序章 桜満開
桜が舞っていた。
風が吹くたびに、淡い花びらが空を泳ぎ、病院の窓の外をゆっくりと流れていく。
その光景を、私はぼんやりと眺めていた。
「……もう間もなくかと思われます。耳は最後まで聞こえてますから、想いを伝えてください。」
看護師さんの静かな声が、病室の空気を少しだけ揺らした。
ベッドの上には、叔母が眠っている。
小さな体は白いシーツに包まれ、胸の上下もほとんど分からないほど弱々しい。
長い間、闘病してきた。
物心ついた頃から、叔母はずっと病院にいた。
私にとって病院は、怖い場所ではなかった。
むしろ、楽しい場所だった。
そこに叔母がいたから。
「来てくれたの? 今日は何して遊ぶ?」
いつも笑顔で迎えてくれて、
本を読んでくれたり、くだらない話をして笑ったり。
弟と一緒に見舞いに来ると、叔母はとても嬉しそうだった。
「二人とも大きくなったねぇ」
そう言って頭を撫でてくれる手が、私は大好きだった。
だから――
叔母が死ぬなんて、考えたこともなかった。
ピッ……
小さな電子音が鳴った。
母が、声を押し殺して泣き始める。
父は何も言わず、叔母の手を握ったまま動かない。
私は、ただ立っていた。
何も分からなかった。
ただ、胸の奥が空っぽになる感覚だけがあった。
桜の花びらが、窓の外で舞っている。
その日、叔母は息を引き取った。
そして私は、初めて「死」というものを目の前で見た。
私は、ふっと、ベッド脇にぎっしりと並べられた本棚を見た。叔母が好きな本たち。絵本から小説、エッセイ、詩集まで、彼女の人生の断片がそこに積み上げられていた。
幼い自分と弟との、ここでの思い出が急に蘇る……
幼い頃から、私はこの病室が大好きだった。ベッドに横たわる叔母の隣でページをめくり、彼女の声に耳を傾ける時間は、病院の匂いや消毒液の冷たさを忘れさせてくれたからだ。弟と一緒にかくれんぼをしたり、秘密の本をこっそり取り出して見せてもらったり。病院の外の世界に行きたい気持ちもあったけれど、叔母と一緒にいられるこの場所が、私にとっては唯一の“特別な世界”だった。
「ねえ、霞おばちゃん。今日はどの本を読んでくれるの?」
「ふふ、菫。今日はね、特別な本を選んでおいたのよ。」
叔母の声は、病室の白い壁を柔らかく包み込む。私の胸が、少しだけ温かくなる瞬間だった。
初めて叔母と本を読んだ日のこと。手に取ったのは『美女と野獣』の絵本。ベルが野獣の城を訪れ、恐怖と好奇心の入り混じった表情で城を歩く場面を、一緒に声に出して読んだ。その時の叔母の笑顔、そして私が感情を爆発させてしまった瞬間も、ありありと思い出せる。
弟も小さな手を握りながら、「僕もベルになりたい」と言ったっけ。叔母は笑いながら、「じゃあ私は野獣になるわ」と応え、私たちを楽しませてくれた。病室の中で遊ぶたび、私は現実の世界を忘れ、ただ叔母の優しい声と、ページの中の物語だけに浸っていた。
でも、その日は違った。叔母の顔が少しだけ疲れているように見えた。眉の間に小さな皺が寄っていて、手を差し伸べると、ほんの少しだけ震えていた。私は不安な気持ちになり、胸の奥がきゅっと痛くなる。
「大丈夫?」と聞く私に、彼女は微笑んだ。
「大丈夫よ、菫。心配しなくても、今日は元気だから。」
その声に安心しつつも、私の心は小さな疑問でいっぱいだった。「ずっと病院にいるのに、本当に大丈夫なの?」
病室の外では、桜が風に揺れて、淡い光と影を作り出している。私は窓越しに桜を見つめながら、叔母と過ごす日々の大切さを、幼いながらに強く感じた。弟が私の手を握り返す。彼も、同じ気持ちでいることが伝わる。
その夜、私はこっそり自分の本棚から、叔母のお気に入りの小説を一冊取り出した。ページをめくると、彼女が読んでくれた時の声が耳に蘇る。文字が光の中で踊るように見え、物語の中のベルと野獣の心の葛藤を、自分の胸の中で感じた。
「霞叔母さん、私も大人になったら、こんな風に誰かを守れるかな。」
心の中でつぶやくと、なぜか涙が頬を伝った。悲しいとかじゃなく、ただ感謝と愛しさと、少しの切なさが混ざった涙だった。




