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第十二章 叔母のこと

部屋の中は、やけに静かだった。


カーテン越しの光が柔らかく差し込んで、畳の上に淡く広がっている。


その中央に、私は一人、座っていた。


膝の上にあるのは、少しだけ色褪せた母子手帳。


指先で、ゆっくりと表紙をなぞる。


紙のざらつきが、妙に現実的だった。


(……これが)


叔母の、時間。


自分が知らなかった時間。


そっと開く。


ページをめくるたびに、乾いた紙の音が小さく響く。


整った字。


見慣れたはずの、叔母の字。


病室で見ていた丸みのある優しい文字と、変わらない。


でも、書かれている内容は、知らないものばかりだった。


日付。


体調の記録。


医師の所見。


その一つ一つが、「生きていた証」のように感じられる。


胸の奥が、じわりと熱くなる。


ページの途中で、指が止まる。


挟まれていた一枚の紙。


私は、エコー写真の端に、そっと指先を触れた。


薄くて、頼りない紙。


少し力を入れれば、簡単に折れてしまいそうで。


思わず、息をひそめる。


壊してはいけないものに触れている——そんな感覚が、指先からじわりと伝わってきた。


それがなぜなのか、うまく言葉にはできない。


けれど。


これは、大切にしなければいけないものだと、


理由もなく、ただ、分かった。


本能のように。


胸の奥で、小さく何かが鳴る。


触れているのは、ただの紙のはずなのに、


そこにある時間や想いまで、一緒に手のひらへ流れ込んでくるような気がした。


私は、そっと指を離す。


けれど、その温度だけが、いつまでも残っていた。


(どうして)


その問いは、もう何度目か分からない。


でも、答えはどこにもない。


母子手帳を閉じる。


そのまま、胸の上に抱え込む。


目を閉じると、自然と浮かんでくるのは——


病室の光景だった。


白いカーテン。


消毒液の匂い。


ベッドの上で、笑っている叔母。


「いらっしゃい」


そう言って、いつも手を振ってくれた。


明るくて、柔らかくて、優しい声。


子どもだった自分たちは、その声が好きだった。


病院という場所の冷たさを、全部溶かしてしまうような人だった。


「今日はね、いいお話があるよ」


そう言って、本を開く。


ページをめくる音。


言葉が紡がれていく。


気がつけば、自分は物語の中にいた。


知らない世界に連れて行ってくれる。


怖い話も、悲しい話も、最後には必ず優しく終わる。


叔母の声で聞くと、どんな話も“安心できるもの”になった。


(……あの時間)


幸せだった。


何も疑っていなかった。


あの人は、ずっとああいう人だと思っていた。


優しくて、明るくて。


少しだけ体が弱いだけの。


それだけの人。


でも——


ふとした瞬間に見せる表情があった。


本を閉じたあと。


窓の外を見ているとき。


ほんの一瞬だけ、遠くを見るような目。


(……あれは)


子どもの頃は、気にも留めなかった。


ただ、「ぼーっとしてるな」くらいにしか思っていなかった。


でも今は、違う。


その表情の意味を、考えてしまう。


一番強く残っているのは——


「美女と野獣」の話。


愛が試される場面。


離れる決断をする場面。


そのあたりに差し掛かると、叔母の声は少しだけ静かになった。


ほんのわずかに、間が空く。


そして、続きを読む。


いつも通りに。


何もなかったように。


(……どうして)


あのときの違和感が、今になって輪郭を持つ。


ただの物語じゃなかったのかもしれない。


誰かを、重ねていたのかもしれない。


誰かを、思っていたのかもしれない。


私は、ゆっくりと目を開けた。


視線の先にあるのは、机の上に並べられたもの。


古い手帳。


ジュエリーボックス。


そして——束ねられた手紙。


どれも、まだ全部は見ていない。


触れただけで分かる。


これは、軽いものじゃない。


叔母の「過去」そのものだ。


(……やっぱり)


気になる。


どうしても。


あの優しい人の中に、何があったのか。


どんな時間を生きてきたのか。


そして——


S。


あの写真の人。


葬儀で見かけた、あの人。


名前だけが、静かに頭の中に浮かぶ。


櫻井さん…。


(あの人は、誰だったの)


胸の奥が、わずかにざわつく。


怖さもある。


知ってしまったら、戻れない気がするから。


でも、それ以上に——


知りたい、という気持ちが強い。


(叔母さんのこと)


ちゃんと、知りたい。


病室の中だけじゃない。


あの人の全部を。


私は、ゆっくりと手を伸ばす。


まずは、手帳へ。


指先が、表紙に触れる。


ほんの少しだけ、息を止める。


それから——


決めるように、開いた。


(探そう)


誰にも頼らず。


自分の手で。


叔母が生きた時間を。


選んだ人生を。


そして——あの人との関係を。


静かな部屋の中で、


小さな決意が、確かに形になっていた。



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