増えていく。
短かった記録が、少しずつ長くなる。
「また会った」
「偶然、同じ本を手に取った」
「名前を聞いた」
「櫻井さんというらしい」
私の視線が、その名前で止まる。
(やっぱり)
胸の奥にあった点が、ゆっくりと線になっていく。
ページをめくる。
会う回数が増えていく。
本の話。
好きな物語の話。
笑ったこと。
少しずつ、距離が縮まっていく様子が、そのまま文字になっている。
「気づいたら、会うのが楽しみになっていた」
「こんなふうに誰かと話すのは久しぶり」
その一文に、純恋はわずかに息を止める。
(……叔母さん)
知らなかった顔。
知らなかった感情。
そこに確かに存在している。
ページをめくる手が、少しだけ慎重になる。
やがて、ある日付のところで、言葉が変わる。
「今日、告白された」
ほんの少しだけ、字が揺れている。
「驚いた」
「でも、嬉しかった」
「少し迷ったけど」
「ちゃんと、好きだと思ったから」
「お付き合いすることにした」
私の胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
(……恋人)
叔母が。
誰かと。
そんな当たり前のことが、どうしてこんなにも遠く感じるのか分からない。
病室の中にいた人。
ずっとそこにいた人。
その人が、こんなふうに恋をしていたなんて。
ページをめくる。
そこからの記録は、少しだけ柔らかくなる。
「今日も会えた」
「一緒に本を読んだ」
「笑った」
短い言葉の一つ一つに、温度がある。
読んでいるだけで、その時間の暖かさが伝わってくる。
(……幸せだったんだ)
自然と、そう思う。
無理に作ったものじゃない。
ちゃんとそこにあった、日常の幸せ。
けれど。
少しずつ、その流れが変わっていく。
「最近、忙しそう」
「会う時間が減った」
「でも、仕方ない」
ページをめくるたびに、間隔が空いていく。
会った日の記録が、少なくなる。
「書店で待ち合わせできなくなった」
「人が増えて、落ち着かない」
「少し寂しい」
私の指が、わずかに止まる。
(……人気)
ふと、頭に浮かぶ。
葬儀で見たあの人。
そして、後から気づいた“俳優”という存在。
手帳の中でも、それは少しずつ現れてくる。
「オーディションが増えたみたい」
「忙しそうだけど、嬉しそうだった」
「応援したいと思った」
その言葉に、迷いはない。
ただ、まっすぐで。
優しい。
けれど、その優しさが、どこか切ない。
ページをめくる。
「家に呼ばれた」
私の呼吸が、わずかに浅くなる。
「落ち着く場所で話したいと言われた」
「少し緊張したけど、嬉しかった」
その後の記録は、穏やかだった。
「一緒にご飯を食べた」
「本を読んだ」
「何気ない話をした」
「とても、安心した」
短い言葉なのに、その空気が伝わってくる。
外で会えなくなった代わりに、
二人だけの時間が、そこにあった。
「静かで、あたたかい時間だった」
私は、ふっと息を吐く。
(……よかった)
知らなかっただけで、
ちゃんと幸せな時間があった。
それが、少しだけ救いになる。
でも同時に——
胸の奥に、小さな引っかかりが残る。
(どうして)
この時間は、続かなかったのか。
手帳を閉じることができない。
まだ、この先がある。
知ってしまう怖さと、
それでも知りたい気持ちが、せめぎ合う。
私は、静かに視線を落とす。
手帳の隣にある、手紙の束へ。
二十年分の時間。
まだ、触れていない言葉たち。
(……ここからだ)
小さく、息を整える。
そして、そっと一通を手に取った。
指先に伝わる重みが、
これから知ることの深さを、静かに教えていた。




